76...


「絶対にトロピカルストロベリーパフェね……」

 まるで祈りを込める修道士のように、うやうやしく手を組んだなまえが神妙な面持ちでそう呟いた。当然、その言葉は彼女の隣にいた赤井秀一の耳にも届いていたのだが、彼はほとんどどうでもいいこととして堂々とそれを聞き流す。よって、その声は工藤邸のリビング上空で空虚にも浮かんで消えていった。

 煌々とついたテレビからは高揚感を煽るようなドラムロールの音に合わせて、二種類のスイーツが交互に映し出されていた。そんな目紛しいほどのカメラの切り替えに、赤井はさっきからずっと黙って腕組みしながら静観している。こんなにも、心底どうでもいいと思ったことは初めてだ。だが、彼女が見たいとせがんだ番組なのだから仕方がない。チャンネル権を渡さねば、自分は彼女と一緒にいることもできないようだから。と、そこだけ聞けばなんとも情けない話に思えるが、こう見えて彼はなまえが望んでいるプラトニックな交際を彼なりに楽しんでいる方なのである。

 赤井の冷めた空気にいつまでも気づかないなまえは、固唾を飲んでその行方を見守っていた。そして、いよいよ司会進行役である俳優の剣崎修が口を開く。


「それでは、発表します……今宵のいちごバトル。勝ったのは……っ!」
「……」
「トロピカルストロベリーパフェを作った、栗村習平パティシエ!」


 見事チャンピオン防衛です! との声に、なまえは「やっぱり!」と小さくガッツポーズをした。当てられたからといって何になるというわけでもないのだが、なんとなく嬉しくなってしまうのも事実。まるで自分の目利き力が証明されたような気になるからだ。

 なまえが最近ハマってよく見ているこの『どちらのスイーツでSHOW!?』という番組は、その名の通り、毎回、前週のチャンピオンと挑戦者というふたりのパティシエが登場し、決まった果物を使ってスイーツを作って競わせるという単純な番組であった。しかし、今やその単純さが万人に受けて老若男女知らない者はいないというほどかなり大きな話題になっているらしい。どこのパティシエが出ているかなどは別の情報番組や雑誌などでも詳しく特集を組まれるほどの人気ぶりで、視聴率もかなりいいという話も聞く。なまえにとってはどうか末長く続いて欲しい番組だった。

 そして何より一番ハマってしまった大きな理由は、審査員が吟味して解説するその味だけではなく、見た目的にも、そして季節の果実をふんだんに使うという大胆さ的にも、見ているだけでお腹が空いてしまうことにあった。体型のためには食べない方がいいとわかっているし、赤井にも秘密にしているくらいだが、この番組の曜日だけなまえは寝る前にキッチンに行ってほんの少しだけフルーツで夜食をとるのが近頃の最高の楽しみなのである。


「最近、よくこの番組見てるな」
「ええ。気に入っちゃって。いつかレモンのスイーツが出ないかなと思って期待してるんですけど」


 そう言ってふにゃりと頬を緩ませるなまえに対し、赤井は取り出した自身のスマートフォンを器用に操作して彼女に見せる。


「チャンピオンの栗村とかいうパティシエの店、今度、支店ができるらしい。行ってみるか?」
「えっ、行きます!」
「じゃあ、その日は一日、デートしよう。それも、とびきり甘いやつ」


 食べ物で釣るのはどうかと思いながらも、赤井は隣にいた彼女の腰をわざといやらしさを誇示するような手つきで抱き寄せた。そして、拒否されてしまわないうちに手早くこめかみのところに甘いキスを落とす。なまえ自身は隠しきれているつもりのようだが、目ざとい赤井には夜な夜な彼女が秘密裏に果物を食べていることなんて残念ながらお見通しである。けれど、あえて気づかないふりをして何も言っていないのは、この腰回りのやわらかみが少しだけ増すことを期待しているからであった。

 いつか、彼女の心の準備が整ったとして。全力でその思いをぶつけようにも、こうも細いと簡単に壊してしまいそうだと、赤井はなまえに触れる度に思っていたのである。それでなくとも毎日お預け状態を喰らい続けていて、いつその我慢の限界を迎える日が来るのか不安であるというのに。そんな下心をひた隠しにしつつ、ひとまず、なまえが自分の女になったのだと思うとどうしようもなく愛しくて「今はまだ純愛でもいいか」と気を収めるのがいつの間にか彼の中ではルーティン・ワークになっている。

 腰への悩ましい手つきやこめかみへのキスは、赤井にとって、猫がじゃれ合うほどの軽い気持ちだった。しかし、彼女はがしりとその手を掴み、威圧的な笑みで彼に微笑みかける。どうやら「駄目」という意味らしいのだが、彼にはどうもそれが面白くない。


「もう交際を始めて少し経ったが、そろそろいい加減に慣れたらどうなんだ?」
「……まだ少しですし」
「やれやれ」


 赤井は観念するようにその手を離して立ち上がる。そして、また一歩も前進しなかった自分たちの関係にため息をついて彼女を見下げた。

 ただし、以前のようにあえて素っ気ない態度を取って彼女にプレッシャーを与えるなどということは絶対にしない。少しずつでいいから、誰かに愛されるという感覚に慣れて欲しい。それはまるで野良猫を手なずけるようではあるが、そのために使う時間は惜しまないつもりであった。

 何故なら、彼女の恋人はこの世界でたったひとり。自分しかいないのだという十分すぎる余裕が今の彼にはあるからだ。


「おやすみ、なまえ。愛してる」


 前髪をかき分けて唇を寄せると、彼女が反射的に目を閉じた。その仕草さえ可愛くて、もっと触れたい気持ちを抑えながら余裕ぶって離れる。なまえはなまえでそれでも緊張しているようで、キスを落とされた額を押さえながら赤面しつつ、口ごもるようにこう返した。


「おやすみなさい、赤井さん」


 すると、赤井は足を止める。


「秀一、だろ?」
「……しゅう、い、ち」
「Perfect.」


 まるで英語教師さながらの発音でそう言った赤井は、そこでようやくリビングを後にした。

 彼がいなくなった後の部屋で、なまえはそのままソファにこてんと転がる。そこには、さきほどまで彼がいた熱がまだ残っていて、当たり前なのに少しどきりとした。時刻は八時。まだ眠る時間でもないくせに思わずまどろみそうになって、なまえは深く目を閉じる。

 そしてもう一度、練習のように小さく呟くのだ。秀一、と。何度も。

 なまえが赤井のことを「秀一」と呼ぶ。それだけが、交際時に取り決めた、赤井から提示されたたったひとつだけの交換条件だった。自分の出した条件と比べると、なんと生易しいのだろう。それがすべて、彼の優しさを物語っているような気がする。

「付き合っちゃったんだな……私たち」

 そう言った声は、またもリビングの上空でなめらかに溶けた。



case76. たったひとつの交換条件


 翌日の朝。通勤時のバイク走行中にも拘わらずなまえがわざわざコナンに連絡を入れたのは、ずっと忘れていたことを尋ねるためだった。今頃は、おそらく蘭と一緒に家を出て学校まで向かっている道の途中だと思われるが、それを外して、また別の時間帯に電話をかけ直すとなるとまたも連絡するのを忘れてしまいそうで。とりあえず、思い出したときに着信だけ残しておこうと思い立ったが故の行動である。

 しかし、予想に反して小さな名探偵は電話に出た。それも、ものすごく食い気味に。 


「なまえか!? どうしたんだよ!?」
「えっ? な、何? なんか、新ちゃんこそそんなに慌てて……?」
「オメーなッ!? あ、いや……じゃなくて。その、なまえ姉ちゃん。昴さんとどうなったかぐらい連絡入れてくれてもよかったのに」


 聞いちゃ駄目なのかと思って、僕、ずっと我慢してたんだ、あはは……。と、急に声色を変えてそんなことを言う彼に、なまえは目を細めて、すぐ傍に蘭がいるのだと察した。しかし、実際にその会話を耳ざとく聞いていたのは、園子との会話に夢中になっている蘭ではなく、世良であるということをなまえは知らない。

 それにしても、新一は何をそんなに姉と男の仲を期待しているんだか。これでも一応、いい歳した大人の女なので、できれば恋愛に関してはそっとしておいて欲しい。

 だが、とはいえ。先日は大泣きして多大なる心配をかけてしまった弟のことだ。その期待通りである事実が些か悔しいとは言っても、ここは偽らずに打ち明ける方が得策だろう。その方が今よりももっと、そっとしておいてもらえそうだし。

 なまえはそう思いながら、もごもごとした口調で言葉を返す。フルフェイスのヘルメットの中で、うやむやにしてしまえるのであればそうしたい。そういう気持ちも込めて。


「それは、えっと……まあ、なんというか。付き合ったけど……」
「は?」
「だからっ、付き合ったってばっ!」


 せっかく隠し気味にしていた言葉を「は?」という一言だけで責められたような気分になって、つい、照れ隠しに語気を強めてしまう。すると、声変わり前に逆行した新一は一オクターブ高いコナンの声で、電話の向こうで絶叫した。


「ええええ! ま、ま、ま、マジでか!?」


 さすがにその声に動じないこともできず、蘭も園子もそして世良も思い切りコナンの方へと振り返る。しかし、彼はもう隠さない。その場にいた三人の女子高生全員にも聞こえるように、声を大にしてこう叫ぶのだ。


「なまえ姉ちゃん、昴さんと付き合ったんだって!」
「嘘っ!?」
「マジ!?」
「へえ、やるなあ!」


 そんなやりとりを聞いていたなまえは、運転中なのに頭が痛くなってくるようだった。そして、やっぱり言わない方がよかったかもとさっそくながら後悔する。華の女子高生組に知られれば、米花町全体に知れ渡ってしまったと言っても過言ではない。まあ、特にいつも相談に乗ってくれていた蘭には、いつか必ず報告しなければならないと思っていたことではあるが。

 三人はその話を聞いた瞬間、まるで火がついたかのように、ガールズトークで持ちきりとなっているようだった。なまえはそんな会話をうっすらと聞きながらも、ようやく自分が電話した理由について落ち着いて彼に尋ねることにする。


「そんなことよりも、新ちゃん。この前、本を返してくれたときに言おうとしてた『話したいこと』って結局、何だったの?」
「ああ、そうそう。それな」


 コナンはそう言うと、姉のグッドニュースのおかげですこぶる機嫌がよさそうに続ける。


「俺たちってどっかで世良と会ったことねえか?」
「え、世良さん? うーん……ないと思うけど」
「そうか」
「何、突然?」
「いや、別に。ただ、世良の顔、どっかで見たことあるなって思って」
「ふうん」


 なまえはそう言われて、反射的に世良の顔を思い出す。世良といえば、先のベルツリー急行事件のときに彼女が発した「秀兄」という言葉によって、赤井秀一の実の妹であるということが図らずも判明していた。新一がその事実を知っているかどうかは知らないが、工藤姉弟が、そんな彼女と過去に会ったことがあるとすれば、自分と赤井との間にもメリーランドのガンクラブ以前に面識があったとしてもおかしくはない。まあ、なまえの場合は海外留学が長かったので、その間に新一が彼女に会っていたのなら知る由もないし、少なくともなまえは弟と一緒にいるときに、世良のような女の子には会ったことがないように思う。むしろ、女子高生探偵として活躍する彼女がどんな女の子なのか、なまえ的にはもっと詳しく知りたいくらいだった。


「ねえ、その世良さんだけど。私の携帯の電話番号、渡しといてくれない?」
「別にいいけど、どうかしたか?」
「ううん。ただ、蘭ちゃんと園子ちゃんのは知ってて、彼女のだけ知らないから。フェアじゃないなと思って」
「わかった。伝えとくよ」
「じゃあ、よろしくね」


 そう言って、ようやく電話は切れる。その後、コナンは言われた通りに携帯電話を操作して姉の電話番号を出すと、さっそく自分のメモ帳に書いてちぎり、世良に近づいた。


「世良の姉ちゃんっ」
「ん? どうした、コナンくん?」
「なまえ姉ちゃんが、番号交換したいんだってさ。はい、これ」
「本当か!? 今日は、園子くんからスイーツの番組の観覧に誘ってもらえるし、なんかボク、ついてるみたいだな!」


 そう言ってからっと笑う彼女の横顔に、コナンはやっぱり首を傾げる。なまえはああ言ってたけど、絶対に会ったことあると思うんだけどな、と。

 一方で、世良はコナンからもらったなまえの電話番号である十一桁の数字の羅列をにこにこと眺めて、その紙を大事そうにポケットにしまった。ちょうど世良には、なまえにお願いしたいことがあったのだ。それは、彼女のことを姉のように慕いたいと願う世良が、末っ子という立場を存分に活かしたなんとも可愛い頼み事である。

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