71...
その日、沖矢が工藤邸に帰ってきたのは、珍しくも日付が変わってからだった。大学院の論文発表が間近だという話はもちろん嘘。しかし、沖矢はその嘘がたとえなまえにバレることさえ厭わないと思っている。彼が彼女に対してまだ秘密にしておきたいと思っている事項は次のふたつ。今、FBIの赤井秀一として自分が立ち回って調べている内容と、彼女への態度をわずかばかり意図的に変えている理由についてだけである。
キッチンの明かりがまだついたままだったので、まさか愛しいルームメイトが起きて自分を待ってくれているのかと期待して扉を開ければ、そこにはダイニングテーブルの上に顔を伏しているなまえの姿があって、沖矢は思わず傍に駆け寄った。昨日見たパジャマ姿は上に何も羽織ることもなく薄手のようだったし、まさか具合でも悪くなったのではないかと心配で躊躇いがちに彼女の体に触れてみる。けれど、さほど熱は高くなく、単に眠っているだけのようで、沖矢は安堵しながらその顔を覗き込んだ。
細い髪の隙間から見えた、固く閉じられた瞼。わずかに腫れているのは、おそらくこのテーブルの上に置き去りになったふたり分のティーカップから推理するに、江戸川コナンと何らかのやり取りがあったためであろうということはすぐに察しがついた。その証拠に、今朝、彼から受け取ると電話で話をしていた、例の『二年A組の孔明くん!』という本が無造作に置いたままになっている。
一体、彼らの間に何があったのか。それを探るために持ち前の慧眼を以って観察を続けていると、彼女の傍に置かれたティーカップからやけに酒の匂いがするのを感じ取った。音を立てないよう慎重に、陶器でできた取っ手を持って軽く回せば、底には見慣れた琥珀色の液体がわずかに溜まっている。それが紅茶でないことは香りからも明らかで、沖矢はとっさにカウンターに出しっぱなしにしている自身の嗜好品、バーボンのボトルの減りを見た。
……少しだが、減っているような気がする。
とにかく、今は風邪を引かせないためにも彼女を起こして、自室に行かせるより他にない。下戸のくせに酒を飲んだ理由は確かに気になるところではあるが、尋ねてみるのは明日の朝でいいだろう。そう思い、沖矢は軽く彼女の肩を揺すって起こそうとした。
だが、目が開くよりも先に彼女の口が微かに動いたのだ。それも、か細く、泣きそうな声で。
「行かないで……、お願い」
どうやら悪い夢にうなされているらしい彼女に、沖矢は思わず揺すっていた手を止めた。きっと、これはまたあのときと同じ。いつかふたりして、玄関で座ったまま眠ってしまったときと同様、彼女はまた自分ではない誰かのことを思って泣きながら眠っているのだろう。おおよそ、その相手とは、彼女の旧友か、もしくは好意を寄せていたバーボンのことと察しがつく。そう思うとまるで醒めてしまうように面白くなくて、沖矢は彼女にブランケットをかけてその場から離れようとした。
しかし次の瞬間。起きているのではと一瞬、疑ってしまったほどはっきりと、続けざまに呼ばれた名に足を止めてしまう。
「赤井さん……」
「!」
そんなあまりの不意打ちに、彼はらしくもなく呆然と突っ立ってしまった。胸が鳴った理由はただひとつ。彼女の口から他の男の名でも、ましてや沖矢昴でもない。あんなにも嫌って避け続けていたはずの赤井の名を自らが切なげに呼んで、助けを求めるように「行かないで」と言う。その事実が堪らなかったからだ。
「どうやら、効果はあったようだな」
沖矢はそうひとりごちて、どうにか彼女を椅子から降ろし、軽く姫抱きにする。そしてそのまま二階の彼女の部屋まで運び、ベッドの上に寝かせた。途端、まるで百億は下らないさえと思えるほど素晴らしい絵画のように、白いシーツの上で横たわる彼女が神々しいほど美しく見えて。抑圧していたはずの「触れたい」という願望が琴線に触れて、かけていた眼鏡をその場で乱雑に外した。
カシャン、とそれが床に落ちた音が契機となった。衣摺れや振動を立てないよう細心の注意を払いながらも、高ぶった気持ちをぶつけるように彼女の上にどさりと覆いかぶさる。そして、眠っていることをいいことに、その眼に映るなまえの至るところすべてを余すことなく愛するように、甘いキスの雨を降らせていくのだ。
自ら漏れる微かな吐息やリップノイズが、静かな部屋では大袈裟なほど鼓膜に貼りつき、逆に自身の情欲を掻き立てる要素になった。指の隙間からこぼすようにかき分けた彼女の細い髪、白い額、頬。無防備な指を自分のと絡め、その手の大きさの差異まで意識して愛しくなる。きめの細かい柔肌はどこも滑らかで、重ねれば重ねるほどまるで離れがたくなるように気持ちがいい。宿り木のように光が集まる睫毛、わずかに腫れて赤みを帯びた瞼、濡れた目尻、尖った鼻の先。そのどれも狂おしいほど愛らしくて、一刻も早くこのすべてが自分のものになればいいのにと切に願う。そしたらまるごと、俺が全部愛してやる。
返事が欲しいはずなのに、家族だ何だと言われれば遠回しに振られているような気になって。少し前から身勝手にもイエス以外の返事ならいらないとさえ思うようになっていた。だからこそ最近、あえて触れるのをやめていたのだ。姑息な駆け引きと思われようがどうでもいい。ただ、なまえが自分のことで困惑する度に、彼女の頭の中を占める割合が多くなればいいと思った。しかし、むしろ悪化した関係性に逆効果を思ってそろそろこの態度も潮時かと感じていたのだが、ここにきてその兆しが見えたのである。それは、触れられないもどかしさを見かねた神様が与えてくれた褒美かと思うほどの絶好の好機。その甘い享受の蜜を、貪るようなキスで丁寧に舐め取っていく。
どれほど好いているか滔々と教え込ませるためにも、このまま無理やりなまえを抱いてしまおうかと思った。上に着たブラウスの裾に手を入れるかどうか。散々迷った挙句、臍のあたりまで指を滑らせる。まずいな、猛烈に抱きたい。それもお互いぐちゃぐちゃに、溶け合うようなセックスでないと駄目だ。激しい熱の波を力まかせに打ちつけて、自分なしでは生きていられないと思わせるほどの快楽に酔わせて独占したい。今の彼はたったひとりの女を目の前にして、思った以上に自分が欲情していることをはっきりと自覚していた。それほど彼女のことを愛してしまったのだ。
けれど結局、指が入ったのはそこまでだった。沖矢は自分の理性を立て直し、冷静になるために今一度、体を起こして距離を取る。その際、大きく鳴ったベッドの軋みから、無意識的に苦しそうに眉根を寄せている彼女。そのふっくらとした赤い唇を指先でなぞった。
頼りない理性でも唇へのキスを避けたのは、大切にとっておきたかったから。セックスも同じ理由で、手を出すにはまだ早計だと判断したのである。想像の中で何度も抱いた女ではあるが、やっぱり最初は合意がいい。その方が、お互い何倍も気持ちよくなれる。
わずかばかり効果の見えた実験的な駆け引きがきちんと成功した暁には、遠慮なくそこに深い口づけを落とそう。沖矢はそう決め込んで、名残惜しくもベッドから降りた。もしも今、たとえ寝言でも再び自分の名を呼べばと淡い期待も抱いたりしたが、なまえはこちらの気も知らずにすうすうと寝息を立てて眠り続けている。その安らかな少女のような表情に、沖矢は再び眼鏡を掛け直しながら笑みを浮かべた。
「手放してやるもんか。絶対に」
細い髪を指に絡ませ解くと、彼はようやく部屋を出る。いつか願ったように、彼女と同じベッドで毎日「おやすみ」を言い合って眠る日も、そう遠くはない。そんな気がしていた。
case71. ティーカップでバーボンを
翌朝のなまえは何も記憶がないようで、沖矢が危惧していた甲斐も虚しく、彼を見ても一切気まずそうにしたりする素ぶりは見せなかった。ただ、起きたとき自室にいたことは何となくおかしいと思っているようで、テレビを見ながら何度もぼんやりと首を捻っている。その様子には、いくら好都合とはいえども、さすがの沖矢もつい隠さずに笑ってしまいそうになった。と同時に、今後、彼女に外で酒を飲ませては絶対にいけないということは改めて思う。無防備な彼女を目の前にすればその魅力に当てられて、理性のない獣に成り下がってしまう男は五万といるだろうと思えたからだ。
以前、一緒に食べてから、ふたりしてすっかりはまってしまったベイカベーカリーの六枚切り食パン。評判の由来は、そこのパン職人が専門店でもないどこかの喫茶店で食べたサンドウィッチにえらく感銘を受け、同じものを作りたいという強い気持ちからパン開発を始めた末の結果らしい。だが、焼けばさっくりと美味しいその食パンも、サンドウィッチにした途端に柔すぎて頼りなくなってしまうことから、職人は深く思い悩んでいるのだという裏話もあった。
そんな逸話のある食パンの上に余剰分を冷凍保存に切り替えていたレモンカードを塗った、沖矢も好物であるレモントースト。彼はコーヒーとともになまえにそれを差し出しながら、彼女の目の前に座ってにこにこと昨日のことを尋ねる。
「昨晩のバーボンの味はいかがでしたか?」
そう言うと、なまえはようやく意識を覚醒させて、やっぱり! と叫ぶのだ。
「やっぱり、私を部屋まで運んでくれたのって昴くんだった?」
「? 何のことですか?」
「え」
「僕が帰宅したときは、バーボンを入れて飲んだ形跡のあるティーカップがダイニングテーブルの上に放置されていただけですけど」
自分でそう言いながら、沖矢は笑いそうになるくらいの白々しさを己に感じていた。しかし、なまえはそれを真に受けて顔を赤くし、そっか、とだけ相槌を打つ。そして、彼が気にしていた下戸なのにバーボンを呷った理由について、尋ねられてもいないくせに自ら白状するように口にするのだ。
「ティーカップでバーボンを飲もうと思ったのは、昴くんのことをちょっとでも知ろうと思って」
「え?」
「だって私、何も知らないから。だからせめて好きなものはどんな味がするのかなって、ちょっとした好奇心で飲んでみただけなの」
でも最初の一口で駄目だと思って、後は一気飲みしたからあんまり味のことはよく覚えてないんだけど、となまえは焦りながら言い出して、沖矢は呆れて頭を抱えたくなるくらい困惑する。可愛すぎやしないだろうか、この女。やっぱり昨日、飽きるまで抱いておけばよかったと思わず後悔しそうになる。自然な風を装って顔を背けたものの、にやけそうになる口元を必死で堪えるように押さえて黙っていた。
もしもこの先、希望があれば、今度は手取り足取り教えてあげたい。バーボンの味も。それから、どれだけ自分がなまえのことを深く愛しているのかということも。その身をもって。丹念に。
「ねえ、昴くん」
なまえはパンをもそもそと食べながら、突然、神妙に彼の名を呼んだ。しかし、呼び止めた割になかなか話し出さないなまえに対し、沖矢は促すように尋ね返す。
「なまえさん。どうかされましたか?」
「その……、あのね……」
ためらうような言葉ばかりを口にした後、なまえはとうとう心を決める。
「この前の告白の返事がしたいから、次の私の休みの日に、聞いてくれる、かな」
何だ、と沖矢は思った。そんなの、当たり前だろう。
けれど、彼女が精一杯の勇気を振り絞って伝えようとしていることが可愛くて、つい心が和んでしまう。その結論がどちらに転ぶのであっても、もう自分はそれを素直に受け止めるより他にない。
ただ、聞く前から否定されることを考えるのは性に合わず。沖矢は彼らしく、余裕そうな笑みを見せて自信たっぷりにこう返すのだ。
「もちろん。いい返事を期待しています」
「ありがとう。にしても、昴くん。何か、今日ちょっと機嫌いい?」
「ええ。いいことがあったので」
「?」
その秘密は、一生、彼だけのものである。