84...
「掏摸よーっ! 掏摸がいるわよーっ!」
そう大声で叫びながら走ってきたのは、見知らぬ中年の太ったおばさんだった。どうやら相当慌てたようで不注意にも一切、前を見ずにどたどたと走ってきて、ジョディにぶつかったかと思うと派手に転び、尻もちをついて腰を押さえている。突然起こった掏摸という犯罪行為に、大人しく距離を取っていたはずの少年探偵団の子どもたちも急いで駆けつけるので、保護者的な役割を果たしていたなまえも灰原とともに再びコナンの元に集まることになったのであった。
「大丈夫ですか?」
「大丈夫? おばさん」
「ええ……さっき、アタシの鞄に手を入れてる人がいて慌てちゃって……」
少し落ち着きを取り戻した彼女を、ジョディが手を貸して抱き起こす。ということは、掏摸事件はこのおばさんに限っては未遂で済んだということらしい。こういう花見会場は、そもそも酒に酔って気が大きくなり不用心になっている人も多いし、掏摸が喧騒に乗じて横行しやすいスポットでもある。そんな風に思ってなまえが他の被害者がいることを心配していると、ジョディの傍にいた謎の男性が、同じタイミングでまったく同じことを口にした。
「確かにこういう人混みは掏摸が多いですからね」
誰だろう、この人。そう思って彼を見たとき、ばちりと音がするくらい視線が合う。しかし、マスク姿の彼はわずかにその目を細めて気まずそうに会釈するだけで、やはりなまえには見覚えがなかった。ジョディの知り合いだろうか。だとしたらFBIの誰か? そんなことを考えていると、今度は転んでいたおばさんが何かに気がついたかのように「あっ!」と大声を上げるので、思わず全員の視線がそちらに向く。
「?」
「どうかしましたか?」
「いえ、ええ、あの……本当、そうですよね。気をつけないといけないですよね……それじゃあ、失礼しますぅ!」
そう言って再び走り去っていく明らかに挙動不審な彼女を、一同は唖然としつつ見送った。この男性を見てなぜか急に何かを思い出したかのような態度で逃げるみたいに立ち去ってしまったわけだが、人混みの中に消えてしまった彼女にその理由を尋ねることはもうできそうにない。
事件は未遂だったということもあり、また、コナンとジョディもまだ話の途中だったということもあって、子どもたちは気をとりなおして先に手水舎へ行って手を清め、お参りを済ませようと言い出した。赤井から灰原の目付役を任されていたなまえも当然それについて行こうとしたが、とてもフランクな感じでジョディが「そうだ」と声をかけてくる。
「ねえ、なまえも彼の話を一緒に聞いてくれない?」
「え?」
「……彼、つい最近、どこかで火傷のシュウを見かけたって言うのよ。確かあなたも彼の知り合いなんでしょう?」
「!」
それを聞いて、なまえは再び心臓が止まりそうなほど驚いてしまった。火傷のシュウ。つまり、赤井の死に疑問に抱いていた探り屋の「バーボン」が、FBI周辺でその真偽を確かめるために扮していた火傷の男。その人物がまたもこの街のどこかに現れたという新たな情報に、興味を引かれないわけがない。
それに。それにだ。先ほど灰原に聞いた話によって、バーボンに対する「ある疑い」がなまえの中で格段に高まったのは事実。それを確かめるためになら、今はどんな些細な情報であったとしても喉から手が出るほど欲しい。
男性はなまえを見て、やはり優しく微笑んで改めてきちんとした会釈をした。そして、ひどい風邪を引いているらしいがらがらな喉で咳払いをしながら、極めて穏やかに話しかけてくる。
「こちらの外国人女性と同じく、あなたのこともはっきりと覚えていますよ。確か医師の方でしたよね? 私も帝都銀行の強盗事件のときに人質になっていましたから」
「わっ、そうだったんですか!」
「武装した犯人を相手に果敢にも手を上げて、負傷者への応急処置を申し出るという勇敢な行動。あのときの人質はみんなあなたのおかげで心強い気持ちになったと思いますよ。もし負傷しても、医者がいるのなら安心だって」
そんなことを言って再びゴホゴホと咳き込む彼に、なまえは何とタイムリーなことだろうと思う。あのとき初めて出会った、火傷の男。そしてその場に居合わせたという目の前のこの男性が、最近、火傷の赤井を見かけたという運命的な巡り合わせに、今は心の底から感謝する。なまえは自分の心を落ち着かせるように胸に手を置いて、核心に近づいているという鼓動の高鳴りを抑えながら、中途参入した話の流れを見守った。
「それで、まだ思い出せない? 彼とどこで会ったか」
「ええ。昨日、風邪で一日ぶっ倒れていたので、記憶が……」
「すごいがらがら声だもんね……」
コナンが呆れたような目を男性に向けると、彼はまたも激しい咳をする。すると、ジョディは何やら考え込みながら彼にこう返した。
「もしかして、どこかの缶コーヒーの自販機の前とかで見かけたんじゃない?」
「缶コーヒー好きなんですか? 彼」
「ええ、よく飲んでたわ。……そう、彼らが今にも病院を襲撃してこようかっていう、あのときも……」
病院。襲撃。そのキーワードから、事情を知る者なら自ずと弾き出されるであろう、水無怜奈が入院していた杯戸中央病院での一件のことだとなまえは瞬時に鋭く目を細めた。もちろん、その場にいなかった彼女にとってはジョディや新一、赤井からの聞きかじりの情報にしか過ぎないが、そのとき既に赤井が新一と結託して自分の死を偽装するための策を打っていたことは間違いない。そういえば、偽装に使った死体は楠田陸道という組織の下級構成員の男のものであるということはわかっていたが、赤井がどうやって自分の指紋を残さなかったのかは聞いていなかった。後に警察側に提出されたコナンの携帯電話に彼が触ったことを証明するためには、ジョディを含めたFBI捜査官たちの前でそれにあらかじめ触れておく必要がある。しかも、彼の利き腕である左ではなく、わざと焼け残した右の方の手で。
しかしそのトリックは、ジョディが今しがた話した「赤井が飲んでいた缶コーヒーを珍しくも床に落とした」というエピソードによって簡単に見破ることができた。彼女はそれを単なる疲れか、あるいは不吉の予兆だと思ったようであったが、本当はそうではない。彼の指先には事前に指紋をつけないような何らかのコーティングが施してあって、そのせいで滑って缶を落とした。それは確かに推測でしかないが、死体すり替えに使われたトリックのひとつであったということには一応ながら説明がつく。
「疲れていらっしゃったんですね、缶コーヒーを落とすなんて……っていうか、襲撃って……?」
「ああ、違う違う! その彼と火傷の彼は別人で……。もういいわ、思い出したらここに連絡してくれる?」
「ええ……」
ジョディは懐から名刺を彼に手渡し、その場の話としては終結してしまう。結局、その男性から得られたのは火傷の男を見かけたという目撃情報のみ。詳細を覚えていないならもう用はなく、子どもたちと合流しようと三人でその場から離れようとすれば、なまえに対してその男性が困ったように声をかけてきたのである。
「あ、あの。女医さん、すみません」
「え?」
「よかったら少し相談に乗ってくれませんか、私の妻があなたと同世代くらいで、今、妊娠中なのですが、お守りの色で迷ってしまって」
「ええ……、構いませんけど」
なまえはそう言いながら、目下にいたコナンを一瞥した。すると、彼は取るに足りないことのように手を頭の後ろで組みながら言う。
「じゃあ、俺たち先に行ってるけど、あんま遅くなんじゃねーぞ」
「わかった」
本当は、出会ったばかりでよく知りもしない男と姉がふたりきりになるのはあまり喜ばしいことではないとコナンは一瞬、思ったが、その男性が先ほど話していた妻のことと、その妻の安産祈願のお守りの色で迷っているという話から、到底おかしなナンパではないということはわかる。それに、ここから授与所までは人通りも多く、彼の態度が豹変して急になまえを襲ってきたり、その他の犯罪行為に繋がるような恐れはおそらくないだろうと一瞬のうちに推察できていたのである。そう見越してなまえがもし了承するのであれば、コナンが行かせない義理はなく、ここは大人しく見送ろうと思っていたのであった。
ということで、自らの意思で了承の判断を下したなまえに後は任せ、歩美たちが先に並んでいると思われる参拝の列に向かってコナンとジョディは歩き出すのである。
その彼に、本当はまったく別の思惑があるとも知らずに。
case84. 胸が焦がれるほど好きだった人のこと
授与所に行く途中の道で軽く花見をしながら歩いていると、彼はなまえに気まずさを感じさせないように率先して自身の身の上話をしてくれた。妻である素江さんは現在妊娠六ヶ月。お腹の子どもは女の子であり「じゃあ、お守り袋は絶対に明るい色の方がいいですね」という何とも微笑ましい話題にもなる。しかし、近頃はその素江さんも入院はしないまでも具合のよくない日々が続いているらしく、そのためにもご利益があると有名なこの神社に花見がてらお守りを買いに来たのだと彼は頭を掻きながら照れ臭そうに言った。その模範亭主ぶりに思わず、なまえの脳裏には灰原に言われた「愛妻」という言葉とともに恋人の赤井の顔が思い浮かんでしまう。彼もいつかはと考えたところで、いやいや何を考えているんだと人知れず首を横に振らねばならなかった。
火傷の男に関する思わぬ情報に戸惑っていたなまえではあったが、彼と話をしているうちにその気持ちも少しだけ和らいでいくのが自分でもわかった。彼は風邪を移さないようにマスクで顔を覆っていたが、その目元は紳士的で優しく、がらがらなのになぜか聞いたことがあるような、耳馴染みがいい声だと思う。もちろん、顔は全然タイプではないし、自分にも彼にも相手がいるので恋愛対象として見たりするという話では一切ないが、彼がものすごくいい人なのだろうということは、合わせてくれる歩調からもなんとなく察することができるのだ。こんな風に奥さん思いの旦那さん、すっごく素敵だなあ、なんて。なまえは将来着るであろう自分のウエディングドレス姿を想起して、その隣にいる男の顔がはたして誰なのだろうかといらぬ想像してしまう。
すると、彼は急に話を元に戻すかのように、乙女チックな妄想をしていたなまえを現実に引き戻す。
「先ほど話していた火傷の彼とあなたはどんな関係だったのですか?」
せっかく忘れかけていたのにそう尋ねられて、さすがに一瞬、返答に困った。しかし、彼にとっては何気ない会話の一端に過ぎない。なまえはそう思いながら言葉を返す。
「うーん。顔見知り、といったところでしょうか」
「さっきの外国人の彼女にも聞いたんですけど、本当は彼、あの女性の恋人だったんじゃないんですか?」
「過去、そうだったのかもしれませんが、今は違いますよ」
そう言ったものの、なまえは自分のその言葉に少し気まずさを覚えていた。赤井とジョディとの間に何があったかは知らない。交際があったのかもしれないし、単なるジョディの片思いなのかもしれない。けれど、今、彼と付き合っているのは紛れもなく自分であり、その事実はゆるぎないものである。だからこそ、今、罪悪感を募らせている原因にもなってしまっているのではあるが。
それに、そもそも赤井秀一という人物と火傷の男はまったくの別人だった。FBI捜査官という職につく赤井と、黒ずくめの組織の一員として暗躍している安室。まるで彼らは光と影。正義と悪という対照的な言葉がぴったりなほどよく似合う。昔、旧友ふたりに眩しいほどの「光」を感じていたように。
「彼を見かけただけのあなたに事情を詳しく説明するのは難しいですが、彼女が好意を抱いている人物と火傷の彼は別人なんです。ここだけの話、あなたが見たという男の人は実はすっごく悪い人なんですよ」
「悪い人……」
「でも、私……その火傷の彼のことが」
そう言った瞬間、まるで神風のような突風が吹く。一面に桜吹雪が舞い、花見客たちが一斉にわっと声を上げる中、なまえは無言のまま風が収まるまで目を閉じてじっと堪えた。そして、うっすらと物憂げに目を開けた後、続きの言葉を落とすように口にする。
「その火傷の彼のことが……実は私、この胸が焦がれるくらい好きだったんです」
「っ……!」
「初恋にしては遅すぎましたね。悪い人だって知らなくて、好きでいるの、やめちゃったんですけど」
すると、彼がなまえの髪についた花びらを指先で取り除きながら、悲しそうな瞳でこう言った。
「今は……もう、吹っ切れたんですか?」
「ええ。今は私にもちゃんと交際相手がいるので。でも、古傷みたいになっちゃいましたね。ふとしたときに触れると、まだ痛むんだなって思うときもあります」
なまえはそう言うと、ふふっと笑う。男性は固く拳を結びながら、声をわずかに震わせて答えた。
「なまえさん、といいましたよね」
「え? ええ」
「その古傷を治す方法、知っていますか?」
「え?」
その瞬間だった。ポケットに入れていたなまえの携帯電話がけたたましい音で鳴り、彼女は慌てて画面を確認する。そこに表示された「江戸川コナン」の文字に、なまえは眉を下げながら目の前の彼に平謝りをした。
「あっ、と、ごめんなさい。ちょっと電話が……」
「いえ、こちらこそ付き合わせてすみません。もうここまでで結構ですよ。お守りはあなたに言われた通り、明るい色にしますから」
「そうですか?」
「じゃあ、また」
そう言って離れる彼を引き止めるように、なまえはその背に尋ねる。
「すみません。その、古傷を治す方法だけ、よかったら最後に教えてくれませんか?」
すると、彼はくるりと彼女の方を向きながら目を細めて笑う。
「その交際相手に、存分なほど甘えておくことですよ」
今は、ね。と、それはつけ加えずに、軽い会釈をして男性はなまえから離れた。そして、大切に握った拳をポケットに突っ込み、彼は今しがた別れたばかりの彼女のことを張り裂けそうな胸で考え込んでしまうのである。