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case73. 幽霊のような男

 場所をリビングに移した赤井となまえは、まるで茶話会でも開くかのように目の前に紅茶、輪切りのレモン、砂糖、ミルク。それから彼の嗜好品であるバーボンを置いて、向かい合わせに対峙した。これは決してウイスキーティーにして飲もうというわけではなく、単純に話の種としての飾り的な意味合いが大きい。先日これを飲んで意識を酩酊させてしまったなまえには、味的にも、そしてバーボンという名称的にも若干の苦手意識すらあったのだが、赤井が無意識にラベルを彼女の方に向けて置いたことで先に牽制されてしまったかのような威圧感を会話の前から受け取ってしまっていたのである。


「さて。何から話そうか」


 赤井はそう言いながら目の前のソファに座り、前のめり気味に軽く手を軽く組む。それはまるで商談のようなビジネスライクな態度であるが、なまえは屈さず、ボクシングでいうところのストレートから放つことにした。


「大学院生、沖矢昴という設定はどこまでが本当で、どこまでが嘘なんですか」
「最初からえらく直球だな」
「回りくどく聞くのは飽きました」
「いいな。お前のそういうところは好感が持てるよ」


 褒められたような気分だったがほだされてはいけない。なまえは未だその眼力を強く放ち、決して赤井を逃さないように見つめている。


「お前が思っているように、沖矢昴という男は目の前にいるようで実は存在していない幽霊のような男さ。それはもちろん、組織にとっての赤井秀一と同じように」
「つまり……来葉峠にて赤井秀一が死んだと見せかけて死体を偽装し、組織と、そして、ジョディさんを含めたFBIの人たちにも隠したまま、世を忍ぶ仮の姿として大学院生の沖矢昴という人間を作り出した。大学の在籍証明を詐称することなんて、あなたにとっては赤子の手をひねるより容易。そしてそのすべては、隣人の灰原哀を守るために帰結する……ということですね」


 その問いに赤井は黙って頷く。要するに、沖矢昴に関する情報はすべて嘘。先日、口を滑らせたコナンから話を聞いた通りである。

 一方、その話の最中、赤井の脳裏にはとある気がかりなことが頭をよぎっていた。実は数ヶ月ほど前から時折この家を監視し、東都大にも直接探りを入れているらしい目障りな探り屋、安室透ことバーボンが、今も毛利探偵事務所の下階にある喫茶店で働きながら沖矢昴に関する情報収集を続行しているということである。かつて組織に潜入していた頃から何かと馬が合わない男であったが、まさか変装後も周りをうろちょろとされるとは思ってもいなかった。ただその行動原理は「沖矢=赤井」とまで完全に見据えているというわけではなく、工藤なまえに対する不審なほど異常な執着心がそうさせているのであろうということは容易に察せられる。

 だが残念なことに、おそらく奴はまだ、沖矢の出身や嗜好品、その利き手でさえも何も掴めてはいないはず。ベルツリー急行で赤井秀一の幻影を見た彼なら、その情報も含めて今も躍起になって探っていることだろう。しかし、その程度の情報操作は、いくら日本という場所でもFBIの方が上手だ。

 幽霊のような男。そう言われたなまえは一瞬どきりとしたが、それでも未だに強い視線を目の前の男に送る。幽霊などではなく、確かに彼は生きている。沖矢昴という姿でも、赤井秀一という姿でも。

 続けてなまえはふたつめの質問を投げかける。それは、彼の正体が赤井秀一であると気づいたときから抱いていた疑問だった。


「その来葉峠で偽装に使われた死体は一体誰のものだったですか」
「あれは組織の人間で楠田陸道という男のものだ。奴は水無怜奈が入院していた杯戸中央病院に患者を装って潜伏し、情報を得ようと画策していたが、俺たちに追い詰められた末に拳銃自殺した。ちょうど、キールが俺を撃ったようにこめかみに一発、な」


 なまえはそれを聞いて頷きながら、あのとき解剖した死体のことを思い出す。黒焦げになった遺体についた、右側頭部の銃創。それが他殺ではなく、自殺によるものだったとは、焼け焦げていたせいと現場の異様さから判断できなかった。そこを逆に、利用されたのだと思う。
 
 余談だが、日々、死体解剖に明け暮れているなまえがその遺体のことをよく覚えていた理由は、事件の異常性ではなく単に身元不明であったから。いつかあとで、それが旧友のどちらかの遺体であったと言われても、絶対に思い出せるように。


「なるほど。ではその楠田という男から焼け残った右手の指紋と、コナンくんの携帯に残された指紋が一致したということは、あらかじめあなた方は楠田が組織の一員だと目星をつけて接触し、その携帯電話にわざと触れさせるように仕向けていたというわけですね」
「いや、その指紋は楠田を割り出すために三人の容疑者に接近した際、ついたものだ。結果的に楠田が死に、水無との密会に合わせてそれを利用する形になった。組織は裏切り者の可能性があった水無に、俺を殺す命令を出すということはわかっていたからな」


 まあ、その計画を考えたのはあのボウヤだが。赤井は意味深にそうつけ加えると、わざわざなまえと視線を合わせて口角を上げた。そのとき初めて、なまえは自分の弟が工藤新一であるということが彼にバレているということに気づいて苦笑する。まあ、死体の偽装なんて小学一年生で考えられるレベルではないから当然だ。それに、赤井が相手なら分も悪い。

 ひとまず、これでなまえがずっと疑問に思っていた死体のすり替えトリックが、ようやく納得のいく説明がつけられたことに彼女はかなりの満足感を抱いていた。そしてそのすべての謎の中心にいるのが江戸川コナンこと、工藤新一。なまえの自慢の弟であるということも、この度きちんと判明したのである。大学院生の沖矢昴という存在を作り出したきっかけも彼。そして姉であるなまえがたったひとりで住むこの工藤邸に、ルームシェアを勧めたのも彼。おそらくそれは、自身の幼児化のせいで急遽、姉に課すことになった女のひとり暮らしを彼なりに案じていた配慮でもあるのだろう。世界屈指と言ってもいいほどのFBI捜査官・赤井秀一を家に住まわせることは、ある意味で世界で一番安心できる警備を無償で雇ったと言っても過言ではない。


「にしても、理解が早くて俺も助かるよ。さすがは世界的推理小説家、工藤優作の娘だな」
「伊達に監察医やってませんから」


 なまえは謎がすべて解けた余韻を楽しむように、レモンを落とした紅茶を口に含んだ。ただし、そうは言っても、死体偽装のトリックまで見破れなかった監察医としての自分の落ち度は否めない。あの死体はもう既に身元不明として処理され、真相とともに、今や土の下だ。


「これで聞きたいことのほとんどは聞き終えました。まるで種明かしを見ているようでとても気分がいいです」
「まだあるのか?」
「ええ。でも、それは今のふたつよりもどうでもいいことなので別に」
「この際だ、全部言ってみろ」


 彼はそう言うと、珍しく機嫌がよさそうだった。そして同じくなまえが淹れた紅茶を飲み、うっすらと目を開けてこちらを見る。その目があまりに優しくねだるので、なまえは観念するようにゆっくりと口を開いた。


「……赤井さんは、どうして私がレモンを好きだって知っていたんですか?」


 その質問は、彼と一緒に住み始めてすぐのところまで時間を遡る。レモンタルトの美味しいお店にわざわざ連れて行って、好物だろうと言い当てられたこと。あのときは、それをコナンから聞いたとうそぶいたが、本当はそうではないらしい。それがずっと気がかりだったのだ。

 彼がティーカップを置いた陶器の重なる些細な音が聞こえた。赤井はそうして紅茶から手を離すと、にやりと笑う。


「そっちに座ってもいいか」
「え?」


 すると、まだ返事もしていないのに彼はおもむろに立ち上がり、なまえの横に来て膝を乗せる。ソファのスプリングが重さで軋み、背もたれのせいで後ずさることもできないまま慌てていると、ついにはその腕の中に暖かく招かれるのだ。覚えていないなら、こうして思い出させた方が早い。そう言って。


「『これだから、女は』」
「?」
「聞き覚えはないか? この言葉に」


 そう言われると、あるような。なまえは必死で記憶のページを過去に繰越すも一向に思い出せず、とうとう赤井が呆れたような声色で抱きしめながら種を明かす。


「レモンケーキと美味いステーキに釣られて殺されかける女だ。そんなの、忘れられるわけないだろ?」
「え……ちょ、ちょっと待って……!? 嘘でしょう?」


 それにはさすがのなまえも思い出して、困惑の表情で赤井の胸板を押した。そしてそのフレーズに起因する一年前の出来事を思い返しながら、当時自分を守ってくれた捜査員の顔と彼の顔を重ねてみようとする。しかし、今の彼の見た目は沖矢昴。簡単に重なりはしなかったが、赤井と比べてみればどうだろう。いや、何より、あのときの捜査官の彼はニューヨーク中を震撼させていた通り魔の特徴同様、長髪だったはずだ。


「あ、あれ、赤井さんだったんですか?」


 だって、髪は。そう言うと、彼は至極どうでもよさそうに、切った、と端的に言った。そして甘えるように首筋に顔を埋めて、再びなまえを強く抱きしめる。触れたり、離れたり。この気まぐれに、何度、混乱したことだろう。けれど、今の彼女はそんなことよりも一年前、身を呈して自分を守ってくれた人物が赤井だと気づいてドキドキしてしまう。

 だって、そんなの。


「今、お前が何を思ったか言い当ててやろうか?」


 赤く染まったなまえの耳に彼の唇が寄せられた。そして、深い声で呟く。


「運命」
「っ!?」
「なんてな」


 そう言ってぱっと手を離した赤井に、なまえの心臓はいつまでもバクバクとしていた。運命なんて言葉で自分の将来を決められたいわけじゃない。けれど、三度目の正直という言葉もある。

 一度目はメリーランド。二度目はニューヨーク。そして、何の因果か三度目に日本で再会した。この場所で。そんな三度に渡る再会を、運命という言葉以外では形容できない。

 そんな彼女の反応を赤井は面白そうに眺めながら、とうとう今度は自ら畳み掛ける。頬に添えた手で彼女の小さな顔を持ち上げるように角度をつけ、もう逃さないとでも言いたげな熱い視線が揺れるその瞳を捕らえた。


「なあ、なまえ。質問に答えるのはもう飽きた。次は俺の番でいいだろう?」
「……」
「俺の恋人になってくれるな?」


 なまえはその申し出に思わず大きく息を飲む。秘密やごまかしはなし。なぜならこの話をする前に、彼とそう約束したからだ。

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