72...


 なまえが自室の壁掛けカレンダーを睨みながら仁王立ちをしていたのは休みの日の前日。ユルリックマの気だるそうなイラストの下に並んでいる数字を順に目で追いながら、明日の日付の欄で止まると、一層強く睨みつけて唸った。

「明日か……」

 そう、明日。沖矢、もとい赤井に告白の返事をすると告げた日がとうとう残り数時間後というところまで差し迫ってきていたのである。話す内容はもう決めてあるとはいえ、デートに誘うのとはわけが違う。告白の返事とはそれより何段階もレベルが上で、つい気が重くなってしまうのであった。

 そうして数回目のため息をついたとき、張り詰めていた緊張を断ち切るように携帯電話が震え出す。なまえはそれを手に取って表示画面を確認すると、その相手に驚いた。

 着信の相手はなんと灰原哀。隣人であるが故にあまり電話で話をする機会はなく、なまえは首を傾げながら「何だろう」と少し身構える。彼女とは主に博士の家でネットショッピングをして互いに服を買い合ったり、彼女が大ファンであるビッグ大阪に所属する比護選手の話を聞いたりと、まるで本物の姉妹のような関係ではあるが、そういえばここ最近はあまりちゃんとした話ができていなかった。

 すぐさま通話ボタンを押して耳に当てると、彼女らしい口調で会話は始まる。


「ああ、なまえさん? 久しぶり。この前はレモンパイと大きなアイスクリームをありがとう。あの子たちに代わって先に礼を言うわ」
「ううん。口に合ったのならよかった」
「ええ、もちろん。博士のメタボが加速しちゃうくらいにはね」


 そう言った口元は少し笑っているようで、彼女なり褒め言葉をなまえも笑みながら受け取る。


「それで、今日はどうしたの?」
「ああ。博士が、明日、うちにケーキを食べに来ないかって言ってるのよ。なんでも、横浜の有名店からわざわざ取り寄せた美味しいケーキが届くみたいで、江戸川くんたちもここに来ることになってるんだけど」
「へえ。あ、でも明日は……」
「もしかして仕事だった? でも、あなたは休みだってあの人からそう聞いたけど」
「え?」


 あの人。灰原がそんな言い方で呼ぶのは、現状、ひとりしか思いつかない。それはもちろん、もうすっかりなまえのルームメイトとして工藤邸に居ついてしまっている沖矢昴のことである。


「昨日の夕方、クリームシチューを持ってきた昴さんを博士が先に誘ったんだけど、断られたのよ。私は得体の知れない男と呑気にケーキを食べる気なんてなかったからその方が都合がよかったけど。でも、確かにそのとき、彼が『明日はなまえさんが休みで』って口走ってたから、てっきりそう思ってたのに」


 灰原は残念そうにそう言うと、まさか騙したのかしら、と疑うように口を尖らせた。以前と比べると沖矢に対しては下の名前である「昴さん」と呼ぶようにもなり、その態度をわずかに軟化させたとはいえ、疑惑の目はまだまだ消え失せていないようで未だ嫌悪感は健在らしい。一方、そんな嫌われ気味の沖矢が実は灰原の護衛のためにここに住んでいるということを知っているなまえはその話にもはや苦笑いしか出てこず、とりあえずしばらく彼女と話をしていなかった間に起こった出来事を教えることで、まずは自分たちの溝を先に埋めようと思い立った。


「あ、あのね、哀ちゃん。実は……」
「?」
「私、少し前に彼に告白されて……明日、その返事をするつもりなんだけど……」


 すると、電話口の向こうからキンキンに響くくらいの高い声で「はあ!?」と言われ、なまえは一瞬思わず耳を塞いだ。


「何よそれ!? で、返事は? あなた、どうするつもりなのよ!?」
「え、ええっと……ど、どうかなあ……?」


 言葉を濁してやり過ごそうとしたなまえに対し、その魂胆が見えていた利口な灰原はしつこく尋ねる前にそういえばと思い出す。それは、ベルツリー急行乗車後、自分に黙ってすべてを秘密裏に遂行していたあの忌々しい探偵男・工藤新一が、沖矢昴に対する弁解中に口走った「なまえとはもうじき……」という台詞の意味である。

 あの言葉の続きはもしかして「もうじき、沖矢となまえが恋人になる」ということが言いたかったのだとすれば、すべての辻褄が合うような気がした。そうしてようやく完成されたパズルのピースみたいにすべてがピタリと当てはまったようで。灰原はずっと気にしていた問題が解けた達成感を爽快に味わうのである。なまえのことはもちろん本当の姉のように慕っているし、沖矢のことも口では皮肉を言ってはいるが、悪い人間ではないということは重々承知。故に、そんなふたりが付き合うことを決めたのなら自分が応援しない理由も別にない。

 ただ、気がかりだったのは。ベルツリー急行内で、後に組織側の人間であると判明した安室透という人物になまえが手を引かれて連れ出されたとき、その表情から、彼女が間違いなく安室のことを好いているという確信が、あの場では唯一、灰原だけにあったということだった。まあ、バーボンだと判明した今でも好意を寄せ続けている馬鹿な彼女ではないということはわかっていたが、その傷がどうか沖矢と一緒にいることで癒えればいいのだけれど、とお節介にも願ってしまう。

 つまり、必死に隠そうとしているようだが、なまえの答えはおそらく「イエス」。勝手にそう見込んだ灰原は、あたふたと焦っている彼女に優しく声をかけるのである。

「あなた。やっぱり、明日の昼間に一度うちに来て。それも、あのとき私が買ってあげた緋色のワンピースで」
「え」
「久しぶりに腕がなるわ。吉田さん以来だもの」
「?」

 その言葉の意味がなまえにはわからず、とりあえず明日の昼、沖矢に返事をする前に阿笠邸に立ち寄ることを固く約束させられたのだった。



case72. 勇気を借りて


 翌日の昼間、言われた通り博士の家で緋色のワンピースを身に纏ったなまえが灰原を待っていると、小学校の短縮授業を終えて帰って来た彼女にぐいぐいと手を引かれて一目散に彼女の自室に招かれた。一体、何事だというのか、説明もなく。要領を得ないまま部屋に入ると、彼女らしい殺風景な部屋の雰囲気の中、鏡台の前には目を引くほどの化粧品類が並び、なまえはぱちぱちと目を瞬かせてそのそぐわない光景に唖然とする。

 おそらく、なまえが普段使っているものの数倍はある。そして、これから何が行われるのか。大体それで察しがついた。

 灰原に促されるまま無理やり鏡台の椅子に座らせられて、有無を言わさずクリップで前髪を止められた。困惑しながら彼女に視線を移すと相当機嫌がよさそうで、アイドル歌手である沖野ヨーコの歌なんて鼻歌まじりで歌っている。その本質は、どうやら十八歳の少女のままらしい。


「あなた。今のままでも十分だけど、メイクを変えたら印象はものすごく変わるのよ。それから髪も、少し巻いてみたらいいかもって前からずっと思ってたのよね」
「え、い、いいよ……! そんな、髪までも……」
「よくない。せっかく、今日、告白の返事をするって決めたんでしょ」
「えええ……ま、まあ」
「安心して。私も昔、お姉ちゃんによくやってもらったし。それにこう見えて結構上手いわよ?」


 自信たっぷりにそう言ってのける彼女に、なまえは一瞬どちらが年上かよくわからなくなった。けれど、いつもはクールな灰原が楽しそうにしていることが一番嬉しくて、なまえはもはや為すがまま、観念したように目を閉じる。

 メイクや服装には、確かに普段からそんなに気を使っているわけじゃない。社会人の身だしなみとして最低限のケアだけ。人に不快に思われない範囲で化粧をしているのみである。気を使ったところで、仕事中に対峙するのは警察関係者か物言わぬ死体だけだし、見栄えよく見せる必要性さえ感じていなかった。

 だから、今日くらいは小さな美容部員に任せてメイクされるのも悪くはない。それに、返事をするために必要な勇気も、彼女から借りられるかもしれないと思ったのである。


「じゃあ、お願いします……」


 おずおずと言ったなまえの言葉に、灰原は静かに頷く。しかし、その視線はすぐに彼女の首元のペンダントに移った。

「ねえ、そのペンダントって……」
「あ、これ? この前、昴くんがくれてね」
「……あの人、結構、やるわね」
「え?」

 それだけ言うと再び無言になる灰原哀。ブランド物に詳しい彼女にはそのネックレスの価値がどれほどか、大体の見当がついていた。そして、それを贈ってくれたという彼の本気度合いも垣間見えて、これはしっかり自分がメイクするしかないと改めて強く意気込むのである。




「わあ! なまえおねえさん、お姫様みたーい!」
「はい! すごくお綺麗です!」
「おい、灰原。ねえちゃんの口、赤いぞ? ケチャップでもつけたのか?」
「口紅よ。く・ち・べ・に!」
「おお、なまえくん! いやあ、がらっと雰囲気が変わるもんじゃのう!」

 一様にそんな風に言われたなまえは顔をぺたぺたと触ってかなりの照れを見せていた。その容姿は見事灰原の手によって派手すぎずに引き立ち、まるで空気を含むようにふんわりと巻かれた髪と、抜群の相性を見せる赤いワンピースとも相まって、歩美の言葉を借りるとすればまさに「お姫様」そのもの。これにはさすがの沖矢も驚くに違いない。そう思うと、灰原は鼻が高かった。

 なまえが化粧を施されている最中に、一度、各自自宅にランドセルを置いてからケーキ目当てで阿笠邸に集っていた少年探偵団の子どもたち。そんな彼らに囲まれている彼女の雰囲気は、まるで白雪姫と五人の小人。すると、その五人中のひとり。弟でもある江戸川コナンと目が合った瞬間、彼は照れ臭そうに姉にこんな言葉を投げかける。


「本当、馬子にも……」
「は、何?」
「いや、何でもないです……」


 そう言って、何か言いかけたことをごまかしたような気がするが、突っ込むのはやめておこう。なまえはそう決めて、コナンから思い切り視線を逸らした。

 歩美も哀ちゃんにお化粧してもらったことあるんだよーっ! と、そんな話を嬉々として語る歩美にかがんで、なまえはにこにこと相槌を打った。将来、歩美はきっと美人になる。それもお化粧が必要ないくらいに。


「じゃあ、僕たちはケーキが届くまでサッカーでもしに行きましょうか」
「俺たちが短縮授業だって博士が知ってたら、もうとっくにケーキ届いてたのによう」
「すまんのう。お詫びにドーナツでも揚げておくから」
「博士。つまみ食いは駄目よ」
「とほほ……」
「じゃあ、なまえおねえさん! またね!」
「またレモンパイ焼いて持ってこいよな!」


 そんな子どもたちのやり取りに心を和ませながら、なまえは笑顔で頷いた。一方、最後まで残っていたコナンは一度、緋色のスカートの裾を強く引く。それを合図にして、なまえは彼の言葉に耳を傾けるためにその場にしゃがみ込むのだ。


「どっちに決めたかは聞かねえけど、灰原がせっかく気合い入れてくれたんだ。無駄にすんなよ」
「……うん」
「じゃあな。また教えろよ!」


 そう言って、四人の友人の元に遅れ気味に走っていく弟の背中を眺めながら思う。ありがとう、新ちゃん。ああ見えて、きっと一番心配しているのは彼のはずだった。

 なまえは今一度、博士の家で変身した自分を全身鏡で一瞥してから帰宅することにした。しかし、何度見ても慣れない。確かに勇気を借りた気にはなったが、逆に余計なくらい緊張してしまう要因にもなっていた。第一、子どもたちに優しい言葉を投げかけられても、沖矢も同じように思うとは限らないし。それに、あまりの気合いの入れように引かれたらどうしようかと思っていたほどである。

 おずおずと工藤邸に帰り、玄関で「ただいま」と小さく声をかける。すると、ひょっこりと顔を出したのは、どうやら待ち構えていたらしい、ルームメイトの彼。


「おかえりなさい、なまえさ……」
「昴くん……! ど、どうかな? 哀ちゃんがメイクしてくれたんだけど……」


 似合ってる? と尋ねて落ち着きなくくるくるしているなまえが小動物のように可愛らしく見えた沖矢は思わず絶句する。そして、より近くでその姿を見るために、無言のまま彼女に接近した。


「えっと……?」
「すみません。先日から僕はあなたにずっとドキドキさせられっぱなしなので」
「!」
「普段のあなたも十分可愛らしいですが、新たな一面をまた垣間見たような気がして、改めてお付き合いしたいという気持ちが増しました。可愛いです。返事をくれると言ってくれた日から今日までずっと緊張していましたが、そんなに気合いを入れられると、いよいよ期待してしまいそうですね」


 いつもの紳士的な口調で直球を投げつける彼に対し、物事を早急にしたくないなまえは目を伏せながら彼に伝える。そう。彼女にはその返事の前にいくつか確認したいことがあったのだ。


「その返事の前にいくつか聞きたいことがあるんだけど。それも、あなたじゃなくて」
「?」


 そう言って、なまえは無遠慮に沖矢に近づく。そして手を伸ばし、ぐいと彼の襟ぐりに指をかけて引っ張ると、その指で器用に変声機のスイッチを押した。

 それは、沖矢昴を封印する方法のひとつ。今日、なまえが会話をしたかったのは自分に真っ先に告白してくれた彼の方。


「赤井さん。あなたに」


 到底これから告白の返事をするとは思えないほど勝気な目をする彼女に、彼は笑った。そして、やはり彼女のことが好きだと自覚する。こんなにいい女、他にいるわけないだろう。


「わかった。今日だけは何でも話してやる。だが、そちらもフェアが条件だ。秘密やごまかしはなし。いいな」
「望むところです」


 画して、まるで対決のような告白の返事が始まったのである。

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