85...
変装する相手は、ひとりで来ていた花見客なら誰でもよかった。眠らせて、ベルモットに特殊メイクの手助けをしてもらい、呑気に花見なんかに来ていたFBIの女に「火傷の男を見た」と言って近づく。そして何食わぬ顔で彼女に盗聴器を仕掛け、どんな些細なことでもいいから赤井についての情報を聞き出すこと。それこそがバーボンとしての今日の仕事であり、赤井秀一を追う公安警察・降谷零としての目的でもあった。
なのに、こんなときに限ってまたもあいつに出会ってしまったのだ。この世で最も会いたくて、会いたくない。目が合うだけで、まだこの身が燃えるほどの愛しさを感じていると完膚なきまでに思い知らされる、厄介な女。工藤なまえに。
『この胸が焦がれるくらい好きだったんです』
彼女と別れてもなお、ずっと頭の中で繰り返し再生され続けるその台詞に、性懲りもなくまだ胸がドキドキしていた。情報を聞き終えて離れようとしていた三人の輪から、なまえだけを選んでとっさに引き止めたのはほとんど無意識。けれど、ベルツリー急行乗車以来、安室透のことを異常に避け始めた彼女に対して、八号車と貨物車の狭間でともに消えゆくシルエットを見かけた赤井秀一のことをどれほど既知しているのかを調べるためには、この変装もちょうどいい仮面になると打算的に思えたのは事実だった。
蓋を開けてみれば、自分にとって一番信じたくない最悪の状況であることにはやはり間違いなかった。彼女はおそらく、安室透の秘密についてはほとんどすべてに気がついている。「悪い人」と形容した言葉から、反社会組織と繋がりがあるということも。そして、銀行強盗事件のときや、米花百貨店爆破未遂事件のときに「火傷の男」に扮していたのが安室であるということも。……その事実を知ってしまったからこそ、彼女は安室透のことを避け始め、そしてまるで鍵をかけて海の底に沈めてしまうかのように「好きだった」とその想いごと過去形にしたのだ。唯一の救いは、高校時代の友人であった降谷と安室が同一人物であるとは、おそらくまだ断定できていないということだけ。それを知られるのが、今の降谷にとっては一番怖い。
安室透として出会ってすぐの彼女は警戒心が強く、正直にその正体を明かすまでは絶対に相手を寄せつけまいと心を頑なにしているように見えた。けれど、二度目の逢瀬のときに確信を突くように彼女の口から問われた「本当は誰なんですか?」という質問に対し、別人であるという強引な嘘がついにはそれを押し通した。その場では降谷もその事実に途方もない安堵を抱いたが、そんなつけ焼き刃な主張が、結局は自分たちの関係を余計に悪化させる原因になってしまったのだと後になって知るのである。
降谷はその後、高校時代から自分が彼女と送ってみたいと憧れていたような幸せすぎる疑似恋愛を、安室透の身とはいえ、確実に一瞬、その手に掴むことができた。どちらからとも「恋人になろう」と言ったわけではなかったが、気持ちが通じ合っていることはお互いにわかって、指を絡め、抱きしめ合い、誰もいない月夜の浜辺でキスをした。まるでそうなることが必然だったとさえ感じるほど幸せに。
いつか組織が壊滅して何もかも話せる時が来たら、そのときは降谷零として遠慮なく彼女に愛を囁こう。そんな風に思っているうちに足元をすくわれ、自分がついた嘘の代償としてとうとう安室透としても彼女の傍にいることが叶わなくなったのである。
満開になった桜の木の下で、降谷は苦々しく思う。こうなった結果こそが、すべて自分の業であると。なまえを裏切ったことも。そして、諸伏を守れなかったことも。すべてが一斉に引き金となって、嘘の毛皮を被った降谷を標的に穿つ銀の弾丸になったのである。
しかし、どんなに見苦しい状況に陥ったとしても、なまえへの気持ちだけが断ち切れないのは、あの日、諸伏からもらった言葉が未だに降谷の胸の中で生きているからだ。
『この地球上どこを探したって、なまえを幸せにできる男は、降谷零、お前以外にいないだろ』
なあ、ヒロ。お前、今でもそう思ってくれてるよな?
ぐちゃぐちゃになった頭の中を一度クリアにしたくて。降谷は握っていた拳をポケットから取り出し、その手のひらを眺める。
そこにあったのは、先ほど彼女の細い髪に絡まってついていた一枚の桜の花弁だった。取ったときはさりげなく払ったふりをしたが、本当はその手のひらに潰さないように、そっと握って大事に持っていたのである。彼はその場に立ち止まり、しばらくその花弁を見つめると、決して風邪声などではない降谷自身の言葉としてぽつりと溢すように呟く。
「僕だって。この胸が激しく焦がれるくらい、いつまでもお前のことが好きだよ」
そして、彼は再び歩き出す。一日でも早く、愛するこの日本からこんな腐った組織を壊滅させて堂々と彼女を迎えにいくために。
彼がなまえに「古傷を治す方法」として教えたかったことは本当は別にあった。それはなまえの交際相手である偽の大学院生から今すぐにでも彼女を奪って、その傷を丸ごと自分が愛してやること。それ以外に方法はないと、降谷はずっと、信じている。
case85. 一枚の花弁が風に流れていく
お守りを買いに行ってしまった男性と別れた後、電話でコナンから言われたのは、花見会場にある公衆トイレ裏にて人が死んでいるという信じられないような内容であった。巡回中の警備員を通じて警察には連絡済みであるというが、一刻も早い現場保存の観点からも検視官が到着する前に一度死体を見て欲しいと頼まれて急いでそこへと向かう。人混みもあって場所に自信はなかったが、事件という非日常的な出来事が逆に多くの野次馬を集めていて、すぐに当該のトイレがどこかなのは見つけられた。
医者です、どいてください。そう言いながらなまえはなんとか人を掻い潜るように間を縫って到着する。そこには頭から血を流して座り込むように死んでいる女性と、その死体に対する調べを、コナンとジョディが進めているところであった。
「なまえ姉ちゃん。早かったね」
「あまり遠くまでは行ってなかったからね。それより、その被害者って……」
「ええ。さっき私にぶつかってきた女性ね」
ジョディがそう言うのを聞きながらなまえはさっそく死体の傍に近づいて、致命傷と思われる頭部の裂傷について詳しく観察を始めた。被害者は先ほど「掏摸だ」と叫びながらジョディとぶつかった中年女性。傷口が広範囲に渡って頭を割っていることと、その殴打痕から見て、かなり怨恨性の強い事件だということは一目瞭然である。
「博士が犯人のシルエットを見たらしいんだが、三十センチくらいの棒で何度も殴りつけていたらしい」
「そのようね。他に傷口はなさそうだし、死因は見たまま撲殺。凶器はかなり細い形状をしていて、おそらくは金属製。それもあまり重いものではなく、扱いやすさから女性や老人でも犯行は可能でしょう。博士の目撃情報と一致するように何度も殴られたような痕があるから、動機は極めて強い怨恨と見て間違いはないでしょうけど、つまりは、この女性の息の根を確実に止めるために何度も殴ったってことだから、力が強い男性というよりは心体ともに弱い立場のある人じゃないかしら」
それに、これほど激しい暴行であれば、返り血の類は相当ひどいだろう。衣服はこの喧騒に紛れて処分してしまえるかもしれないが、博士の他に目撃者がいてもおかしくはないし、犯人自身に見落としや隠滅できなかった血痕が残っている可能性もある。と、現場を見た感想としてざっと断定できる部分のみを言い切ると、初めてなまえの監察医としての仕事ぶりを見ていたジョディが大きく感嘆の声を上げる。
「ワオ! なまえ、あなたとても的確ね」
「ありがとう。でも、それ以上の捜査は専門外。後はジョディさんとコナンくんに任せるわ」
「オーケー。大船に乗ったつもりでいてね」
そう言ってウインクする彼女に、なまえは笑う。彼女とは同世代だし、まるでバディを組んだかのような居心地のよさだった。
その後すぐに目暮警部や高木刑事を含めた捜査一課が到着し、なまえはニアミスで検視することとなった顔見知りの鑑識と遺体の状況について詳しく話をしながら説明することになった。偶然とはいえ、思いがけず得た死体に関するエキスパートを目暮はまるで百人力のごとく思い、娘のように気にかけつつ、コナンとジョディと同様に現場に立ち入ることを即答で許可する。高木はその様子を見つめながら、今度は栗どら焼きの方を東都監察医務院まで届けに行かされるのだろうなあと思って苦笑した。
被害者はその界隈では比較的名の知れた黒兵衛と呼ばれる掏摸師だったらしく、彼女の財布の中にはその代名詞的存在である黒く塗られた五円玉がびっしりと詰まるように入っていた。黒兵衛は盗んだ財布の代わりに黒い五円玉を三枚、つまり、自分に掏られるために金を稼いでくれて「五・黒・三(ごくろうさん)」の意味で、相手の懐に忍ばせる手口でその名を馳せていたらしい。しかし今回に限っては、別の財布から出てきた輪ゴムで止められた札束とその間に仕込まれたGPS発信機が発見されたことにより、掏摸行為を逆手にとって居場所を特定した掏摸の被害者が復讐として殺害した、と早々に結論づけられた。
捜査が今後どうなっていくかに関して一端のミステリーファンとしては興味もあるが、検視ができること以外、なまえは集まっている野次馬たちとそんなに相違ないただの一般人。なので、彼女は一度その場から離れ、捜査の邪魔にならないように少し遠巻きから成り行きを見守ることにしたのである。しかし、その折に、背後の低い位置からいつもの明るい声色で気軽に話しかけられた。
「あっ、なまえおねえさんだ!」
「どこに行ってたんですか、僕たちみんな参拝終わっちゃいましたよ」
「迷子になったのかと思ったぞ!」
コナンを除く少年探偵団のみんなにそう詰め寄られ、なまえは苦笑いをしながら目線を合わせるようにしゃがみ込む。そうだ、赤井にも灰原の動向を見ておくようにと言われていたのに、火傷の男の話が急に舞い込んできて抜けていた。けれどまあ、みんな揃って現場に来たということで、一旦は今日の保護者として彼らの無事に安堵する。そして、子どもたちそれぞれがハンカチのようなものに包んだ何かを持っており、なまえは話を変えるようにそれについて尋ねることにした。
「ごめんね、勝手にいなくなって。それより、みんなのそれは?」
「盗まれたお財布だよ」
「コナンくんに言われてこの周辺のゴミ箱に捨てられていた財布を探していたんです。なんでも、あの被害者のおばさんが掏摸の常習犯だったみたいで、おそらく掏られた被害者の中に犯人がいるだろうからって」
「なるほど。それで指紋をつけないようにハンカチに包んでるんだ。みんな、偉いね」
「コナンくんに言われたからだけどね」
三人はそう言いながら、監察医であるなまえに褒められたことを純粋に嬉しがっているようであった。彼女はその様子をにこにこと眺め、じゃあと子どもたちと一緒に再び現場に舞い戻ろうとする。しかし、それをまっさきに引き止めたのはなんと歩美だった。
「駄目だよ! なまえおねえさんは事件よりもお参りが先!」
「え?」
「そうだぞ! さっきのおみくじ、凶だったんだろ。超不吉じゃねーか!」
「まったくです!」
「一理あるわね。結び所でくじを結ばなかったみたいだし、苦しんで死なないように神様にお願いする必要があるんじゃない?」
「なんで番号まで知ってるの……」
なまえはそう言いながらも、気の落ちるくじのことを思い出して再びしょげる。そして背中を押されるように子どもたちに参拝に行けとせがまれてしまったため、重い腰を上げるしかなかった。
「さっき、ニット帽を被ったねえちゃんが鈴は激しく鳴らせって言ってたから、ちゃんとでっけー音で鳴らすんだぞ!」
「お参りが終わったら、僕たち、少年探偵団の捜査に是非参加してくださいね」
「う、うん……」
子どもたちに見送られて、なまえは渋々歩き出す。それにしても、少年探偵団の捜査に参加って。もうすぐ三十なんだけどな、私……。そう思いながらもまあ、事件や、火傷の男のことは一旦忘れて、ひとりで花見でもしながら社まで向かおうと桜の木を見上げた。赤井から監視を頼まれ、目を離すまいと思っていた灰原も、警察の傍にいればおそらく滅多なことにはならないだろう。そう思いながら。
そんなときだった。なまえの肩に通行人の女性が差していた薄いピンク色の日傘の端が当たって、軽い痛みが走る。当たってきたのは向こうからであったが、きっと人混みに押されたためでわざとではない。けれど、ぶつかったことには違いなかったので、自分にも過失があったとなまえはとっさにその人物に対して謝った。
「あ、すみません!」
「いえ……」
細身の女性が軽い会釈をして通り過ぎた。おそらく妊娠中だろう。お腹にポンポンと手を置いて撫でているのが印象的であったが、日傘でその顔まではよく見えなかった。
そんな何気ない出来事を特には気に止めることもなく、なまえは参道を歩き出す。しかし、ぶつかった妊婦はその彼女の背を横目に眺めながら、今ここにはいない相棒に向かってこう呟くのだ。
「悪いわね、バーボン。でもやっぱり私、嘘つきなあなたに、あの女神様がお似合いだとは思えないの」
妊婦に扮した怪しげな彼女の目には、にこにこと楽しげに桜を眺めるなまえの横顔が映る。なまえはやはりとても純真で、一切の汚れがないようにしか見えなかった。