79...


 世良とのショッピングから帰宅すると、沖矢に扮した赤井も今しがた帰ってきたばかりのようで変装を中途半端に解いている最中であった。なまえはその様子に訝しげながらも、ひとまずは買ってきた食材で手早く夕食の準備をし始めようとする。今日は彼が外出するとは聞いていなかったように思ったが、そもそも別段、事前にどこに行くかまで把握していたいわけではない。ただ、そういえばと思い返す程度で、確かに最近、彼の行動に関しては気になることがある。

 それは先日。コナンが『二年A組の孔明くん!』という本を工藤邸に持ってきた日のこと。あのとき、赤井のことを何も知らない悔しさからティーカップでバーボンを呷ったせいで見事に酔いつぶれてしまい、彼が何時に帰ってきたのかは結局のところ知らないままだった。だが、おそらくかなり遅かったのではないかとなまえは独自に睨んでいたのである。大学には通っていないと知った今、一体、彼が外で何をしているのか。急に降って湧いたように出現した彼の「弟」の話と合わせてみても、赤井秀一に関してやはりまだ知らないことの方が多く、以前、美和子に指摘されたように女の存在を言われたとして、あながちそれも間違っていないのではと疑う気持ちもあった。そして、それをこちらから聞いてしまうのはまるで干渉に触発するかのようで。交際経験のない彼女にはどこまでその情報を尋ねてもよいものかわからず、事態をずっと図りかねていたのである。

 しかし、赤井はなまえの顔を見るなり、ひときわ優しい目をすると、変声機を無防備に外して詰まった襟元を崩した。


「真純との買い物はどうだった?」
「あ、えっと。とっても楽しかったですよ。FBIに入っていた自慢のお兄さんの話も聞きましたし、それから、真ん中のお兄さんのことも……」
「ほう? で、なまえも何か買ったみたいだが」


 意図的かどうかはわからないが、その話題をすっかり流すようにそう言った彼の視線の先には、机の上に無造作に置いていたショッピングバックがあった。それはまごうことなき下着屋の袋で、なまえはとっさに駆け寄ってそれを抱えると、ちょっとこれは、と言い訳にならない言葉を口にする。その表情に、赤井が突っ込まないわけがない。


「恋人に見せられないようなものでも買ったのか」
「いやあ、別に。そういうわけじゃ」
「まあ、どうせ下着か何かだろ」
「え」
「別に奪って中身を見たりするわけじゃないから、そんなに必死に抱え込むなよ。着て見せてくれるなら話は別だが」
「見せません」


 きっぱりと断ると、くくっと赤井が喉を鳴らして笑う。なまえはその笑みに言いようのない違和を感じた。


「赤井さん? もしかして、ちょっと疲れてます?」
「……」
「外で、何か調べてるんですか?」


 眉間にしわを寄せつつ簡単に見透かしてしまう彼女に、赤井は思わず舌を巻いた。これが、監察医という仕事で培われた洞察力だというのか。こちらが気にして欲しくない領域にまで踏み込むとは、どれだけ目ざとく察しがいいのだろう。そこが彼女のいいところでもあり、悪いところでもある。

 しかし、自分が今、調べている内容を、まだ彼女に言ってしまうわけにはいかなかった。確証がない今の段階でそれを口にすることは、何よりも信ぴょう性に欠け、そして彼女自身を深く傷つけてしまう可能性もある。それほどこの問題は慎重に調べを進めるべき事項であり、そのために神経を磨耗させていることは事実であった。

 心配そうな表情を浮かべるなまえに近づいた赤井は、その曇りを晴らすために彼女の手を引いて自身の腕の中に招き入れた。わずかにつけているらしい香水の、レモンの匂いがほのかに薫って。それだけで今の彼には十分すぎるほどの癒しになる。このまま肌を重ねてしまうことができれば、それが、一体どれほどの幸福に値するのか。未だに抱きしめられることに慣れず、まるで借りてきた猫のように大人しくしている彼女にも、いつか必ずこの手で教え込ませたいものである。


「俺には俺で多少なりとも考えることもある。……どうすれば恋人の可愛い声で自分の下の名前が呼ばれるか、秘策を練ったりな」
「あっ」


 なまえはすぐに「赤井さん」と呼んでしまっていた自分の癖に気がついて、とっさに口元を押さえた。一方、その本人である赤井は彼女の様子を楽しげに眺めて、いつまでもからかうような悪戯っぽい笑みを浮かべている。そして、今日も頑張った自分へのご褒美とばかりに、そのまま彼女の髪をかき分けて白磁のように滑らかな額に熱い唇を寄せた。瞬間、無自覚ななまえの喉から「んっ」と甘ったるい嬌声のような声が漏れるので、思わず火がつきそうになり、我慢ができなくなる前に名残は惜しいが腕の力をゆっくりと解放する。


「冗談だ。話せるようになったら話すよ」
「……」
「せっかく夕飯の準備に取り掛かってくれたところ悪いが、今日はもういい。なまえも疲れてるだろうから、俺のことは気にせず簡単に済ませろ」


 そう言って、急に興味がなくなったように背を向ける赤井に対し、なまえはぎりぎりと唇を噛み締めた。本当はわかっているのだ。彼が詳しく話をしてくれない理由が、諸々の事情に巻き込みたくないからだということを。そして、それがなまえのことを大切に思っているからこその行動であるということも、胸が張り裂けそうなくらいよくわかっている。

 そして、同時に。どうしてこんなにも強く思われているくせに、彼に何も返すことができていないのだろう、と。そう思うと、急に自分自身が何もかもが不甲斐なく思えてしまう。名前すらも、未だまともに呼べない自分に、この先、何ができるのだろう。


「ねえ、秀一。もし、私に何かできることがあったら遠慮なく言ってね」
「……」
「じゃないと、ちょっと寂しい」


 そう言うと赤井は驚いて、反射的に彼女を再び抱きしめた。せっかくつきそうになった火をこっちは頼りない理性で消したというのに、それをまたつけて台無しにしてきたのはなまえの方。だから、これはお前が悪い。そうやってまるで責めるように、赤井はいっそうなまえをきつく抱きしめて、堪え切れずにその欲を押しつけるみたいに彼女の細い首筋に噛みついた。途端、体制を大きく崩したなまえはそのままよろけて尻もちをつき、それでも腰を支えていた彼のおかげでなんとかどこも負傷せずに済む。いや、正確には、またも右首筋に彼から受けた熱情の痕が残ってしまっていたのだが、続けざま貪るように第二弾、第三弾とその証を鎖骨に刻まれていくうちに、腰が抜けて身動きひとつ取れなくなった。


「あ、っ、んっ、いたっ……」
「なまえ……」
「しゅうっ、い、ち……もう、ね……?」


 何が「もう」なのだ。鼻にかかるような甘いその一言は、余計に赤井の興奮を駆り立てる原因にしかならなかった。頬を赤く染めながら、目尻にわずかに涙を貯めている女に、欲情しない男がいるのなら会ってみたい。彼女のシャツの首元に指をかけてずらし、軟らかく膨らんでいる胸の上部に五つ目の痕をつけたとき、ようやく離れた逆光に浮かぶ赤井の顔は淫らな雄の顔をしていた。

 まずい、となまえはとっさに思った。しかし、熱を含んだ赤井の目はずっとなまえのことを捉え続けており、その距離はだんだん縮められて近づいていく。当然、目的はその唇。ぐずぐずに溶けるように甘い、淫靡なキスを狙われているのである。

 しかし、意外なことに彼はあと数センチというところで寸止めた。そして、こんなことを言う。


「今、キスをしない代わりに、ひとつだけ、わがままを言ってもいいか?」
「は、はい……?」


 すると、赤井はまたも悪戯に笑む。


「寝室、一緒にしないか」
「はっ!?」
「どれだけ疲れて帰って来ても、お前が一緒に寝てくれると思うだけで、俺は頑張れるような気がするんだが」
「そ、それは無理です……」
「できることがあれば遠慮なく言えと言ったのはそっちだろう」
「いや、でも……」


 消え入りそうな声で言う彼女に、赤井は少し意地悪が過ぎたと手を離す。そんなわがまま、最初から断られることはわかっていた。寝室を一緒にしたとしても絶対にセックスを伴わない、と約束したところでシャイな彼女には通用しないこともわかっている。とはいえ、正直、交際してからここまで頑なな態度だとは思わなかったが、今の出来事によって少しだけ自信がついた。自分たちの関係は着実に一歩ずつ、前に進んでいる。今日付でキスマークは許容範囲内であることは実証されたようで、それだけで十分すぎるほどの収穫であったのだ。

 未だに何が起こったのか理解できず困惑しているなまえの頭を、赤井はまるで飼い猫のようにぐしゃぐしゃと撫でて、余裕ぶって笑った。


「次はベッドの中でお前に『おやすみ』を言えることを期待しているよ」


 そう言って、キッチンを出ていく赤井を目線だけで追う。そして首筋に残るじんじんとした熱を感じながら、なまえは両手で顔を覆った。


「なんで……?」


 なんで、今、ほんのちょっとだけ。キスしないことを残念に思ってしまったんだろう。なまえはひとりでそんなことを思い、ひたすらその理由について混乱していたのだった。



case79. 心に火をつけて


「なまえさん。首、凝ってるんですか?」

 カウンター席でコーヒーを渡されながら、なまえはややげんなりとした気持ちでその声の主を見上げた。しかし、そんなことを知る由もない喫茶店員の榎本梓はここぞとばかりに、独自のストレッチ方法や、テレビで紹介されていたという肩甲骨をほぐす体操などを熱心に教示してくる。その裏には、少しでもなまえの力になりたいという、ひたむきな思いが込められているのではあるが、残念なことにこれは首凝りなどではない。あの日以来、赤井から受けた熱烈なキスマークを隠すために、わざわざ必要のない湿布薬を首に貼って過ごしているのである。なぜなら証は以前よりも広範囲で、髪の毛だけで隠すのは無理だと早々に判断したからであった。

 おかげで逆に凝り知らず。心配なのは、長時間、湿布を貼りすぎたことによって引き起こされるかぶれの恐れだけである。

 なまえがポアロに来ようと思ったのは、純粋に緑のことが心配だったからだった。あの日、お料理女子会と称した料理教室でレモンパイのレシピを教えたものの、その工程の多さ故に難易度も高く、家でひとりで作って妃弁護士のパーティに持っていくと言っていた緑が結局どうなったのか。なまえの耳には、その続報が何も入って来ていなかったのである。

 というわけで、今日はそれを尋ねるために、事前に安室がいない日を梓から聞き出してからここに来ていた。それに、なまえは定期的にポアロのコーヒーを飲まなければ禁断症状が出るとさえ思っているほど愛しているので、その摂取のタイミング的にもちょうどよい機会となったのである。


「緑さん、レモンパイ上手く焼けたかな?」


 なまえが惰性で肩を回しながらそう言うと、梓はにこりと頷く。


「はい。少し見せてもらったんですけど、すっごく上手に焼けてましたよ! でも、妃先生の反応は聞いてないので、あとで一緒に電話してみましょうか」
「そうだね」
「それにしても、あの日。緑さん、パーティの時間を間違えてらっしゃって。遅れそうになったところを安室さんが車を走らせてくれたんですけどね」
「へえ。安室さんが」


 その名は、口にするのも久しぶりだった。赤井との交際の火蓋を切ったなまえにとっては、安室との関係は、もう金輪際、何も発展することはないだろうと思われる。なのに、意識して無視をしているような形になってしまっていることに対しては、わずかばかりの罪悪感もあった。せめて彼が堅気の人間であれば、なまえも話ができるようになるまでは善処したいと思っているのに。高校時代の友人たちに教えられた「正義」に背く人間とは、たとえ土下座で乞われたとしても、関わり合いになりたくないという気持ちの方が勝っていた。

 その様子を見ていた梓は、彼のことを嫌って欲しくないという意味合いも込めて、あえてなまえに安室の話題を続けて振る。


「実は私、レモンパイをポアロの新メニューにしようかと思って企んでいたんですけど、安室さんからNGが出ちゃって」
「NG?」
「なまえさん以上に美味しく作るのは無理だからって。安室さん、そう言ってましたよ」


 それはなまえを喜ばせるための、嘘偽りない発言だった。だが、それが余計に心に重くのしかかる。

 安室に残したので当然ではあるが、自分のことを意図的に避けている女が作ったレモンパイを、彼は拒否することなくここで口にしたのだ。それも、自分たちではレシピを再現するだけでは敵わないと思ってしまうほど、美味しいと思いながら。たったそれだけの事実が、なまえを苦しめる。なぜならそれは、彼と同じ顔をしたあの日々の降谷零と嫌が応にも重なってしまうから。


「安室さん、食べたんだね。レモンパイ」
「はい、翌日の朝に。ふた切れ余っていたので私も食べちゃったんですけどね」
「そっか……。何か言ってた? 味の感想」
「ええ。『好きだ』って、言ってましたよ」
「!」
「『好きな味だ』って」


 すると、別のテーブルから「梓ちゃーん」と声がかかる。どうやら常連客が注文に呼んでいるようで、彼女はすぐに返事をしながら一礼してその場から離れた。

 安室の口から『好きだ』と言わせたのは、これが初めてだった。ベルツリー急行の展望室で、はしたなく絡めた指ではその言葉は引き出せなかったけれど、レモンパイには言っちゃうんだね。なんて。なまえはそんな皮肉を思い浮かべながら、大好きなポアロのコーヒーを口に含む。


「もうちょっと早く、聞きたかったなあ」


 梓には、後で改めて沖矢との交際について言及しておこう。そう思いながら呟いた言葉は、その場で穏やかに死んでいくだけだった。

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