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 確かに先ほど、なまえは沖矢にこれから向かうのが「死ぬほど美味しい店」だというようなことは言われた。その言葉で色気のない彼女が真っ先に思い浮かべたのは、かつて杯戸町で死ぬほど美味いラーメンを謳っていたかの有名店・ラーメン小倉だったのであるが、失礼ながらそこなら回転率も早いだろうし、わざわざ予約など不要だろうと思って車中ではずっと訝しんでいたのである。それに、ラーメン小倉は弟が解決した毒殺事件を機に米花町に越して来ていて、そのキャッチフレーズを「マジで死ぬほどヤバいラーメン」に変えていたはずだった。看板メニューである閻魔大王ラーメンはその旨さがよりパワーアップしたと大評判で、店は以前よりも盛況らしいと雑誌に取り上げられていたのを見たことがある。

 しかし、目的地に到着した途端、なまえにはすべての謎が解けてしまった。この場所に関して、特に深く考えずに「死ぬほど美味い」なんて言葉を使ったのは、絶対に弟の工藤新一。紳士的なウエイターに通された窓際の席でなまえはぶすくれたように頬杖をついて、忌々しく新一の顔を思い浮かべながら目下の景色を眺めていた。宝石を散りばめたかのような美しい夜景があたり一帯には広がり、距離はあるが、真正面に東都タワーが見えるほどの絶好の立地を誇っている。考えていた店とは天と地ほどの差があり、若干、死ぬほどヤバいラーメンを期待していたなまえは少し残念な気持ちになった。まあ、よく考えれば。目の前で「してやったり」とさも当然のように微笑む彼が、ラーメン店など選ぶはずはないのだけれど。

 来たのはこれが初めてだったが、この店の名前だけは昔から惚気話のように何度も聞いて知っていた。米花センタービルの展望レストラン、アルセーヌ。ここはかつて、駆け出しの作家だった父の優作が大女優の有希子に、大声でプロポーズをした場所であるということは工藤家の中では有名な話だった。それに、帝丹高校の文化祭の後、優作のゴールドカードを勝手に持ち出した弟の新一が、幼馴染の蘭をわざわざ呼び出してプロポーズまがいの告白をしようとしていた場所でもある。しかし、それは結局、灰原が作った解毒薬の効果が切れて叶わず仕舞いに終わったが、きっと赤井はその情報をコナンから聞き出していたのだろう。大方、何かいい店がないかと尋ねた赤井に対して弟は両親のエピソードとともにこの店を紹介し「死ぬほど美味しいって新一兄ちゃんが言ってたよ!」とかなんとか、いつものあのわざとらしい子ども口調で言ったに違いない。

 盛大なため息をついてちかちかと瞬くような眩しい景色をしばらく眺めていたなまえは、今度はジト目で沖矢に視線を移した。しかし、彼の方が一枚上手とも言いたげに「何だ?」と妖しく微笑まれるだけ。まさかプロポーズする気じゃないよね、とは聞けないので疑うような視線だけを向けていれば、彼は心を読ませないように張りついた笑みをにこにこと浮かべる。


「そんなに見つめられると穴が開きそうだな」
「あ、そう……」
「怒ってるのか? そんなにこの店が嫌だった、と?」
「別に。そういうわけじゃないけど」
「なら、もう少し楽しそうにしてくれると嬉しい」
「……はい」


 とはいえ、父と母にゆかりのある店を彼が選んでくれたことに関しては、純粋に嬉しいことだった。二十年ほど前の話なのでまったく同じメニューというわけではないだろうし、そのときにいたスタッフもさすがにもういないだろう。けれど、父と母がここでプロポーズをして結婚を決めなければ、自分は工藤家に迎え入れられることもなかったかもしれない。そう思うと、我ながら数奇な運命を辿っているなと思う。

 目の前で、窮屈そうな二重生活を送る彼との生活に関しても。そして、そんな彼と恋人になってしまった不思議な巡り合わせも。

 赤井は終始、沖矢昴としてスマートにウエイターとやり取りをしていた。車ということもあり、飲み物は互いにノンアルコールであったが、せっかくの食事の味が酒のせいでわからなくなってしまうこともなくて丁度いいと彼は話す。これまで恋愛絡みでの浮ついた話が一切なかったなまえには、当然、こんな高級店と縁があるはずもなく些か緊張もしていたのだが、沖矢はそれをわかって率先して他愛ない話を振ってくれた。そんな彼を見ているとなまえは次第に警戒していた心がほどけ、素敵で、死ぬほど美味しいディナーとともに彼との雑談を心から楽しむことにしたのである。

 一方の赤井は、自分の話で時折楽しそうに笑ってくれる彼女を見て、以前よりもよく笑うようになったなと改めて感動していた。その笑顔が他の何よりも自分を安心させるから。だから、傍でずっと笑ってくれるように、彼女のことを永遠に守り抜くと誓う。

 絶対にこの女を、組織の手に落としてはならない。赤井は脳裏に一瞬ちらついた宮野明美のことを古傷のように思い出し、そして目の前で笑うなまえに重ねていっそう愛しく思うのである。

 前菜、スープ、魚のメイン、肉のメイン。どれを取っても料理は確かに死ぬほど美味しかった。特に最後の肉料理は、テーブルでウエイターがコワントローという酒を使って最終的な仕上げであるフランベをしてくれて、なまえはついまた色気なく「おおーっ」と声を大きく上げてしまう。ほんの一瞬だが、炎が高く上がる様子はまるでエンターテイメントでも見ているようで、目にも楽しく、本当に素敵な食事会だった。

 最後に赤いフランボワーズソースのかかったアイスクリームと紅茶が運ばれてきたとき、なまえはようやく、話すのをずっと迷っていた二週間後の予定について彼に切り出すことができた。


「昴くん。私、再来週の週末にちょっと外泊してもいいかな」
「どこへ?」
「世良さんたちと一緒に長野。森林浴って言ってたけど」
「へえ、真純と」


 彼はそう言うと、あまり興味がなさそうに紅茶にひとくち口をつける。その様子を見て、なまえはじっと考え込んでいた。

 今、このタイミングでもしこの話を終わりにしてしまえれば、諸伏警部に会うことを赤井には秘密にできる。いや、話したところで何もやましいことはないが、やはり友人の兄とはいえ異性に会いに行くと言えば彼もいい気はしないだろう。それに、なぜかすごく反対されるような気がする。そんなところに行く必要はないと。このままで十分、幸せだろうと。まるで聞いてもいないのに、そんな言葉が彼の声で再生されているように感じられて、張り裂けそうになるくらい胸が痛くなる。だから、このまま黙っている方がいいのかもしれない。

 けれど、なまえにはやはりそのことを隠し通しておくことは無理だった。なぜなら彼に嘘をつきたくない。その理由はたぶん、赤井のことが好きだからだ。


「あのね。嘘つきたくないから正直に言うけど、私、長野で世良さんたちとは別行動をすることになってるの」
「……」
「前に話したじゃない? 高校時代の友達。そのお兄さんが長野にいて、音信不通になってる彼の話を直接その人に聞きたいなって……もうアポもとったの。ちゃんと会ってくれるみたい」


 沖矢は何も言わないで、ただなまえの顔を見つめていた。その表情が怖くて。何かを言われてしまう前に、彼女は矢継ぎ早に言葉を続ける。


「あなたには申し訳ないけど、もし『行くな』って反対されたとしても私は行くから。もう休みも取ったし、前にあの車は貸さないって言われちゃったからレンタカーもちゃんと予約したの。でも、それだけが理由じゃなくて。長野に行ってその人に会うことは、私にとってどうしても必要なことだから。だから、そのこと、どうかわかってくれたら嬉しい」


 なまえのその言葉は嘘も偽りもなく、懸命で本気だった。沖矢は以前、本を探していた彼女に車を何も言わずに貸して欲しいと頼まれたときのことを思い出して、その人物に会うための長野行きのことだったのかと腑に落ちる。そして、気まずそうに目線を下げて何かを耐えるように唇を噛みしめる彼女のことを、抱きしめたくなって。彼はその想いを言葉に乗せるように、なまえに優しく語りかける。


「いいよ。気が済むまで行って来い」


 すると、なまえは頭をばっと上げて、泣きそうな顔で驚いているようだった。


「え……いいの?」
「なんだ、その顔。俺が行くなとでも言うと思ったのか?」
「思った……」
「信用ないな」


 そう言って笑う沖矢の表情の裏にしっかりと赤井の顔が見えて、なまえは思わず胸が鳴るくらい彼のことが格好よく見えた。だって、と言い訳したくなる言葉を口ごもっていると、彼はやはり優しく抱きしめるみたいに話し出す。


「なまえ。俺はお前のことを世界で一番、愛してるよ」
「!」
「だから、この先、お前がどんな残酷なことを知っても。どんな真実を得ても。その上でお前が何を選び、何を捨てるのか。俺はこの目で見守っていきたいんだ。お前の一番、近くで」


 そして、そのときにもし俺を選んでくれるのなら。彼はそう言いかけると、テーブルの上に置いてわずかに震えていたなまえの左手を握って自らの口元に持っていき、その薬指にキスをする。一気に顔に集まる熱が引くのも待たずに、彼はやや挑戦的な目をして笑うのだ。

 その顔には「誰にも絶対に負けはしないが」と自信たっぷりに書いてある。


「そのときは俺と、結婚して欲しい」
「っ!?」
「……という言葉を、改めて俺に言わせてくれ。沖矢昴の姿ではなく、赤井秀一の口からな」


 そう言うと、手が離されて。キスしたばかりのその唇がゆるやかに弧を描いていた。からかわれているのではなく、間違いなく彼は本気だ。なまえはその想いを真摯に受け止め、今までで一番激しく脈打つ心臓を鎮めながら、返された左手を胸に当ててたどたどしく返事をする。


「は、はい……」
「いい子だ」
「いい子って……」
「ディナーを堪能したならそろそろ行こう。誰もいない場所で早くお前を抱きしめたい」


 そう言って立ち上がる彼の後ろを、なまえもおずおずとついて行くように歩き出す。しかし結局、家まで待てなかった沖矢に米花センタービルの地下駐車場で誰もいないことを確認されるなり熱烈なキスと抱擁を受けるのであるが。

case92. それは数分後の話。
 

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