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「おっ、これが降谷の女か」
「あ、おい!」
軽々しくもひょいと奪われた写真に対し、持ち主である降谷は焦り気味に手を伸ばす。紫煙を吹くその咥え煙草に引火でもしたらことだ。それでなくとも寮内で煙草なんて当然ながらご法度で、その規則違反がいつ教官にバレるかこちらとしては気を揉んで仕方がないというのに。けれど、そんなこともお構いなしとでも言いたげに、写真を奪った張本人である松田陣平はそこに写る女に目を細めて終始釘づけになっていた。
確か、彼女の名前は「なまえちゃん」。諸伏によると降谷は彼女への思いを高校一年の時分から相当な勢いでこじらせているらしく、その奥手ぶりはある意味ギャグかと思うほど秀逸で、いつも一緒にいる五人の中ではかなり有名な話だった。
顔を見たのはこれが初めてではあったが、へえ結構可愛いじゃん、という感想は自然とその口からついて出た。しかし、その声も虚しく、続けざま「あっ」と短く声を漏らした松田の指から驚くほど簡単にするりとその写真が抜けていく。何でも器用にこなしてしまう彼のしなやかな指先から堂々とそれを横取りしたのは、必死で返せと喚き叫んでいた降谷ではなく、今年の入校生で随一のプレイボーイとして名高い萩原研二であった。
「おおーっ、確かに可愛いな!」
「どれどれ?」
「おいっ! 伊達も便乗するな!」
「大丈夫大丈夫。伊達の好きなタイプはもっと彫り深めの金髪美女だから」
「でも、確かになかなか可愛いな」
「返せ!」
そう言ってようやく降谷が強引に奪い返し、しまう前にもう一度だけ名残惜しむように微笑む彼女を見つめた。それにしても、可愛いなんて今さら当たり前すぎる。自分のものでもないくせに、一体、誰のものだと思ってるんだってみんなに吠えてやりたいぐらいだった。
どっとのしかかる疲労感にため息をつきながら、降谷は先日、貸与があったばかりの警察手帳の内ポケットに丁寧に折り込んで写真を入れた。本当は可愛い彼女の顔になんて折り目ひとつでもつけたくはなかったが、背に腹は変えられない。これ以上見られて変に好意を寄せられても困るし、漢気のある伊達ならまだしも、松田と萩原は特に要注意人物だ。今はまだなまえがアメリカにいるとはいえ、顔と名前をはっきりと覚えられれば即アウト。帰国時を狙って偶然を装いばったり遭遇、なんて可能性もある。警察学校に入ってまだ二ヶ月ほどながら、幼馴染の諸伏を含めた彼らと五人で密度の濃い時間を過ごしていくうちに、人一倍、洞察力の鋭い降谷は既に各個人の人となりを理解しているつもりであった。それはもちろん、絶対に、なまえを彼らに近づけるべきではないという判断も含めて。
故に、彼はあらかじめなまえに先手を打つ意味でも「僕とヒロが警察学校に入校している間は極力日本に帰ってくるな」と、偉そうに国際電話で忠告していたのであった。しかし、茶化すような外野の声がうるさすぎて彼女に届いていたかは謎である。
そうして悶々となまえを守るための策を練っている降谷を見かねて声をかけてきたのは、五人の内、唯一まだ口を開いていなかった諸伏景光。ご存知の通り、彼の腐れ縁的な幼馴染の存在である。
「ゼロ、オレにも見せてよ」
「いいけど。ヒロもこの写真、持ってなかったか?」
「さすがに寮には持ってきてはないな。失くしたりしたら困るし」
そう言って、幼馴染組はふたりして部屋の隅でしゃがみ込み、写真の中という形ではあるが、愛しの彼女と久しぶりに揃って対面を果たした。
その写真は高校時代の学園祭のときに撮ったもので、当然、諸伏も一枚、自宅にて大切に保管しているものであった。左から、学園祭実行委員長として立派な腕章をつけた腕を張り出すように満面の笑みでピースを決める諸伏景光。中央に、当日はメイド喫茶の裏方として忙しなく働いていたエプロン姿の工藤なまえ。そして、その右に何とも仏頂面に写っているのが口元に傷テープを貼った降谷零である。実はこの数日前、文化祭準備に励んでいたなまえがサボっていた男子生徒数名のせいで椅子の上から転がり落ちるという事故があり、それを庇ったことで彼は唇に激しい裂傷を作っていたのだった。まあ、その後、気が済むまでその男子生徒たちをボコボコにしたらしいので、彼の気はそれで済んでいることだろう。だから、降谷が仏頂面である理由はおそらく、当日、期待していたなまえのメイド姿が彼女が裏方であるとを知らなかったが故に見られなかったことに対する期待はずれの気持ちの表れに違いなかった。
……というのは当然、事情を知る諸伏だけの見解ではあるが。彼はそれを懐かしみながら微笑んで「このときからなんだよなあ」と思う。
このときから、オレは。
「会いたいな」
いつもなら絶対にそんなことを素直に言うはずのない降谷が、心から愛しいという気持ちを溢すようにぽつりと呟いた。おそらく警察学校に入校して以来続いている日々の厳しい訓練や勉強といった抑圧的な生活に、さすがの完璧超人であるこの男もかなりの疲れが見え始めているのだろう。その癒しとして今回、写真を見ていたところを松田に奪われたのだろうし、きっと、その胸のうちは相当焦がれるほど彼女に会いたいはずだった。
諸伏はその様子を見てやっぱり笑う。どうせなら直接言ってやればいいのに、と。
「今度のゼロのボクシングの試合、呼んでやれば?」
「断る」
「なんで?」
「むさ苦しい男ばっかりがいる中にあいつがいることが耐えられない。……それに、松田もいるし」
これはたぶん、後半の理由の方が大きいな。諸伏は苦笑いしながら、そう思って屈伸するように立ち上がる。降谷も写真を再び手帳の中に几帳面にしまってポケットに入れた。
「じゃ、なまえにはオレからメールで連絡だけ入れておくよ。ゼロのボクサー姿の写真も見たいだろうし」
「別にいいよ。恥ずかしいし」
「恥ずかしいって。負ける心配してるのか?」
「まさか。僕は絶対に勝つよ」
たとえどんな敵が相手でも。その言葉は、まるで彼女のことも丸ごとすべて指しているような台詞だった。たとえどんな敵が相手でも、最後に勝ち取るのは自分だと。慢心などではなく言い切ってしまう精悍な彼の横顔が、幼馴染ながらとてもたくましい。
諸伏と降谷は今一度、ぎゃあぎゃあと騒ぎ続けている賑やかな他の三人を一瞥した。しょうがない奴らだなと思って最初こそ微笑ましく見ているだけだったが、どうやら松田を中心にわざと降谷を焚きつけるようになまえ関連の猥談をからかいがちにしているようで、それに気づいた降谷はその輪に今にも殴りかかりそうな勢いで突っ込んで行く。本当に、工藤なまえ専用警備会社はいつ解消する気なんだか。残された諸伏はひとりそんな風に思いながら、彼らとは真逆の窓辺の方に近寄っていった。
月の明るい、いい夜だった。諸伏はそれを眺めて思い出の曲である『ふるさと』を口ずさむ。風が気持ちよくて、思わず目を細めたとき。思い出したのはいつか音楽室から見上げた真っ青な空。なまえに出会った、初夏の匂いがする。
突然、大きな話にはなるが、このまま日本というこの国がいつまでも恒久的に平和で、穏やかな時間だけが流れ続けて欲しいなと諸伏は心から思った。もちろん、この先、誰がどうなるかなんてわからない。痛ましい事件や事故も起こるかもしれない。けれど、兄である高明に憧れて選んだこの「警察官」という仕事に誇りを持って、自分は死ぬまでその職務をまっとうしたいのだ。誰かの幸せのために。なんて。あまりに月が美しいから、らしくもなく、そんな博愛的な気持ちに浸ってしまう。
「諸伏」
そう言って、突然、背後から声をかけてきたのは予期していた幼馴染ではなく、珍しくも同期の萩原だった。肩を抱かれてぐいと引き寄せられ、そんな態度にさえプレイボーイの片鱗を見るが、彼は諸伏の耳元でこんなことをのたまうのである。
「お前、本当はあの子のこと好きなんじゃないのか?」
「え……?」
「さっきの写真見て、俺にはなんとなくそう思えて」
諸伏は珍しく動揺していた。そして、まるで過去に引きずられるように淡い記憶が蘇っていく。
卒業式の日。それまで幼馴染ながら恋敵としても一緒にいた降谷に自らそう宣言したように、諸伏はなまえへの思いから卒業していたはずだった。故に、警察学校で出会った気の合う彼らには、降谷がいかにこじらせた恋愛をしているかを話しただけで、過去、自分も同じように彼女を好いていたという事実は最初からなかったものとして話さなかったのである。そしてそれは降谷も同様で、あの日以降、まるでタブーであるとでも思い込んでいるかのようにあまり自分からなまえの話をべらべらと諸伏に振ることはなくなっていた。それほど、彼らの間には形容できない複雑な思いがあったのは確かである。
なのに萩原は、たった一枚の写真だけで、いとも簡単に見破ってしまったのだ。その事実に、動揺しないわけがない。
そして、追い打ちをかけるように萩原は言う。
「幼馴染ファーストなのはわかるけど、好きな女まで諦めることはないだろ。本当に、好きなら」
本当に、好きなら。しかし、諸伏はその言葉にふっと笑みを見せた。そして、とうとう声を上げて笑い出す。
確かに、なまえのことは今も大好きだ。彼女のことを好きになったのは降谷と同じタイミングだし、それからはずっと正々堂々と好意を寄せてきた。付き合えたらいいなと思うこともあったし、キスしたり、抱きしめたりしたいなと思ったこともある。ふたりしてバスを間違ったときなんて、なまえは全然気づいていなかったみたいだが本当は結構ドキドキしていた。そのくらい、諸伏にとってなまえは特別な存在だった。そして、それは今でも。
でも、だからこそ降谷と張り合うように気持ちを寄せてみて気がついたことがあったのだ。さきほど彼に見せてもらった学園祭の写真。あれを撮った頃から、諸伏は自分の心境に変化があったことを思い出す。
降谷はなまえに対して確かに不器用すぎて笑ってしまうほど奥手だけれど、その不器用さの中にどれほど無償の大きな愛が込められていて、どれほどその思いで影ながら彼女を支えているか。一番傍にいた諸伏だからこそ、その思いの強さにある意味で恐れてしまったのだ。
ああ、これは敵わないなって。
「萩原。オレはたぶん、ゼロとなまえのためになら」
「おい、そこのふたり! 何こそこそ笑ってんだよ、もうじき点呼だぞ!」
「ゲッ」
「諸伏、明日カメラ借りに行くんだろ? あの鬼教官のとこ。勇気あるなあ」
「え……あ、ああ。そのカメラ、兄さんのと同じみたいだから使い方わかるし、シャッタースピードも調節できるからボクシングとかスポーツの試合の写真はよく撮れるだろうなと思って」
「へえ」
そんな何でもないようなやりとりに、話を遮られてしまった萩原は再びじろりと諸伏を見やる。しかし、彼はやっぱり博愛的な笑顔を見せてこう言うだけだった。さっきの話はまた今度な、と。萩原はチェッと舌打ちして、点呼に備えるために他の三人の輪に入る。諸伏もそれに続こうとした。だが。
その前に彼はもう一度、夜空になんとも気持ちよさそうに浮かんでいる美しい月を見上げて、萩原に言えなかった続きの言葉を強く心に灯すのだ。
「オレはたぶん、ゼロとなまえのためになら」
case75. 命すらも惜しくない