74...
「俺の恋人になってくれるな?」
なまえはその申し出に思わず大きく息を飲む。秘密やごまかしはなし。なぜならこの話をする前に、彼とそう約束したからだ。
第一、彼のそれは質問ではなく確認だった。恋人になるか否かを尋ねるのではなく、なってくれるな? という何とも自信に満ち溢れたもので、なまえは自分がもう後に引けないほど追い詰められているのだと実感する。いや、その答えはしっかりとこの胸の中に用意してきたつもりなのだが、それを告げるにはやはりまだ荷が重くて、自分が決めたことのはずなのに未だにぐずぐずと躊躇してしまうのだった。
どうしよう、という言葉が彼女の頭の中をひたすら埋め尽くすようにうず高く積み上がっていく。一方、もちろんそれを見透かしていた赤井は、意地悪くも絶対に目の前の獲物を逃さぬようその距離をじりじりと詰めた。合意を重んじている彼にそんな気はまったくなかったのだが、なまえにはその行動がまるでキスを迫られているような気になって。思わず固く目を閉じた瞬間、まるで話の腰を折るように、来客を告げる能天気なチャイム音が工藤邸全体に鳴り響く。
その音にはふたりして、一瞬、玄関の方を見て、再び顔を見合わせた。思わず視線で「出て」と訴えかけてしまったなまえに対し、やれやれといった具合に彼が体を離す。せっかくいいところまで追い詰めたのに。そう言いたげな表情で首元のスイッチを再起動させると、彼は沖矢昴の声で「はい」とわずかばかり面倒臭そうにインターフォンで応答した。その間、なまえは自身の鼓動を抑えるのに躍起になる。時間稼ぎの意味合いでも、できれば面倒な客でありますように。なんて。そんなことを非道にも願ってしまうのだった。
来訪者は家主の在宅に安堵するようにインターフォン越しに声を上げた。こちらの状況など、もちろん一切知る由もない間延びした口調である。
「あのう……チーター宅配便ですけど。そちらに阿笠博士様はいらっしゃいますか?」
「ああ、阿笠さんなら隣ですけど」
「いや、工藤様方、阿笠博士様宛ての荷物を届けに来たんですが」
その言葉に、赤井となまえはまたも顔を見合わせた。おそらくその荷物とは、十中八九、博士が取り寄せたケーキだと思われるが、なぜその荷札の宛名に「工藤様方」と記載されていたかについて、戸惑いながらも一瞬で推理する。ふたりとも口には出していないが、おそらくその見解は同じだった。
なぜなら、そんな宛名が書けるのはこの世でたったひとり。この家に住む、工藤新一しかいないからである。
「ああ、思い出しました。ケーキですね!」
赤井はあたかも今気づいたかのような演技をしながらそう言うと、続けてこんなことをのたまう。
「本人は隣の部屋で手が離せない作業をしているので私が受け取りましょう」
手が離せない作業。そう言われて、なまえは一瞬、首を傾げた。だが、すぐにそれが子どもたちに博士が言っていた「ドーナツ作り」であることを察すると、急にさっと血の気が引く。ケーキのことは食べに来ないかと誘われていたようだったので知っていて当然だが、ドーナツを作っているということはあの場にいた者しか知らないはず。ということは、彼は阿笠邸の会話をこの家で盗聴しているということになる。いや、それも灰原を護衛するためには当然のことなのかもしれないが、先ほどなまえにメイクを施してくれたことを考慮しても、彼女の中身は十八歳のうら若き乙女だ。
さすがにちょっとやりすぎでは? そう思うと、なまえはいっそう赤井のことをじろりと睨み、配達業者との応答を切ったばかりの彼に声をかける。
「盗聴してるんですね……」
「何とでも言ってくれて構わないが、その話なら後だ。とにかく、在宅で今もケーキを待っている博士がわざわざ宛名に『工藤様方』なんて書くわけがないことを考えると、きっとそれを書いたのはあのボウヤだろう」
「ええ。そして、そんなことができるのはおそらく配達中のトラックのコンテナの中だけ」
「同感だな」
彼はそう言うと、手慣れたように引き出しから印鑑を持ち出す。子どもたち諸共、コンテナの中に閉じ込められてしまったのだろうか。でも、だとしたら。なまえはふと考え込み、唯一、腑に落ちないことを彼に尋ねてみることにする。
「でも……じゃあどうして、配達員に理由を話して降りないの?」
すると彼はこう返す。
「降りないんじゃない。降りられないとしたら?」
虚を突くようにそう言われて、思わず言葉を失った。もしかすると、また何らかの事件に巻き込まれている。それも、配達員に助けを求められないほどの、邪悪な何か。そう考えた方が、確かに妥当である。
けれど、なまえはその瞬間からまるで親のように心配で堪らなくなった。以前、コナンが誘拐犯に連れ去られたときも。銃で撃たれたときも。奇跡的に助かっただけで、それは単なる偶然の重なりにしかすぎない。しかも、今回は子どもたちも一緒かもしれないと思うだけで、心境的には激しくかき乱されるような気持ちに陥ってしまう。
何か策を考えなくては。ぎりぎりと心を締めつけて考え込むなまえに対し、赤井は一度、安心させるようにその頭に分厚い手を乗せる。
「とりあえず、返事はお預け。だな」
あのボウヤならおそらく大丈夫だろう。赤井はそう確信していた。なぜなら、こんな危機的状況下でも冷静に『工藤様方』と書いたというところを見ると、伝票に気づきそうにない博士ではなく、彼は自分となまえを信頼してSOSのメッセージをパスしてきのだということを指し示しているからである。おそらく彼なら、荷物伝票の転写シートを使って、配達員にバレないようなメッセージを書き残していることであろう。それを読めば、どういう事件に巻き込まれているかは自ずとわかるし、そうでなくても今の状況証拠から、限りなく配達員自体が怪しいと言っているようなものである。それよりは、ひとまず冷静さを欠いているなまえを落ち着かせる方が先決だ、と赤井はそう判断していた。
彼はなまえの髪を撫でて愛しそうに頬笑むと、応対のために玄関へ出ようとした。しかし、今度は彼女の方から赤井を呼び止める。そして、現状から考えられる最悪を想定して、こう告げるのだ。
「中にあの子たちが閉じ込められているとしたら、携帯電話を使って助けを求めないのも変ですよね? だとすると、さっき何人かの携帯は博士の家で充電しているのを見ましたし、きっとみんな置いてきてしまったんだと考えた方がしっくりくる」
「……」
「だから、私のこれ。今から箱に入れて包みますから、赤井さんは配達業者に集荷を頼んでください」
きっとこれが一番役に立つだろうから。なまえはそう言うと、自分の携帯電話を差し出した。赤井はそれを一瞥し、ふと笑う。
「思っていたより、末恐ろしい女だな」
「え」
「手早く頼む」
赤井に言われた言葉が気になるものの、なまえはすぐさま、携帯電話が入るくらいの大きさの箱がないかを探して手早く梱包作業を進めることにした。その背中を見送っていた赤井は、時間稼ぎにゆっくりと玄関へ出向く。
末恐ろしい女と形容したのは、当然、頭が切れすぎているという意味でだった。彼女は完全に冷静さを欠いていたわけではなく、最悪を想定して推理し、次の手を考え込んでいたのである。おそらく、今後彼女と恋人になって何かいざこざが起こったときは、今のように理詰めで責められるに違いない。まあ、自分は彼女以外を愛する予定はもうないし、怒らせるような態度を取らなければいいだけの話なのだが。赤井は一瞬、なぜか自身の母親であるメアリーの顔が思い浮かんで、笑って打ち消した。ちょっとだけ似てる、かもな。
とりあえず、彼女は自分の妻にする裁量としては十分すぎるほど適格だ。そんなことを思いながら玄関を開けた瞬間、荷物を不自然に落とす配達業者としばらく会話をすることになった。今に僕の可愛い妻が集荷に頼みたい荷物を持って来ますよ、と。
case74. 身も、心も、欲しい
無事に配達業者に怪しまれることもなく集荷を頼んだ後、なまえはひたすらに気を揉んでいた。やはり転写シートの控えにはメッセージが記されており、手短ながらも、荷物に混じって死体が乗っていること、犯人は配達業者のふたり組であることが告発されている。本来であればかなぐり捨ててでも捕まえたいところではあるが、子どもたちがコンテナに乗っている以上、人質に取られる可能性もある。やはり、ここは下手に刺激せずに、コンテナの中からコナンに通報してもらうという手段が最適解だろう。
にしても、なまえは気が気じゃない。当該の車は冷凍車。そこにどれほどの時間、閉じ込められているかはわからないが、小学生の小さな体では体力の消耗も並大抵ではないだろう。みんな、無理をしていないといいが。
「あの子たち、大丈夫かな」
「ひとまず、一階からは様子を伺えない。俺の部屋から状況を見守ろう」
「そうですね」
ふたりはそう言って、二階へと続く階段を上る。その途中で悠長にも気づいてしまったが、よく考えればなまえが彼の部屋に入るのはこれが初めてだった。元の所有者はこちらだし、ただの空き部屋だったので身構える必要もないのだが、彼が普段いる自室をどのように使っているのか見てしまうのは些か緊張する。
しかし、そこは机の上にパソコンが堂々と置かれているだけで、別段、特筆するようなこともなかった。このパソコンで盗聴しているのかと思った程度でなまえは張りつめていた気持ちをなだめながら、それよりも今はと気を取り直して窓辺に近づく。
外を眺めると、ちょうどふたり組の配達業者が後ろの貨物ドアを開けて、なまえの携帯電話が入った箱を乱暴に放り投げるところだった。それだけでもはやクレームものだが、そこに子どもたちが乗っていると思うと余計にゾッとする。一刻も早く助け出してあげたいのに。そういった気持ちも虚しく、何も知らない彼らはその分厚いドアを再び施錠した。
祈るように手を組んで見守った。このまま発進したところでなまえの携帯電話の存在に気づいたコナンが警察に通報し、まるで蜘蛛の糸を張るかのように交通規制を張り巡らせば犯人が捕まるのも時間の問題。歯がゆくも、ふたりはそれを静観すること以外に今は何もできなかった。
けれど、配達業者たちはしばらくその場で立ち止まり、そして何を思ったか、再びドアを開けたのである。そこにはちょうど、姉の携帯電話を手にしたコナンと子どもたち数名の姿が見えて、なまえは赤井とともに思わず息を飲んだ。
「嘘っ!? 赤井さん、私、ちょっと行って……!」
「待て」
「でもっ!」
「あれを見ろ」
「え?」
赤井にそう言われて、なまえは彼が指をさす方向を見た。すると、住宅街が立ち並ぶだけの狭い路地に入ってきたのは一台の白い車。見覚えのあるその車種に、なまえはまたも絶句する。
「なんで……?」
それは確かに安室透の車だった。だんだんと近づいてくるおかげで見えた運転手の顔も、もちろん彼。勝気で、傲慢そうで、いつだって得意げ。そんな表情で車を降りて、配達業者のふたり組と何やら話をし始める。おそらく、道幅の狭い路地でトラックが駐車していることを安室が咎めているらしいということは状況として察せられたが、わざわざ彼がこの道を通りかかった理由が何なのかはわからない。
あまりに突然の出来事に、なまえはかなりの動揺を見せていた。ベルツリー急行以来、もう二度と会うことはないと思っていた安室が、どういう因果か家の前を通って、弟に危害を加えようとしている犯人に食ってかかっている、なんて。誰がそんな状況を想像できただろう。そして、頭に血が上ったらしい犯人のうちのひとりに彼が殴られそうになった瞬間、物理的に視界のすべてが暗くなった。
「きゃっ、な、何!?」
「悪い。お前には多少刺激が強い現場になりそうでな」
「何なの、離してっ……!」
「ちょっと黙ってろ」
どうやらなまえは、赤井の大きな左手によって視界を遮られているらしかった。どうにかその手をひっぺがそうと必死にもがくも当然それで外れるような軟い力ではなく、むしろ強く後ろから抱きしめられるような形になってとうとう観念する。刺激が強い現場、って。まさか殴られたのだろうか。いや、でも。
いくら頭脳明晰の探り屋とはいえ、相手は黒の組織の男だ。しかもコードネームが与えられていることから、かなりの幹部クラスと言えるだろう。体術に長けていても不思議はないし、組織特有の何らかの手段もあるかもしれない。だから、むしろ心配すべきは犯人の方。そう考えた方が適切である。
そして何より、なまえはスポーツとしてボクシングが好きな方だ。刺激が強い現場というのなら、本物のボクシングの試合の方がよっぽどだろう。まさか安室を直視させたくないからかと疑ってしまう。もう、好意も何も、抱いていないというのに。
しかし、その考えは実は半分ほど当たっていた。なまえに安室を直視させたくない。いや、安室が「ボクシング」で犯人を伸してしまうところを見せたくないのである。それは単なる嫉妬からではなく、この先、謎多き彼を追い詰めるための大きなヒントとなり得るから。
それこそ、赤井が先日、帰宅が遅くなった理由であった。何も、探り屋の性質はバーボンだけではない。FBIの赤井秀一として自ら立ち回って調べているのは、なまえを含めた周囲を自分の正体がバレた今でものうのうとうろついている彼のことである。
「……なるほど。そういうことか」
「え?」
「いや、こちらの話さ」
すると、何を納得したかは知らないが、赤井はそこでようやく手を離した。なまえはそれを皮切りに、もう一度、吸いつくように窓から現場を眺める。もう既に、荷造り用のテープで配達員たちはふたりともぐるぐるに縛られており、子どもたちと安室が呑気に話をしている場面だった。
その光景に安堵するや否や、赤井は再び、なまえを背後から抱きしめた。そして、まんまと自分の部屋に連れ込むことに成功した彼が、その耳元で甘く呟く。
「それで。返事はどうする? うやむやにしようったってそうはいかないよな」
「……」
「聞かせてくれるだろ、この口で」
深いその声に、なまえはようやく隠すことを諦めた。そして、その腕の中でくるりと彼の方へと向きなおし、おずおずと自身の腕を彼の後ろに回す。自分の頬を、彼の胸に密着させるように。
「返事は、これで」
「!」
「私なんかでいいのなら、あなたの恋人にしてください」
ただ、と何かを言いかけた彼女を待たずに、赤井の我慢はもう限界に達する。そんな可愛らしい返事の仕方、どこで覚えるんだ? 愛しく責めるようにそう思った瞬間、ずっと待ちわびていたキスを送った。
「んっ、は、……っ!」
「……」
「あ、かい、さっ……ん、っ……!」
免疫がないのか、何が何でももがいて逃れようとする彼女に余計な火がついて、赤井はだんだんと劣情を孕む深いキスへと変えていった。もう、散々、我慢した。早く触れたい。ひとつになりたい。ベッドとの距離を横目に測っているような、下心しかない獣のような自分がいることに赤井は自ら少し困惑している。それほど彼女のことを愛しているし、その愛を今すぐにでも全身全霊で伝えたくて堪らなかった。
先ほどまで外を眺めていた窓からは見えないように、赤井は彼女に口づけをしたまま壁に追いやった。歯列をなぞり、口内をねっとりと舌で犯すように侵入させるのは、こちらとしても相当クるものがある。先ほどまで彼女が飲んでいたレモンティーの味がして、それを味わうようにぴちゃぴちゃといやらしい音を立てて甘くて小さな舌を吸った。薄目で見た彼女の表情は、こちらのキスに必死といった具合で何とも愛らしい。以前口づけたときから経験不足だとは思っていたが、逆にそれを自分が染め上げてもいいという許可を得たような気分になる。だって、もう自分たちは公的にも恋人になったのだから。
もっと追い詰めたいのは山々だったが、これ以上のディープキスでは彼女の酸素まで奪ってしまいかねない。そう思って一度、猶予の意味で息継ぎのように唇を離してやる。もちろん名残を惜しむように、さっきまで彼女の口内を犯していた真っ赤な舌を舐めずるようにわずかに出して。
「すまない、我慢できなかった」
もう一度いいか? そう尋ねて返事を聞く前にまたも二発目を口づけようとしたが、それは彼女に拒否される。しかも、大胆にも口元を手のひらで押さえつけられるという何とも原始的な方法で。
「そ、れ! それが条件です!」
「?」
「恥ずかしながら、私はこう見えて男性とお付き合いすること自体が初めてなんです。だから、そういうことを早急にしすぎないでいただきたい」
「俺にキスもセックスもするなと?」
「そ、そうです……!」
「随分、プラトニックな考えだな。アメリカの子どもの方がまだ進んでる」
「何とでも言ってください」
赤井の皮肉にも一切動じず、なまえは自分の考えていた通りの告白の返事をした。それは両親の総意と言った新一に習うように、素直に赤井の手を取ることを決めたのである。ただし、何も考えなかったわけじゃない。
彼の場合、なまえを困惑させるような欲求を絶対に隠してこないだろうということは返事をする前からわかっていた。だからこそそれを見越して、こんなにも純愛的な条件をつけたのである。そうでないと自分の身がもたない。もしそれが無理だと言われれば、遠慮なく断るつもりでいた。
その条件を聞いた赤井は、かなり不服そうな様子だった。だが、少し考え込んだ挙句、こんなことをのたまう。
「本当なら断りたいところだ。俺は好きな女なら何だって欲しい。身も、心も、全部」
「……」
「だが、まあ断ると元も子もなさそうだからな」
赤井はそう言うと、はあと一度ため息をつく。
「いいだろう。その条件、飲むよ」
「!」
「だが、言ったそっちが後悔するなよ」
「え?」
そう言って彼は再び自身の腕の中に招く。キスとセックスは禁止だが、ハグならいつでもいいんだろう? と。なまえの条件を掻い潜るような屁理屈で。
でも、なんだか。なまえの脳裏には、抱きしめられている今、顔も見えていないのに、赤井が嬉しそうに笑っている気がして。つられてちょっと笑ってしまったのだった。
こうして、赤井秀一との交際が始まったのである。しかし、それは今も工藤邸を睨むように見上げている安室によって、短期間で解消することになるとはこのときは思いもしていなかったのだ。