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「おめでとうございます! あなた方で当店十万人目のお客様です!」
そう言われてびくりとしたなまえの肩を、とっさに支えたのは降谷だった。空港の出国ロビー。そこで待ち合わせをして、この度わざわざボクシングの試合を見るためにアメリカから一時帰国をした彼女を見送ろうと言い出したのは諸伏であったが、何でも交通事情で少し遅れているらしく、先に到着していた降谷が彼女とふたりで時間つぶしにと選んで入ったのは空港内にある見晴らしのいい適当なカフェ。オープンしてからまだ四ヶ月と少しという比較的新しい店に入るや否や、なんと自分たちが十万人目の客になってしまったようで、店員総出の暖かい拍手で出迎えられたのである。
ふたりは互いに目配せをして突然のこの状況に困惑しきっていた。しかし、そんなこともお構いなしとでも言いたげに、可愛らしい女性店員が満面の笑みでカメラを片手に話かけてくる。
「記念写真よろしいでしょうか、可愛らしいカップルさん!」
カップル。やはり傍目からもそのようにしか見えないのかと降谷が得意げに思っていると、隣にいたなまえの方がそのフラグを見事にブチ壊す。しかも、ボリューム調整が間違っているかのような大きな声で、赤面しながら完全否定するのだ。
「カ、カップルじゃないです!」
「あらっ、すみません! それは大変、失礼いたしました……でも、時間の問題っていう感じも……?」
「ないです!」
「ないです……」
「な、ないですか……あ、えっと、その……、き、気を取り直してっ! ほら、笑ってください!」
何も悪気がないとはいえ、店員を圧倒するほどのフラグクラッシャーぶりを見せつけるなまえの態度に降谷のテンションはだだ下がりになって、柄にもなく思い切りしょげている。十万人目、というめでたい場で葬式会場のようになってしまったことを憂いた店員は、その場の雰囲気を再び盛り上げるためにどうにか必死でまずは自身のテンションを上げていた。その様子はまるで、七五三などでカメラを向けられた際に泣き叫ぶ子どもを、おもちゃなどを使って必死にあやすプロカメラマンのようでもある。
とりあえず気を持ち直した降谷は未だ赤面し続けている彼女を横目に、こいつは本当にどこまで鈍いのか、と苦々しく睨みつけていた。別にカップルという言葉をそこまで強く否定する必要はない。この店の誰にも自分たちが恋人かどうかなんて関係ないのだから、そう思われたところでデメリットは微塵もないはずなのに。そんなに僕とカップルに見られるのが嫌なのか? なんて、そんなとりとめのないことを次から次に考えて、いつも通りむすっとする。けれど、なまえは逆に降谷のその表情の意味がわからず、むしろ平常運転の仏頂面だとしか思っていないのが難点であった。
店の壁にデコレーションされた「HAPPY to GET 100000 VISITERS!」というガーランドの下に立たされたふたりは、渋々、記念写真に応じることになった。もっと肩を寄せてくださいと注文をつけられたり、降谷に至ってはもっと笑ってくださいなどと言われて不自然な笑顔を作っている。そうして撮られた写真はおそらく、今までで撮った写真の中で最もふたりの距離が近いものになった。
盛大な拍手とともにようやく普通の席に通されて、やっとふたりは一息ついた。いろいろあって疲れていたが、窓からは飛行機の発着風景が見えて、適当に選んだ割にはとてもいいカフェである。四ヶ月と少しで十万人という盛況ぶりにも、あのスタッフの全力なホスピタリティ精神を見れば当然頷けた。ただ、どうやら何も頼まなくてもケーキが出てきたり、ドリンクが出てきたり、挙句の果てには料金が無料になるという大盤振る舞いでなんだか逆に落ち着かないのは事実。ちょっと恥ずかしかったね、と疲れも見せずに舌を出して笑う彼女を相変わらず可愛いなと思いながら「まったくだ」と返事をすると、降谷は先ほど写真撮影のときに距離が近かったせいでやけに乾いてしまった喉をコップの水で一気に潤した。
それより、実は先ほどから降谷には一件、気になっていることがあったのだ。それはなまえには到底言えないことであったが、彼は「悪いな」と中座することを彼女に告げるとおもむろに席を立つ。そして、ふたりのすぐ後にこの店に入ってきた客……つまり、十万人目記念を一歩逃した客たちの元へと歩いて行くのである。
そこは柱と観葉植物で、なまえが座る席からは完全なる死角になっていた。降谷はそれを確認するや否や、そこにのうのうと座っていた二人組を足蹴にする。
テーブル番号三十二番。小さな机に椅子がふたつという対面式の席で、無造作な天然パーマに真っ黒なサングラスでいつも通りすぎる松田陣平と、マスク姿でにこにこ変装を気取った萩原研二が、仲よく膝を突き合わせて座っていたのであった。
「いやあ! 偶然だな、降谷くん!」
「おい、お前ら」
「ウッ、嫌な予感……」
「お前らが後を尾けていたことなんて、最初から気づいてるんだよ。首席舐めんな」
そう言って凄む降谷に、圧倒されるふたり。もっとも、当然のことながら降谷が同期の中ではずば抜けて優秀であり、観察力、洞察力ともに高い超人的な人間であるということは重々わかっていたのである。しかし、降谷と諸伏が影でこそこそと話し、しかもふたり同時に休日の予定があるだなんてタイミングを考えてもどうも怪しい。そこで、降谷よりも態度が柔和な諸伏を尋問しようとすれば、尋問になる前にあっけらかんと教えてくれたのだ。「空港になまえを見送りに行くんだー」と。
そのビッグウエーブ、乗らない手はない。
「だって実物見たかったんだもん、俺」
「俺は試合会場で見たときの服装の方が好みだったな。超ミニのタイトスカート。スリットがまたエロくて」
「えっ、エロかったの?」
「ああ。いいもん見たぜ」
松田の脳裏にはボクシングの試合会場で見たレモンイエローのタイトスカートを履いた彼女がすばやく想起できる。そして同時に、パンツが見えそうだと思っていたら本当に盗撮事件があって、降谷がバチギレてその鬱憤をぶつけられた相手が可哀想だと思えたほどであったことも。きっちりその脳内の記録媒体には録画済みだ。
「ってことで、降谷くぅん。そっち移ってもいい?」
「そうだな。バレちまったなら、もう別に隠す必要もねえだろ。あの子も俺のこと知ってるし」
「絶対駄目だ」
「いいじゃん。俺、お近づきになりたいな。なまえちゃん!」
すると、降谷はぎろりと萩原のことを睨む。そしてバキバキと拳の骨を鳴らしながら、まるで某ガキ大将ぶりの威圧感をぎっしりと詰め込んでこう言うのである。
「いいか、お前ら? もしあいつに近づいたら」
「近づいたら……?」
おうむ返しのように萩原がそう問うと、降谷はドスの聞いた声で返答する。
「殺す」
「ひえ……」
「ハギ。こいつマジだ。目が据わってやがる」
乾いた笑いを三十二番卓にお届けした後、ひと仕事終えた降谷は、既に来ていた店からの特別サービスであるワンプレートに乗った大きなケーキを一生懸命食べ進める彼女の元に座り直した。そして、同じく勝手に届けられていたコーヒーを口に運びながら彼女との大切なひとときに再び意識を集中させる。冬支度のリスみたいにケーキを頬張っている姿がめちゃくちゃ可愛くて、松田と萩原のせいですさんだ心に降谷は潤いを得た。
「知り合いの人でもいた?」
「いや、全然知らない奴だった」
「えっ、そう?」
「そう」
短い会話で単純にそう言い切ると、なまえはあまり何も不審には思わず、半分ほど食べたケーキのプレートをくるりと回して降谷の前に寄せる。
「これ、あと半分は零の分だよ」
「僕はいいよ。コーヒーだけで十分だし、それにヒロもそんなに遅くならないだろうから、なまえが食べたらいい」
降谷にとってそれは何気ない気遣いだった。しかし、そういった優しさが逆になまえには寂しく思える。
「……せっかくふたりで十万人目なのに」
ぽつりと落ちるようにそう言われたら堪らない。降谷は渋々「わかったよ」とフォークを取り出し、残してくれた甘いケーキを食べ進めることにした。間接キスでいちいち騒いだりはしないが、ひとつのケーキを切らずに分けて食べる経験がなかったため、少し不思議な気持ちである。
「今度、いつ帰ってくる?」
そう尋ねた降谷に、なまえは間延びするように返す。
「うーん、また夏かな。アメリカのビーチより、私、日本の海の方が好きなの。確か、高三のときにも一回、ヒロと三人で行ったよね。楽しかったからまた行きたいなあ、海。あ、あと、花火大会にも行きたいし、川遊びとかもいいよね。釣り好きでしょ? 零もヒロも」
きらきらと夏のイベントを語り出す彼女の夢を、降谷は全部叶えてあげたくて。目を細めて返事をしようとすると、店内の遠くで「俺も釣りする!」という明らかに怖いもの知らずの萩原の声が聞こえて来て、降谷はカトラリーバスケットの中からナイフを持ち出し立ち上がった。その様子に怪訝そうな表情を浮かべるなまえだが、すぐに松田が萩原の頭を抑えるのが見えたので一旦は許す。一旦は。
「だから、夏になったらまた迎えに来てね」
「もちろん。毎回、必ず迎えに来る」
「約束だよ」
そんな会話をしながらふたりで時間を過ごしていると、ようやく諸伏から「着いた!」という単純な連絡が来たのでサービス精神旺盛なこの店からふたりは早々に出ることになった。
最後に記念品として焼き菓子までプレゼントされ、しかも宣言通り料金も無料。そんないい話があっていいのかと思うほどで、なまえは諸伏がいるであろう再び空港の入り口まで引き返す途中の道で思い出を噛みしめるように降谷に言う。
「なんか特別みたいだったね、私たち」
「特別……」
そんな単純なワードに引っかかる降谷に、なまえは疑問符を浮かべた。そんなに変なことを言った覚えはないが、と思っていれば彼はふっと優しく表情を崩す。
「そうだな。確かに特別扱いだったけど。でも僕は、誰かの十万人目よりも、誰かひとりにとって特別な、かけがえのない一人目になりたい」
「?」
「なまえ」
珍しく甘ったるい声でそう呼ばれて、思わずなまえは体を強張らせる。意味深に立ち止まった降谷が続けて「こっちを向いて?」とせがむので、なまえはたじたじになりながらも何か訳ありに違いないとひとまずは彼の言う通りにした。
人通りの多い空港のロビー近くで、降谷は突然彼女の両頬を包むように押さえた。その様子は傍目にも見てキスしそうな勢いであったが、フラグを踏んで壊すことに定評のあるなまえにはその意味がわからず固まってしまう。けれど、降谷は鋭く眼を光らせて、彼女の顔を固定したままこう言い放つのだ。
「そのままこっちだけを向いて、ちょっと、ここでじっとしてろ。絶対に振り向くなよ」
「え?」
そう言うと、途端に降谷はどこかへと猛スピードで走り去っていった。すると背後では「ぎゃーっ!」という笑いを含んだようなじゃれ合いの断末魔が聞こえてきて、なまえは何事かと思ったが、健気に降谷の言いつけを守るためには振り向くこともできずにただ呆然と突っ立っている。どうしていればいいのかは、まったくわからない。
そんな折にタイミングよく声をかけてたのは、彼女と降谷にとって大切な友人のもうひとり。彼なりの似合わない言葉で言うなら「さんこいち」のひとりである諸伏景光である。
「おー、なまえ。遅れてごめん! ……って、何してんだ、ゼロ?」
「ヒロ! なんか零が突然、どっかに行っちゃったんだけど……私、見れないんだ。この方向だけ向いて絶対に振り向くなって言われてて……何がどうなってるの?」
「あー、なるほど。理解理解」
「?」
勝手に理解して、勝手に頷いている諸伏。なまえはそんな彼を見てもう詮索すること自体を諦めると、それよりも今しがたカフェで起こった素敵な出来事の話を聞いて欲しくて彼の耳元に唇を寄せる。
「ねえ、ヒロ」
「ん?」
「あのね」
零と、十万人目のお客様になったんだよ、と。そしてその経緯もきちんと彼に話すと、諸伏はまるでなまえを妹扱いするかのようにくしゃくしゃと頭を撫でて、からりと太陽のように笑った。
「よかったな!」
「うん! ありがとう!」
一方、萩原と松田を思う存分ボコボコにした降谷は、いつの間にかなまえと諸伏がいい感じに笑い合っているのを見て、切なくなる。誰かひとりにとって特別な、かけがえのない一人目になりたい。その誰かとはもちろんなまえ。お前のことなんだからな、と降谷はもどかしい思いで唇を噛んで見つめるのであった。
extra. HAPPY to GET 100000 VISITERS!
お店からのサービスです。そう言われて出されたデコレーションケーキに、きらきらと目を輝かせている彼女を沖矢は微笑ましく思った。先日、テレビに出ていた栗村なんとかというパティシエの店に行こうという話をしていたが、その人物に八百長の疑惑が出てその約束がおじゃんになった代わりに、そこそこ人気店を調べてやって来た別の喫茶店にて。偶然ながらちょうど十万人目の客に当たったらしい沖矢となまえは、サービスであるケーキに舌鼓を打ちながら談笑する。しかし、なまえの脳裏には数年前の空港でのカフェのことが頭によぎっていて、思わずにこにこと笑ってしまうのであった。
「随分と嬉しそうですね」
「うん。実は、前も十万人目になったことがあるの」
「ほう? となると、なまえさんはとてもラッキーな人のようだ」
「ふふ、そうかもね」
そう言うと、なまえは嬉しそうに紅茶を飲み干す。そしてティーポットから二杯目を入れようと蓋を開けて残量を眺めているときに、沖矢、もとい、赤井は言った。
「でも、俺は。誰かの十万人目よりも、今、目の前にいる愛しい女の、最初で最後のひとりになる方が名誉なことだなとは思うがな」
そう言った瞬間、なぜかフォークを皿の上に落とす彼女を沖矢は見つめる。その動揺の意味は彼にはわからなかったが、今の言葉を引き金になまえが過去のことを思い出すのは当然と言えば当然であった。
思い出すのは、あのとき、降谷が言った言葉。
『でも僕は、誰かの十万人目よりも、誰かひとりにとって特別な、かけがえのない一人目になりたい』
「そうか。あのときのあれって……」
「?」
「ううん。何でもない」
懐かしい思い出を胸に、なまえは再び笑う。
ケーキが乗っていたプレートにはチョコレートの筆記体で「HAPPY to GET 100000 VISITERS!」と書かれていた。十万人目達成おめでとう。そんな言葉に、なまえは逆に「ありがとう」と思い出深く返したくなるのである。
2019.08.14 100000hit thank you!