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 その日の夕食後。今日はまだ沖矢の変装をしていた赤井の方から「リビングで一緒に映画でも観ないか」と自然な感じで誘われて、甘い空気を察知したなまえが人知れず警戒の予防線を張っていたとき。突然、机の上に置いていた携帯電話が激しく震え出し、柄にもなく少しびくりとした。位置的に近かった赤井がその画面を一瞥するなり、電源を切っていたはずのチョーカー型変声機のスイッチをなぜか入れながらこちらに寄越してくる。それを不審に思いつつ、携帯電話を受け取ったなまえは、表示された画面を見つめて納得した。珍しいことに、未登録の電話番号からの着信だったからだ。


「何かあったらすぐに変われ」
「ありがとうございます……」


 沖矢の声で、赤井の口調。そのギャップに未だ慣れず、力強い言葉尻に緊張してしまう心を抑えながら着信ボタンを押す。すると、スピーカーから聞こえてきたのはひときわ明るい、女の子の声。


「あっ、なまえさんか? ボク、世良真純だけど」
「え。ああ、世良さん!?」


 なまえは思わず、その声の主に弾むように答えた。そういえば今朝、彼女に電話番号を渡しておいて欲しいと弟に頼んでいたことを自分でもすっかり忘れていたらしい。そして、そんな面倒を顧みず律儀に電話をかけてきて、嬉しそうな声色で話しかけてくれる彼女がとても可愛らしくて。蘭や園子と話すときと同様、なまえは自分の心がとても和むのを感じていた。

 しかし、その「世良」という名に反応したのは、何もなまえだけではない。傍にいて彼女の見知らぬ電話の相手に警戒していた恋人の赤井は、唐突に聞こえてきた実の妹の名に、何を思ったか話し中である携帯電話に自身の頭を寄せるようにして堂々と会話を盗み聞きし始めるのである。その思いがけない行動と距離の近さに、なまえは一歩後ろに引いたが、とっさに掴まれた肩のせいでもうどこにも逃げられそうにない。緊張しつつも、今は仕方なくその状態のままで世良との会話を続けることになった。


「えっと。番号、コナンくんからもらったんだ?」
「ああ。すっごく嬉しかったよ! ボク、なまえさんとは仲よくなりたかったからさ」


 ベルツリー急行のとき、部屋に遊びに行く約束してたのに、結局事件があって行けなかったしな。そう言うと、彼女はやっぱり屈託なく笑う。自分と同様、そのこと気にしてくれていたことが嬉しくて、なまえも電話口で「そうだよね」と頷いた。


「じゃあ、この番号登録しておくね」
「うん。ああ、それと。こんな機会で悪いんだけど、ちょっと折り入って頼みがあって」
「何?」


 自分にできることであれば何だってしてあげよう。そんな奉仕の精神で、なまえは快く聞き返す。すると世良は珍しく口ごもりながら、その「頼み事」について些か恥ずかしそうに口にした。


「……実は。ショッピングに付き合って欲しくて」
「ショッピング?」
「詳しくはまた話すけど、どうも女の子っぽい格好が必要みたいなんだ。でも、ボク、自分じゃどんな服がいいのか全然わかんなくて……」


 そんな彼女の焦ったような誘い文句に、さすがのなまえも驚いて、そして一呼吸おいてから胸がきゅんとした。過去二回。新一が誘拐されたときと、ベルツリー急行で出会ったときの世良の格好をなまえは思い返してみる。確かに両方ともパンツスタイルで、女の子らしいという格好ではなかったように思われた。けれど、帝丹高校の制服はちゃんと女子用だろうし、スタイルも悪くないからきっとスカートも似合うはず。なまえはそう思いながら、うんうん頷いて返事をする。きっと、蘭や園子に感化されるうちに彼女にも女子力が芽生えたに違いない。そんな風に思って。


「私なんかでいいのならいつでも世良さんの力になるよ! ところでそれは、蘭ちゃんや園子ちゃんも一緒にってことかな?」
「いや、行くのはボクとなまえさんだけさ。蘭くんや園子くん相手だと、なんだかちょっと照れくさくてな」
「わかるわかる。じゃあ、当日は私に任せて」
「本当かーっ!? 勇気出してよかったよ!」


 心底嬉しそうにそう言う世良に、ぶんぶんと振り切れる尻尾が目に浮かぶようだった。なまえはそれからすぐに電話口で彼女と軽く日程調整をして、さっそくだが今度の土曜日にしようという話で手打ちとなる。

 ショッピングの場所として選んだのはお互いにとってアクセスのいい米花百貨店。奇しくもそこは、変装した彼女の兄である沖矢となまえが初めて「デート」をした場所でもあるが、そのことに後で気づいたなまえは気まずそうに赤井の方をちらりと見た。距離が近かったためにすぐさま彼と目が合うと、まるで見透かしたように沖矢の顔で優しく微笑まれる。その瞬間から、もう会話を盗み聞きする気は失せたらしく、何も言わずに彼は食器の後片づけをしに行ってしまった。


「じゃあ、当日はよろしく頼むよ」
「ええ。もちろん」
「あ。今、あの昴って大学院生と一緒だったんなら邪魔しちゃって悪かったな! コナンくんから聞いたよ! 末長くお幸せに!」


 そう言ってプツリと電話を切られたなまえは、しばらく画面を見つめて笑う。その昴っていう大学院生が君の実のお兄さんだと知ったならどんな反応するのかな、と。そう思うだけで、まるでどっきりの仕掛け人のような、わずかばかり悪い気もしてしまうのだった。



case77. 血は争えぬ兄妹


 電話を切った後、なまえが「手伝おうか」と声をかけたのと、食器の片づけが終わるのはほぼ同時だった。赤井は手を拭いて首を傾げながら、気になっていたことをなまえに尋ねる。


「いつの間にそんなに真純と仲よくなったんだ?」
「ちゃんと話したのはこの前のベルツリー急行のときが初めてですよ。部屋が隣だったので。でも、確かになんだか、すごく懐かれてるなとは思います」
「なるほど。血は争えぬと言うわけか」
「……」


 赤井はそう言うとキッチンの扉の前に移動し、なまえをちょいちょいと指先で呼んで、寄って来たその小さな手を包むように取る。そして、まだ映画を観るか否かの返事はしていなかったはずなのに、そのままリビングへとエスコートすると、先に彼女をソファに座らせた。そんな甘い空気に、今さら「観ない」とは言い出せない雰囲気である。

 それにしても、血は争えぬって。いくら血の繋がりがあるとはいえ、世良は正真正銘の女の子だ。まあ、彼女自身が気にしているように男の子に見えなくもないが、それでも女の子の格好が必要だと差し迫って思っているらしい彼女はとても可愛くて魅力的だと思う。出会って日は浅いものの、こうして頼み事をされるくらいには慕ってくれているのだという事実が嬉しくて。今度からお菓子などを買って新一に持たせるときは三人分だな、となまえはぼんやり思っていた。

 でも、まさか一族に好かれる体質でもあるまいし。なまえがそんなことを考え込んでいると、赤井はやはりその思いを見透かしたようにくすりと笑う。


「何にせよ、俺的には嬉しいよ。将来、真純はお前の義理の妹になるんだし」
「え」
「何だその顔。しないのか? 結婚」


 そう言われて映画のセッティングをし終えた彼が、有無を言わさずなまえの隣にどさりと座った。まるで当たり前のように言われたが、その言葉には思わず硬直してしまう。

 しかし、体を硬くしてしまった原因は何も、赤井の早急な態度によるというものがすべてというわけではなかった。なまえの脳裏にはその言葉を皮切りに、沈んでいた記憶の海の奥底から、とある思い出深い一言がふいに浮かび上がってきたのである。古めかしい高校の、雪の降りしきる食堂の隅で。季節外れのレモンスカッシュを片手に、熱があるのかないのかわからない友人が頬を染めて発した、言葉。

『なまえも結婚とか、するんだろ?』

 なんで今、零のことを思い出したんだろう。なまえはそのことに自分自身で激しく動揺していた。後ろめたいことなんて何もないはずなのに、なぜか今だけは思い出してはいけなかったと思う。赤井に失礼だから? でも、なんで。


「なまえ?」
「え?」


 なまえの態度が変だと気づいた赤井は、自分が事を急ぎすぎてしまったことを反省していた。そして、優しく彼女の髪を撫でて、再びゆっくりと手を繋ぐ。その指の先から、全力で愛しさを伝えるように。


「気が向いたら言ってくれ。俺ならいつでもお前をもらってやる」
「……」
「映画が終わるまで一緒にいてもいいだろ? 大丈夫、何もしないさ」


 その代わり、手はこのままでいいよな。そんな条件に、なまえはこくりと無言で頷いた。彼の武骨な親指が何度も手の甲をなぞって。暖かいのに、くすぐったくて、そして、なぜだかとても後ろめたい。

 赤井のことを愛してみようと決めたから、こうして付き合い始めたというのに。映画を観ながらひたすら思うのは、一刻も早く、諸伏と降谷の影を追うために長野に行かなくてはならないという信念だった。

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