80...


 翌朝。定刻通りポアロに出勤した安室は、普段通りの慣れた手順で開店に向けての準備を進めていた。清々しいほどの朝日を浴びつつ、機嫌よく店前の通りの掃き掃除を終えた後は、汗を拭いながらポアロ自慢のコーヒーをどの程度仕込みとして用意しておくかを考えあぐねる。天候や温度・湿度等をスマートフォンのアプリで参考にして今日の客足を予想していたとき、そういえばと、ふと時計を見上げて、喫茶店員としての相棒である榎本梓の出勤が少し遅いことに気がついた。

 普段の様子を思い返してみても、安室が知る限り、彼女がこれまで遅刻してきたということは一度としてない。この店のマスターが絶大な信頼を置いている理由が頷けるほど、すこぶるその勤務態度は良好である。真面目で、気立てがよく、迷い込んだ野良猫にさえ餌を与えるという慈悲深さもあり。梓がいなければ、がっかりして帰るという刑事の常連客もいるほどだ。また、安室自身も梓がいてくれないと、突然訪れる不測の事態に、安心して店番を任せられない。それでなくとも、彼は今、部下の風見に一件、直々に調べて欲しいことを頼んでいて、その結果を今か今かと待ちわびているというのに。

 もしかしたら、そもそも今日の彼女の出勤自体が自分の勘違いだったかもしれないと思い、安室は一度、勤務表を確認するためにバックヤードに入った。紙に印刷された榎本という苗字を指先でなぞり、今日の日付と照らし合わせて、休暇の意である「×印」がついているかを眺める。すると、やはり勘違いなどではなく、今日の彼女は朝から夕方までの勤務ということが、そこにはきちんと記載されていた。多忙な安室は、近頃、ポアロでのバイトを休みがちであったが、対する梓はそれを補うような連勤続き。ここにきて、その疲れが出てしまったのではと心配に思いながらフロアに戻ると、息を弾ませた彼女がちょうど店に入ってくるところであった。


「おはようございます! すみません、ちょっと遅れちゃいました!」
「いえ。おはようございます、梓さん。今ちょうど、あなたのことを心配していたところです」
「本当にすみませんっ! ただの寝坊です!」


 堂々とそう言い切ってしまうあたりが、逆に潔くて好感が持てる。そして、残りの準備は私がやります、と言う彼女に対し、連勤続きでお疲れでしょうから、と安室は慣れた手つきで備品を戸棚から取り出した。そんな人当たりのいい口調をした彼が実は公安警察の潜入捜査官とはいえ、コードネームを与えられるほどの幹部職につく反社会的組織の一員であるとは誰が予想できるだろう。それはもちろん梓も例外ではなく、安室に対して寸分の疑いも見せずに「いえ、それでは私の気が済まないので、安室さんはちょっと休んでいてください!」と、彼の背中を押しながら、気安く「安室」という偽名を口にするのである。そんな梓に、彼は思わず目を細める。

『おはよう、零! 今日も早いね!』

 過去、高校時代の三年間。出会ってから毎朝のようにそう声をかけてきた工藤なまえをなぜかふと思い出してしまって。カウンター席に追いやられてしまった安室はわずかに苦笑しながら、なまえにも梓のような鈍感さがあればよかったのに、と行き場のない思いで誰かを責めたくなる。そうすれば、きっと今頃、自分たちは幸せだった。

 にしても、梓が寝坊というのは実に珍しいことだった。先ほど確認した勤務表によると、昨日の彼女のシフトは閉店時間までだったようだが、そんなに客が多かったのだろうかとつい好奇心が沸く。それを確かめるために、安室はカウンター内で自分の分まできびきびと働いている梓に向かって気軽に声をかけた。


「昨日のポアロ、そんなに忙しかったんですか?」
「あ、いえ。実は昨日、終わってからカラオケに……」
「へえ。梓さんもカラオケに行ったりするんですね」
「えへへ。そうなんです!」


 梓は照れ臭そうに笑って、その経緯をおずおずと語り出す。


「昨日、ちょっと気になることがあって緑さんに電話をしたら、ちょうどお仕事が終わったところだったみたいで、今、割引のキャンペーンをやってるから一緒にカラオケに行こうよって誘ってくださったんです。おかげでちょっと喉の調子が……」


 声音を整えるために咳払いをしてみせる梓に、彼はわずかに首を傾げる。店内の加湿器はあとで調節するとして。安室はとっさにこの近辺にあるカラオケボックスを思い浮かべると、悪い癖であることは重々承知しながら、まるで見透かしたような言葉を続けてしまうのであった。


「それって、もしかしてなまえさんも一緒だったんじゃないですか?」
「えっ?」
「ここから一番近いカラオケボックスは、昨日でしたら、女性割引のある曜日ですし。それに今、その店の前に最近新調されたばかりののぼりが立っていて『女子会プラン、女性三人以上でさらに特別割引!』……なんていうキャンペーン内容が書いてあったような覚えがありましてね。まさか一緒だったのが、妃先生や蘭さんではなさそうですし、梓さんと緑さんの共通の知り合いで、かつ、女子会というワードに付き合ってくれそうな人物となると、先日、ここで料理女子会をしたというなまえさん以外に考えられませんから」


 その推理を聞いた梓は一瞬、言葉を失い、さすが安室さん、と絞り出すように舌を巻かざるを得なかった。頭の中で必死に言葉を選んだつもりではあったが、結局のところすべて見透かされてしまっているらしい。

 梓がなまえのことを話さなかった理由は、極力、安室には聞かせたくない話があったからであった。

 実は昨日、彼女がポアロに来て話をしてくれた内容は、妃弁護士のパーティに際して緑が上手くレモンパイを焼けたかどうかだけではない。その話題の後、華の女子高生組から耳に入ってしまう前に、気にかけてくれていた梓に対して直接なまえから先に「あの話」を切り出したのである。


「すみません。別に隠すつもりはなかったんですけど、安室さんになまえさんの話題は避けた方がいいかなと思って、あえて名前を出さなかっただけなんです。昨日、なまえさんがお仕事終わりにポアロに来てくださって、上手くレモンパイを焼けたか聞くために緑さんに電話を……。でも、安室さんにはお見通しでしたね」
「話題を避けた? なぜ?」
「あ、えっと……?」


 せっかく隠そうとしていた話を、安室が突っ込むように尋ねる。どう返答するか言い淀む梓に、彼は安心感を抱かせるように余裕を見せながら先に口添えした。


「梓さん、僕はこう見えて探偵ですよ? 大体のことはすべてお見通しです」
「え……」
「もちろん。それはなまえさんが昨日、ここに話しにきた内容も、ね」


 その言葉は、安室がバーボンとして培った交渉術が大きく影響していた。まるで相手に真実を知っているかのように見せかけ、情報を聞き出す。所謂、鎌をかける行為に過ぎなかったのだが、単純な梓を安心させて、話を引き出すには十分すぎる台詞だった。


「あ、えっと。なまえさん、実は先日からあの大学院生さんと正式にお付き合いされたそうなんです。それを緑さんに言うと、盛大にお祝いしようという話になって」
「!」
「えっと……安室さん? 大丈夫ですか?」


 梓は心配そうに安室の顔を覗き込んだ。お見通しと言った割には動揺しているように見えて、梓はやはり言わない方がよかったと今さらながら思う。なぜならその表情は、安室がなまえのことを好きだったということがあまりにも顔に書いてあるようだったからだ。

 しかし、安室はすぐに表情を戻し、平然とした笑みを浮かべて返事をする。


「大丈夫って、何がですか?」
「え?」
「僕なら全然、平気ですよ。だって、自分で目先の好機チャンスを逃したようなものなので。でも」
「……」
「僕は絶対に勝ちますよ。たとえどんな敵が相手でも」


 あまりに勝気すぎるその瞳に、梓はまたも言葉を失くした。一方の安室にとって、その発言は強い決意の表れである。自分は絶対に負けない。特に、彼女に関しては。

 気まずい沈黙の後、突然、無音の店内に着信音が響き渡る。それは安室のスマートフォンからだった。

 画面を確認するなり、彼は少し息を飲んだ。そして、おもむろに席から立ち上がり、梓に向かって頭を下げる。


「すみません。ちょっと依頼人から電話みたいです。少しだけ外で電話してきてもいいですか?」
「あ、はい。もちろん」


 正直、その電話に助かった、と梓は思った。そして彼の背を見送り、なんて人なのだろうと思う。あまりにも不器用で、あまりにも強い。その視線の先に捕らえられてしまったなまえの運を切実に祈るほど、梓は安室に対してわずかながら畏怖の念すら感じてしまったのだった。



case80. 善悪の彼岸


 鳴り続ける電話を片手に、はやる気持ちを抑えながら安室はポアロの裏口から店の外に出た。電話の相手はもちろん、部下の風見裕也。大方、その内容は自分が依頼していた件についてだろう。

 以前、工藤なまえの恋人について調べろと告げたとき、公平中立な立場であり続けた風見は立派にも上司である男に対して意見するように「職権乱用だ」と諭したのである。その判断は間違っていなかったし、あのときの自分は、突然、彼女の前に現れた男の存在に対して、深い嫉妬に狂っていたのも事実。だが、今回依頼したことはその言い回しが少し異なるだけで、内容的にはまったく同じであった。

 それは何も、再び、工藤なまえの恋人を調べろ、と言ったわけではない。工藤邸に今も彼女とともに住まう沖矢昴という人物が、組織に通じているという嫌疑が高まり、そういうことであればと風見は今回、調査を快く引き受けてくれたのである。

 まだ、はっきりとした確証は安室の中にもなかった。だが、彼は人知れず自分の中だけで、ある意味信じ込みたいような気持ちで祈っていることがある。それは、沖矢昴という人物が、殺したいほど憎んでいる赤井秀一とイコールで結ばれること。そうすれば、彼女の自分に対する冷遇の目を一発でひっくり返す形成逆転の道しるべとなる。そんな確信が彼にはあった。


「……風見か?」


 声のトーンを抑え気味にして、安室、もとい、降谷は言う。しかし、意に反して風見がまず口にしたのは、沖矢や赤井などという話ではなく、完全に別件であった。


「降谷さん。やられました。ハッキングです」
「何?」
「何者かが警視庁のサイトに不正アクセスをして我々の情報を盗み見た形跡があるとの報告を受けています。当然、こちらはダミーの情報しか開示しておらず、本物のデータにまで到達した形跡はないので、今のところ、こちらに何も痛手はないのですが」
「用心しろ。何者かは知らないが、公安に探りを入れている人物がいるということは事実。各部署と連携をとって、アクセス元を絶対に突きとめるんだ」
「はい」
「……それより、奴の情報はどうした?」
「それが」


 すると、風見は言葉の勢いを急に失う。


「今、別の班が東都大の学籍情報ネットワークに侵入して探っていますが、降谷さんのおっしゃる被疑者はやはり在学扱いになっています。しかし、これははっきり言って偽装かと。この数日、大学内で張り込みをしている別の人間もいますが、被疑者が登校している姿はまだ一度も確認できていません。周到すぎるほど『いる』という事実ばかりが前面に出てくるくせに、実際に登校してもいないというのはあり得ない。まるで我々は、幽霊でも追っているようです」
「……幽霊」
「さきほどの不正アクセス犯と同じですね。我々もまだ被疑者についての情報は偽装されたものしか掴めていないわけですから」


 降谷はその言葉にはっとした。そして、とある名句が、頭を過ぎる。『深淵を覗くとき、深淵もまたこちらを見つめている』と。もしかすると自分たちは、相手と、一進一退の情報の探り合いをしているのかもしれない。


「わかった……引き続き、捜査を進めろ」
「了解」


 そう言って電話は切れた。今の話を聞いた降谷は心境的にまだ安室にはなれそうになく、裏口の扉に背中を預けてうな垂れる。そして考えるのは、運命共同体かと疑うほどずっと一緒にいた、幼馴染のこと。

『頼むから、ヘマして僕より先に死ぬなよ』

 その約束は、数年後、見事に破られてしまった。赤井秀一のせいで。


「……なあ、ヒロ。お前だって、僕の立場なら同じことをするよな?」


 だって、いくらFBIという善の皮を被っている人間だったとしても、尊い命を奪うことこそが悪なのだから。そして、工藤なまえのことも。実体のない幽霊のような男に奪われるわけにはいかない。

 諸伏の仇を取り、彼女を守るためなら、たとえ自分は修羅になったっていい。そんな言いようのない執着心だけが、今の降谷を突き動かしているのである。

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