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居候として与えられた工藤邸二階の自室にて、赤井は窓辺にもたれながら神妙な面持ちで電話をかけていた。相手は現在、日本に潜入しているFBI捜査官の中で、唯一、赤井の生存を知っている人物、ジェイムズ・ブラック。本当は彼にさえ、赤井秀一と沖矢昴がイコールであることを明かすつもりはなかったのだが、死体すり替えトリックに際して、来葉峠での一件後に警察側に提出されることを予測していた江戸川コナンの携帯電話に自分の指紋をつけたと偽装するために、指先に施していたコーティングがバレたのが起因する。だが、ある意味その失敗とも言うべき事態が、今では必然であったと赤井は思い直し、ジェイムズに対しては自分とFBIが秘密裏に繋がっておくための生面線的な役割を果たしてもらうこととなっていた。
そんな彼と話す内容とは、もちろん組織のこと以外にはあり得ない。ベルツリー急行乗車以降、一向に退陣の気配すら見せず、のうのうと毛利小五郎の周辺をうろつき続けるバーボンこと安室透。彼の存在に疑問を抱いていた赤井は、その正体を含めた情報を得ようとついに本腰を入れて暗躍していたのである。もちろん、かつて彼に好意を寄せ、そして現在は自分の正式な恋人となったなまえに対してはそのことを告げてはいないが、最近の度重なる外出の理由はすべてそれ絡みの案件だった。
「赤井くんの方で他に何かわかったことはあるかね」
ジェイムズのその言葉に、赤井は一瞬、深く考え込む。探り屋の性分は、何もバーボンだけの話ではない。だが、彼の情報をあらゆる側面から推理し、調査しても、偽りだらけの情報ばかりが前面に出てきてしまう。それは皮肉にも、おそらく沖矢昴に対して半ば忌々しい思いで当たりをつけているバーボンの方も同じことが起こっているのであろうと予測されるが、赤井はその情報戦争を彼よりも一歩、冷静に判断していた。
故に、今はもう少し時間が欲しい。この確証をより強固なものにするための、大切な時間が。
「いえ、まだ報告できるようなことは」
「そうか」
「だが、この状況を突破する鍵がないわけじゃない」
「鍵?」
「ああ。その鍵こそ、今や俺の手の内にある」
それを聞いたジェイムズはしばらく沈黙する。鍵という言葉の真意は定かではないが、赤井のことを全面的に信頼しているからこそ、その手がかりを彼自身が手放すことはないということはジェイムズも重々承知だった。
報告を期待しているよ、という、感じのいい年の重ね方をした初老の彼の声を聞いてから赤井は電話を切った。そして、部屋を出て、廊下の突き当たりにあるなまえの部屋を一瞥する。
ふと、赤井はここに居候として住まわせてもらう際に彼女と交わした約束のことを思い出した。「お互いに干渉しない」こと。今や恋人になってしまってからでは、もはや成立し得ない約束だと、彼は笑う。
「悪いな、なまえ。だが、お前こそ俺たちの鍵だ」
赤井はそうひとりごちて、わずかな罪悪感を抱きながらも彼女の部屋に近づく。そして、その扉を容赦なく開け放ち、中へと足を踏み入れたのだった。
case81. 未来を切り開く鍵
一方のなまえは昼間のその時間帯、愛車であるタイガーに乗って米花市内を走行中だった。珍しくも今日は目暮に呼び出され、一度、現場を見に行っていた帰り道。勤務先である東都監察医務院の所長から直接電話があって、施設の安置設備にトラブルがあり、急遽修繕作業が入ったことを知らされたのである。よって、受取予定だった遺体を送致してもらうことができなくなり、現場から戻ったとしても仕事は再開できず、強制的に暇を出された、というわけだった。最近は恋人である赤井と一緒に出かけたり、休暇を合わせるためにしっかり休みを取っていた方ではあったが、午後休という形は久しぶりだったので、一刻も早く家に帰って、ごろごろと惰眠を貪りたいという怠惰な気持ちが勝る。しかし、その脳裏にはきちんと赤井の顔も思い浮かんでいた。
こんな時間に帰ることなんて滅多にないので、きっと彼はびっくりするだろうなと思うと、ちょっとだけにやにやしてしまう自分がいたのだった。今日は午前中に有希子が来ると言っていたこともあり、以前のように赤井が留守であるとは考えにくい。なまえはそう推理すると、家で留守番をしているであろう彼をあっと驚かせるためにもわざわざ自宅前の路地に入ったところでバイクを降りて、音を立てないようにそっと門を抜けた。そして、自宅なのにまるで空き巣みたいに玄関を開けて、大人らしからぬ悪戯っぽい表情で彼を探す。
しかし、一階はどの部屋ももぬけの殻。赤井の姿はどこにもなかった。
「部屋かな」
首を傾げながら、なまえは抜き足で階段を上がっていった。すると、微かにどこかの部屋から物音が聞こえてきて、やはり二階かと確信した瞬間。その物音が赤井の部屋から聞こえてくるのではなく、自身の部屋から聞こえてくることに気がつき、思わず体が強張って廊下で立ち止まってしまう。
彼がこの家に住まう際、唯一取り決めた約束事がある。それは、一緒に住んだとしても絶対に「お互いに干渉しない」ということ。確かに自分たちは先日から恋人関係に発展したわけだが、そこまでプライベート空間に立ち入ることを許可したつもりもない。この前、初めて彼の部屋に入ったのだって冷凍車に閉じ込められたコナンたちの様子を伺うためのやむを得ない理由だったし、それにそのときは彼同伴で、それ以前に部屋に入ったことはなかった。留守を任されている彼の方も、当然そうだと思い込んでいたのに。別段、隠したいものがあるわけでもないが、まさかの彼の方から与えられた思いがけない裏切りになまえは少なからず動揺する。
しかし、次の瞬間にはこうも考えられた。今、自分の部屋を物色しているのは赤井ではなく、もしかすると別の誰かが侵入しているのだとしたら。
不在中の工藤邸に押し入った「泥棒」が、かつて、いたじゃないか、と。
なまえはその可能性に行き当たり、それまで物音ひとつ立てずに歩いていた足を急かして、勢いよく自室の扉を開けた。そして、そこにいた犯人と目が合う。
そこにいたのはなまえが一瞬、想像した顔ぶれではなく、いつも通りの涼しい顔をした沖矢昴、いや、赤井秀一だったのだ。
「ああ、おかえり。えらく早いんだな、今日は」
「……何してるの」
「すまない。女の部屋を物色するなんて悪趣味な真似をしたことは謝るよ」
「何してるのって聞いてるんです」
強い口調でそう言うと、赤井は肩をすくめる。
「アルバムを探していたんだ」
「アルバム?」
「午前中、有希子さんが来ていたときになまえの学生時代の話題になったんだが。そういえば、俺はお前から学生時代の話を何度か聞いたことがあるものの、肝心の制服姿の写真は一度も見たことがないと気づいてな」
有希子の名を出したのは実はこの場を乗り切るための体のいい言い訳だったが、なまえを信じ込ませるにはちょうどいい話だった。彼の予想通りなまえはそれを信じ、しばらく考えるように黙り込む。
確かに、学生時代の写真なら医務院のロッカー以外にも、この家を探せばどこかにはあるだろう。だが、アルバムと言われると、途端に困ってしまう。
なぜなら、諸伏と降谷、そしてなまえが三人で一緒に写った高校時代のアルバムは、残念ながら一冊も手元に残っていない。その理由こそ、自分がこの部屋に急いで入って来た理由だった。
なまえは半ばヤケになり、自分の身を自分で抱きしめるように身をすくめた。そして、震える声で言い放つ。
「アルバムならないですよ」
「何?」
「盗まれましたから。留学中に」
赤井はその発言に驚き、言葉を失った。しかし、同時にその頭脳を以て、なまえが何年経って考えてみてもわからなかった真相にすぐさま到達する。
彼女のアルバムは、今の赤井が睨んでいることを証明するために必要な情報源となるはずだった。しかし「ない」という事実が、逆にその信ぴょう性を高めてしまう結果となる。証拠にはならないながらも、やはりその事実は堅く閉ざされていた扉を開ける鍵になり得た。
「なまえ、お前はやっぱり最高の女だな」
「へ?」
「それより、勝手に部屋に入って本当に悪かったよ。おいで、仲直りしよう」
おいで。そんな優しい声色に、なまえは一瞬びくりとする。
しかし、彼女はそんな甘い言葉に簡単に靡くような女ではなかった。なまえは苦々しくそう思いながら、疑い深い瞳で彼を見つめる。
「……抱きしめてごまかそうという算段ですか?」
「いや、単純にお前が愛しくなった」
そんなことを真顔で言う彼は、再び、おいで、と口にして両手をわずかに広げた。なまえは恋人として行かないのも失礼なのかと思い、そのたくましい腕の中におずおずと飛び込む。まるで大切なものを閉じ込めてしまうようにきつく抱きしめた彼の衣服からは苦い煙草とコーヒーの匂いがした。
「あか……秀一、ちょっと苦しい」
「悪い。でも、もう少し」
そう言って、一切、力を緩めない彼に、本当に悪いと思ってるのかなあ、となまえは懐疑的に思いつつ、その背に手を回す。その反応が赤井には愛しくて。ようやく消えかかってきた彼女の首元に、赤い痕を上書きをしたい衝動に駆られる。しかし、ぽんぽんとまるで子どもをあやすかのように背中を彼女が叩くので、赤井はやっぱり「まだ純愛か」と自分の心が幸福で満ち溢れるのを感じた。
なまえをきつく抱きしめながら、赤井は彼女の背後にある戸棚の上を見た。そこにはこの部屋の唯一の少女趣味とも言うべき、クマのぬいぐるみがひとつだけぽつんと乗っていて、少し埃を被っている。何という名前かは忘れたが、確かなまえとお揃いの食器の絵柄のクマだ、と赤井は思うや否や、興味の赴くままにそのたくましい腕を伸ばしてぬいぐるみを掴む。もちろん、片腕の中には彼女を抱いたままで。
そのクマはかなり年季が入った古いもののようだった。そんなに昔からこのキャラクターはいたのかと思い、まじまじと眺めていると、なまえがそれを奪ってぎゅっと抱きしめる。
「えっと。これは、あの」
「ん?」
「……だって、少女趣味だって思ってません?」
「まあ。だが、なまえがそのクマのキャラクターが好きなことは、ここに住み始めた翌日から知ってる」
「……パンのシールのことは忘れてください」
「駄目だ。俺の女との大事な馴れ初めだからな。それに、そう簡単に思い出は消えない。違うか?」
確かにそうだ、となまえは思った。そう簡単に思い出は消えない。彼らと、このぬいぐるいの思い出も。
赤井は急になまえを離し、今度は逆に子ども扱いでもするように彼女の頭をぽんぽんと軽く二、三回叩いた。そして、目線を合わせて優しく笑う。
「最近、ちょっと忙しそうだったろ。いつも通り、夕食は俺が用意する。時間までそのクマと一緒に休んでろ」
「はい……」
そう言って、堂々と部屋から出て行く赤井の背を見送り、なまえはベッドに腰掛けてぬいぐるみを眺めた。新一の誕生日の前日にもらった「姉」としての自分の誕生を祝うための彼らからのプレゼント。随分、古ぼけてしまったが、なまえにとっては絶対に捨てられない。大切な思い出の品だった。
「ヒロ、零……」
彼らを呼ぶ声は祈りにも似て、とても切なげに消えていくのであった。