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ユルリックマのぬいぐるみを洗濯バサミで吊るすように干すと、その気怠いキャラクターの性格故に「随分シュールな光景を生み出してしまったな」となまえは腕組みをしながらしみじみと感じていた。まるで囚われの宇宙人。いや、宇宙クマといった様相である。変な型がついてしまうことを懸念しながらも、いつも他に上手く干す方法が思いつかず。その他の洗濯物を干す行為を再開するためにその場から離れるときには、もうすっかり鼻歌を交えている自分がとても平和的で。でも、ひと度そのぬいぐるみを視界の端に入れるや否や、彼女はやっぱりくすりとひとりで笑ってしまうのであった。
case82. 空いていた穴を愛で埋める
眩しいくらい、天気のいい春の日の朝だった。時刻はまだ早く、住宅密集地の米花町二丁目はとても閑静で、なまえのハミングに合わせるようにチチチと可愛らしい小鳥の歌声が近くに聞こえてくるだけである。先日、赤井が触れた思い出のぬいぐるみが思ったよりも埃で汚れていることに気づいたときから、次の休日はぬいぐるみを洗濯することを決めていて、今日は彼よりも先に起き、ついでに洗濯機も回していたのだった。自分の洋服と、男物の洋服が一緒に洗濯されていく光景はなかなかに新鮮で、恋人なのに、撹拌されていく洗濯槽をわざわざ何度も開けて確認してしまうくらいにはまだ慣れていない。
洗濯が終わったら、久しぶりに少しだけ手の込んだ朝食でも彼のために用意しよう。そんなことをぼんやりと考えていたとき、庭に続くガラス戸を叩いたのは、まだ眠っていると思っていた恋人の赤井秀一。なまえ、と彼が口元だけで名前を呼ぶのが見える。
その様子に気づいたなまえはすぐさま手を止めて、一目散に彼の傍に駆け寄ることにした。早朝ということで、まだ彼は沖矢昴の変装を施してはいない。そのため、万が一のことも考えて不用意に部屋の外に出ることは叶わず、内側から控えめになまえを呼んでいたのである。故に、その理由は相当緊急なのだろう。そう察すると、一瞬、緊張が走らざるを得ない。
「おはようございます、どうかしましたか!?」
ガラス戸を開けて顔だけ突っ込むと、彼が固定電話を指差す。
「お前に電話だ。博士から」
「博士? こんな早くに?」
「ああ」
「隣なのに?」
「ああ」
なまえは意味がわからないながらも外履きのスリッパをようやく脱いで部屋に上がり、保留になっていた受話器を耳に当てる。すると電話口に出たのは、やはり赤井からの話の通り、隣家に住む阿笠博士だった。
「おお、なまえくん。すまんのう、朝早くに」
「いえ」
「今日、仕事は?」
「休みだけど……?」
「おお、ちょうどよかったわい。実は頼みが……」
「博士。私が話すわ」
そう言う冷静な声が聞こえてきた途端、電話の相手が変わる。その相手とはもちろん、同じく博士と隣家に住む灰原哀に相違ない。
「なまえさん? おはよう。朝早くから悪いわね」
「ううん、おはよう。突然どうしたの?」
「実は今日、江戸川くんたちと神社にお花見に行こうって話になってるんだけど、仕事が休みなんだったらあなたも一緒に来ないかと思って」
「えっ、行く!」
「そう。でね。そこでひとつ、相談があるんだけど」
「?」
ふたつ返事で応答したものの、本当に話したかった内容は花見に誘うということではなかったらしい。なまえは頭に疑問符を浮かべながら、黙って彼女の言葉に耳を傾ける。
「急にこんなこと頼んで申し訳ないんだけど、あなたの家でお花見に持って行くお弁当を作ってもらえないかしら? もちろん材料はこっちで既に用意してるんだけど」
「お弁当?」
「ええ。今朝から急にうちのコンロの調子が悪くてね。食材だけ買い込んで博士が作る気満々だったんだけど、コンロの修理をしてたら肝心のお弁当を作る時間がなくなっちゃいそうで。買って食べるっていうのも味気ないし、特に小嶋くんはお弁当すごく楽しみにしてたみたいだから」
まあ、メタボおやじが食材を大量に買い込んじゃったせいで使わないのも勿体無いしね。と、灰原がそんな毒をつけ加えるように吐くと、博士の苦笑いが電話の向こうから微かに聞こえてくる。なまえは突然言われたお願いに、うーんと間延びした返事をしながら、新一と一緒に住んでいたときのことを思い出した。
こう見えて、高校生の彼の昼食にお弁当を作っていたのはなまえだった。もちろん、仕事がどうしても忙しい際は蘭に頼むこともあったが、基本的には毎日、退勤後に遅くまでやっているスーパーで食材を買って、翌朝、用意しておくということを数年続けていたのである。思い返してみれば大変だったなと思うものの、新一がコナンに幼児化してからはその用意も必要なくなったので、寝坊ができると喜ばしい反面、少しだけ寂しいのも事実だった。
おそらく、博士もそのことを知っていたからこそ、今回は蘭ではなく、なまえに頼んできたのだと思われる。そして、快く了承してくれることを予想しているのだ。
そんな推理に笑みを浮かべたなまえには、当然ながら別段、断る理由もなく言葉を続ける。日頃、生意気な弟がお世話になっている自分にできるのは、博士と灰原に対して、ご期待に沿えるような予想通りの返答をあげるだけ。
「うん、いいよ。早起きしててよかった」
「迷惑かけてごめんなさいね。ありがとう。じゃあ、食材はこれから博士と一緒に渡しに行くから」
クールな灰原からの「ありがとう」という言葉は、なかなか聞けるものではない。なまえはそれだけで得したような気持ちになり、電話を置くとすぐに玄関に出られるように身支度を始めた。
「博士が何だって?」
会話の内容が気になっていたらしい赤井が、改めておはようの挨拶代わりになまえのことを後ろから甘えるみたいに抱きしめつつ尋ねてくる。最初はそれだけで動揺していた彼女も今やかなり慣れて、たくましいその腕に抱かれたまま平然と返事をするのである。
「お花見に行くのにお弁当を作ろうと思ったらコンロが壊れていたらしく、うちでお弁当を作って欲しいんですって。そうだ、秀一も一緒にどう? お花見」
「俺はいいよ。気をつけて行っておいで」
「いいよって、今日もどこかに?」
「ああ、少しな。だから、俺の代わりにあの茶髪の彼女のこと、よく見ておいてやってくれないか」
「それはいいですけど……」
でも、やっぱり、外で何をしているかは教えてくれないのか。なまえはそう思いつつ、とうとう彼を押しのけてひっぺがす。そして、素晴らしい名案を思いついて、自分でもその感動に思わず短い声を上げたのだ。
「あっ! じゃあ、秀一のお弁当も一緒に作ってあげる!」
「え?」
「学生時代、お母さんに作ってもらったことありませんか? お弁当」
なまえは当然のことを言うように、にこにこしながらそんな提案をした。返事はまだ聞いてもいないし、貰い受ける食材も何があるのかは知らない。だが、ひとり分くらい勝手に使ったところで文句を言うような隣人ではないことはわかっている。なまえはもう既に母・有希子直伝の卵焼きや唐揚げなどを、赤井の弁当にも入れてやる気満々で早くもレシピを頭の中で構築していくのだった。
一方の赤井は、イギリスにいた頃も含めた自身の学生時代のことを思い返していた。まだなまえには詳しい身の上を明かしてはいないが、末の妹である真純が生まれる前に父の務武の死の真相を探るためにFBI捜査官になることを目指し、赤井は親元を離れて単身でアメリカに移住していたのである。秀吉とふたり兄弟だったイギリス時代ならメアリーが手作りでランチを持たせてくれたこともあったが、渡米してからは当然、昼食なんて買って食べるものであり、クラスメイトが母親手製のサンドウィッチを広げて楽しそうに談笑しながら食べているのを横目に見ていたこともある。それを羨ましいと思ったことは残念ながら一度もないが、日本特有らしい食育を意識した愛情込もったランチボックスの話をしているなまえを見ていると、彼は自分でも知らず知らずに胸に空いていた穴が愛で満たされる思いがした。もしも彼女との間に子どもを儲けられたのなら、その子は絶対に心に風穴を開けることはないだろう。なんて、らしくもないことすら考えてしまう。そして、同時にこんなことを思ったのだ。
俺が結婚するなら絶対にこの女しかいないな、と。
それは今まで戯れに将来のことを口にしていた赤井が、初めてきちんとした誠意を持って彼女との結婚を意識した瞬間だった。そんな決意を当然ながらなまえは知らず、呑気に未だ献立を考えている様子である。そして工藤邸に鳴り響いたチャイムに、弾かれるように反応した。
きっと食材を持ったふたりが、玄関までやって来たのに違いない。そう思うと、なまえは満面の笑みで、赤井にこう言うのだ。
「お弁当、乞うご期待! ……なんてね?」