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長い行列に並んでの参拝を終えてから、なまえは導かれるように授与所に立ち寄ってお守りを一度、眺めてみることにした。先ほどの男性がおそらく買ったであろうと思われる安産祈願のお守りがいくつかあって、その中でも一番女の子らしいピンク色のものを思わず手に取って見つめる。文字の背景には白い花と小鳥の綺麗な刺繍が施されており、柄も他の色と少しずつ違っているようで、とても作りが細かい。安産という自分とは縁遠いものであるはずなのに、あまりにもデザインが可愛くて無意識的に口元を弧にしていると、中にいた巫女装束の女性ににっこり微笑まれ、慌てて元の場所に返した。年齢が年齢だけに、さすがにちょっと気まずい。
それから再び目線を流すように陳列棚を眺めていると、今度は同じお守りの中でも一番無難なものに目を引かれ、懲りずに次はそれを手に取った。刺繍で書かれたのは「厄除御守」という四文字。それを自分よりも先に持たせたいと思ったのは、もちろん、なまえの恋人でもあり、復職すればFBI捜査官として日々危ない橋を渡ることも多いであろう赤井秀一。周囲を再び嗅ぎ回り始めたという火傷の男の目撃談もあって、彼に差し迫る「厄」がこれで防げるのであれば安いと思う。とはいえ、なまえ自身もまだ九十四番の呪いを引きずっているので、ここはふたりして同じお守りを揃いでつけて、災いから身を防ぐのも悪くはないかもしれないなと微かに笑いながら思ったのであった。
「ようお参りです」
先ほどの巫女装束の女性が、引き戸を開けてなまえに話しかけてくる。一瞬、びくりとして、しかしすぐに微笑み返し、これをふたつ、と彼女に言って代金を支払った。口を折り曲げた小さな紙袋に仲良く入れられたそれを握って、またも無意識的ににこにことしていると、その女性が言う。
「先ほどからお見受けしていましたが目を奪われるくらい素敵な笑顔をしていますね。お渡しする人も、きっとお喜びになりますよ」
「あ、ありがとうございます……」
はにかむようにそう言って、緩んだ頬を押さえながら軽く頭を下げてその場から離れる。ああ言ってくれたけど、秀一、喜ぶかなあ。そんなことを思っていると、なんだか珍しく急に彼の声が聞きたくなってきて、いつも用があるとき以外は滅多にかけないようにしている携帯電話をわざわざ手に取った。
繋がるまでに鳴ったコールはたったの二回。今日は出かけると言っていたため忙しいかと思われたのに、彼は案外すぐに電話に出た。
「もしもし? えっと……昴くん?」
自分が外にいることから一応、名指しにするのは沖矢の方の名にしておいた。しかし、返ってきたのは、最近ではすっかり聞き慣れた赤井の声。
「俺だ。どうかしたか?」
「大したことじゃないんだけど……ちょっと」
「ちょっと?」
「えっと……話したいなあと思って……?」
電話を手に取ったときはあんなに浮かれていたはずなのに、なんだか突然、自分が恥ずかしいことをしているような気持ちになって、なまえは思わず自身の言葉尻に疑問符をつけてしまっていた。そして、そんな自分のことを「何してるんだろう」と急に我に返って、自己嫌悪すらふつふつと沸き始める始末。このまま電話を切りたい衝動にすら駆られてしまい、手に持っていた小袋を心細くぎゅっと握りしめると、そのお守りすら浮かれた結果のものであるように思えて気恥ずかしい。もちろん恋人であれば用がなくても話がしたいなんていうことは一般的なことなのであるが、彼女の場合は恋愛経験がなさすぎて、それが普通のことであるとはわからなかったのである。
すると彼は一瞬、言葉に詰まった後、ふうと意味ありげに息を吐き出した。一服中だったのかと思ったが本当はそうではない。あまりになまえの行動が不意打ち級に可愛すぎて、余裕のある赤井でも正直なかなか必死なのだ。
「嬉しいよ。お前から用もないのに電話なんて」
出先でも俺のことを忘れてないんだな。と、そう言われると、途端に顔が熱くなって、なまえは近くのベンチに座って酔ってもいないのに酔い覚ましをする。すると、はらはらと頭の上に桜の花びらが落ちてきて、思わず手のひらを宙に向けると、運よく一枚がその上に乗った。それをふうと吐息で吹き飛ばして、聞きたかった赤井の声に安堵の念すら抱く。
「ちょっと事件があって。すぐに戻らないと、みんな心配するかなって思うんだけど」
「あのボウヤがいるだろうし、少しくらいなら構わないだろ。俺も、今はお前の声を聞きていたい気分さ」
「あ、えっと。な、なんだか照れるね……こういうの」
「俺の顔を見ていても見ていなくても、なまえはどのみち照れるんだな」
なまえの脳裏には、そう言って少し笑った赤井の顔が思い浮かんだ。近づきがたいオーラを放つ彼は、実は意外とよく笑う。交際を始めてから、なまえはすぐにそのことに気がついていた。
「そうだ。お弁当、食べました?」
「ああ。美味かったよ。天気がよかったから外で食べた」
「外で?」
「と、言っても。なまえが今朝、途中でほっぽり出して行った洗濯物に気づいて干した後から出かけるまで。庭と家の境目の、小上がりのところでな」
「ああっ! すっかり忘れてました……!」
「大事なクマはまだ乾いていないようだったから干したまま出かけたよ。俺が先に帰るようなら他のと一緒に家の中に入れておく」
「ありがとうございます」
なまえは礼を口にしながら、赤井があの囚われのクマのようになったぬいぐるみを抱いて、部屋に入るところを想像する。なんだか妙に似合うなと思ってしまったのは、きっとアメリカ映画の見過ぎだろう。日中は外で働いているサラリーマンのお父さんが、幼少の金髪の娘にプレゼントとしてクマの人形を抱えて帰ってくる。そういうよくあるシーンが、普段から甘い態度の赤井になら絶対に様になるだろうなと思って少し笑えた。
そうして、彼に内緒でそんな場面を想像していると、だんだんなまえは春の日差しとともに気持ちが和らいで、蕾が花開くように心がやわらかくなるのがわかった。これは最近、赤井と一緒にいるときに感じることが多くなった、自分の中のとびきり優しい感情であると思う。確かにドキドキしたり、緊張したりも多いが、やっぱり彼に対する気持ちはどこか家族に向けるものに似ている。以前、ヘソを曲げられてしまったことがあるので、決してその言葉を迂闊には口にしないようにしているが、その気持ちを大切にしていたいという思いに嘘はない。
そう思った瞬間、ふと頭の中をよぎったのは、かつてこの胸を焦がすほど好きだった安室のこと。そしてその彼が、帝都銀行強盗事件の頃から周囲をうろついていた火傷の男だったということだった。
「あのね、ちょっと聞いて欲しいことがあるんだけど」
「なんだ?」
なまえは目を伏せて、火傷の男についての情報をさっそく赤井に話そうと思った。しかし、すぐに口を噤んだのは、まだ彼女自身にその確証がないから。
確証がない。だけど、確かに安室に関して気がかりなことがあるのは事実だった。火傷の彼と初めて出会ったあの場で果敢にも拳銃で犯人を撃とうとしていたなまえを、彼はまるで叱るみたいに「無茶をするな」と話せないはずの言葉を使ってそう言ったのだ。それが一体何を意味しているのか、なまえはまだ気がつきたくない。
「なまえ?」
「あっ、ご、ごめんなさい……やっぱり、帰ってから話すね。私、そろそろ戻らないと、本当にみんなに心配かけちゃうから」
「……そうか、わかった」
そう言うと、赤井はまたも一呼吸置いて、まるで抱きしめるみたいにそっと言う。
「なあ、なまえ。今、お前の声を聞いていたら、毎日会ってるはずなのに、どうしてかお前に会いたくて堪らなくなったよ。だから今日は俺のためになるべく早く帰ってきてくれないか」
たくさんお前を抱きしめたいから。そんな甘い声に、なまえは心臓が掴まれるような思いがする。
本当は先日から薄々気がついていることがある。それは、なまえは赤井と交際するうちに、どんどん彼に惹かれているということだった。この前まで、告白を断ろうとしていた人間が何を言っているんだと思われかねないが、誰かに無性に愛されるということがこんなにも心地よく、暖かいことだとは知らなかった。そんな彼の気持ちに少しでも多く応えたいという思いと、家族という言葉を盾にして、いつまでも甘えるだけの自分でいいという保守的な感情がしのぎを削って、この胸を掻き立てるような春の嵐を巻き起こしているのである。
でも、これだけは言える。あの日、新一が断言してくれたように、赤井を選んだ今はきっと安室を好きでいたときよりも幸せだと。だから、今の自分はこの道を信じて前に進めばいいのだ。
もう何も考えず、ただ素直に赤井の手だけを取って。
「私も」
「え?」
「私も、あなたに会いたい」
それを聞いた赤井は、今、この場に彼女がいなくてよかったと心の底から思った。いたらきっと手離せない。快楽に溺れて泣かせてしまうくらい、欲望のまま執拗に何度も抱いてしまうだろうなと本気で思ったからだ。
case86. 春の嵐
すっかり遅くなってしまったなまえが事件現場に戻ると、もう既に弟のコナンが博士の声で謎解きをしている最中で、彼女は邪魔にならないように一旦その様子を遠巻きから眺めていることにした。容疑者としてピックアップされたのは三人。おみくじを引いたときに子どもたちにくじを持ち帰るように注意してきたおじいさんと、なまえと同世代くらいの若いニット帽の女性。それから、先ほど一緒にお守りを買いに付き添って欲しいと頼んで来た、あの男性である。彼らはそれぞれ黒兵衛に財布を掏られた人たちばかりという話だったので、彼も財布を盗られていたのだろうと思うと、おそらくまだお守りは買えていないだろうなということは察せられた。
結局、その三人の中で唯一の女性であった段野という人物が犯人であったということが判明した。靴紐に大量の五円玉を通して棒状の凶器を作り出し、殺害後はその五円玉をすべて賽銭箱に投げ入れたのだという。その動機は息子の死。一年前、黒兵衛に車のキーが入った財布を掏られた彼女は、車内に残していた喘息持ちの息子が発作を起こして死んだことを恨んでこの度の犯行に及んだという話であった。
彼女が警察に連行されていく様子を見届けてから、なまえはようやくみんなの傍に近づく。すると真っ先に駆け寄って来たのは可愛らしい少年探偵団の子どもたちだった。
「なまえおねえさん!」
「遅かったですね!」
「何かあったんじゃねーかと思って心配したぞ!」
「ごめんごめん。参拝ついでにお守りを買おうと思ったらどれも可愛くて、いろいろ悩んじゃって」
「とか言って、例の彼と電話してたんじゃないの?」
図星……。そう思いながらやはり灰原には敵わなくて、その場を苦笑いでしか誤魔化せない。ともかく、なまえは嫌疑が晴れた男性の方に視線を移し、彼の方へとにこやかに近づいた。
「財布を掏られていたようですね。この度は災難続きでお察しします」
「ええ、授与所まで行ってから気がついたんです」
「そうと知っていれば先ほど私も行って来たので安産祈願のお守りを買っていたのですが。あっ、でもこれでよければあなたに差し上げますよ」
なまえはそう言って、袋の中からふたつ買っていた自分の分の「厄除御守」のお守りを彼に手渡す。妊娠の無事を祈るという意味からは外れてしまうが妻からすべての災いを払うという意味でなら、そんなに的外れにはならないだろう。そう思えたからだ。
彼は一旦それを断ったが、なまえはその手を強引に取って無理やりにも握らせた。そして、赤井の分ではあったものの嘘も方便として「もうひとつあるので」と笑って安心させようとする。すると、彼もとうとう折れて、素直にお守りを受け取り、眺めて少し嬉しそうに微笑んだ。
そんな会話の後、コナンが無垢な子どもの声でその男性に話しかける。
「ねえ、おじさんってもしかして目が悪いの?」
「え、なんでだい?」
「だって、あの掏摸のおばさん。おじさんの顔見てびっくりしてたよ。あれってちょっと前に財布を掏った相手がおじさんだったからだと思うんだけど、なんであのとき何も言わなかったの? おばさんと会うの二回目のはずなのに」
確かに言われてみればそうだった。あのとき、黒兵衛は確かにこの男性のことを見てかなり驚いていたように見えた。それまでに財布を掏られていることに気がついていなかった、という証言とは一応は一致するが、彼女特有の手口を実行するためには少なからず隙を与えるために顔見知りになった可能性は高い。
すると、彼は途端に焦ったようにコナンの質問について答える。
「そ、そうなんだよ! 僕、目が悪くてね」
「でも、目が悪いんだったら眼鏡かけねえと桜見えねえぞ?」
「ひとりでお花見に来たの?」
「あ……実はお守りを買いに来たんだ」
「何のお守りですか?」
子どもたちの質問攻めに「それは安産祈願の」と先に言いかけたなまえの背後から、おもむろに高い女性の声がかかる。
「それは私のお守りでしょう、この子のためのね?」
「も、素江……」
振り返ったなまえがその声の主に驚いたのは、彼女の日傘に見覚えがあったためだった。社に行く途中の道でぶつかった女性。妊婦だとは思っていたが、どうやら彼女こそが素江さん。つまり、彼の妻だったらしい。
「家でじっとしてろって言っただろう」
「あなたが全然帰ってこないから心配して見に来たんじゃない」
「じゃあ、あなたはもしかして銀行強盗の事件のときに私にガムテープを貼った……?」
「あら? あのときの外国人さん? ごめんなさいね、あれは脅されて仕方なく……」
ジョディとその女性が会話をしているのを真横で聞いていたなまえは、とっさにその話の中に矛盾点が見えて、つい、一歩後ずさった。しかし、すぐにその妊婦の女性が口元を押さえて大きくジョディの方によろめくので、その場は一時、ざわついた雰囲気に陥る。
「だ、大丈夫ですか!?」
「うっ……」
「すみません! 妻の体調のこともあるので、もう帰ってもいいですよね?」
「え、ええ……」
男性は傍にいた高木刑事にそう断って、妻である彼女を支えると、仲睦まじく日傘に隠れて帰っていく。彼ら夫婦の背中を眺めていたなまえが動揺からくる震えを止められずにいると、コナンが不審がって声をかけてくる。
「なまえ? どうかしたか?」
「え?」
「なんだか落ち着かねえ態度に見えっけど……?」
コナンはそう言いながら頭を掻く。なまえはその場にしゃがみ込んで彼と視線を合わせ、泣きそうな顔を見せないように精一杯に笑いを作った。
「新ちゃん。気をつけてね?」
「えっ……?」
「あなたが気にかけていることは、相手も同じように気にかけていることだから」
「……どういう意味だよ、それ?」
「別に。そのままの意味だよ」
なまえはそう言って気力を絞って立ち上がる。そして、大きくため息を吐くと震えた声を隠しながら子どもたちに「帰ろっか」と空元気な声をかけた。不安を隠したその顔は斜陽でオレンジ色に染まっている。
銀行強盗事件のとき。犯人たちはガムテープでその場にいた全員を縛れと命じた客たちにとある条件を出していた。それは「連れや知り合いがいない奴」と。なのに、あの男性も事件現場にいたと言い、さらにはその妻もあの場で一緒にいて、ジョディにガムテープを貼ったという話はどう考えても矛盾している。
つまり、今の彼はバーボンの変装。そして女性の方はおそらくシャロンに間違いなかった。故に、彼が「火傷の男を見た」と言って近づいたのはジョディから何らかの情報を聞き出すための嘘。そうに違いない。
そして、そのバーボンの正体は。なまえはそれを何度も考え、何度も否定しながら、工藤邸までの帰路に着くことになったのだった。