87...


「とんだハプニングだったわね。変装に使った男が掏摸にあっていたなんて」

 未だ妊婦としての変装を続行中であるベルモットは空気で膨らませたその腹を苦しそうに抱えながら、助手席で車窓から流れていく夜の街を見つめていた。話題は当然、今日の花見会場でのこと。かつて何度かバーボンを火傷の赤井に変装させていたときと同じように、今回も彼たっての希望でFBIから情報を聞き出すため、花見に来ていた客の中からひとりを選んでその顔を借りることにしたのである。

 しかし不運にも、その顔を借りた男のせいでバーボンが殺人事件の容疑者としての嫌疑をかけられてしまい、その容疑が晴れた後も怪しい人物として江戸川コナンに睨まれ始めていた彼を助け出すため、保険として自分にも施していた妻という設定の妊婦の変装が今回ばかりは役に立ったのであった。まあ、そもそもこの恐ろしく頭の切れる男なら自分がわざわざ手を貸さずとも難なくやり過ごしてしまうだろうと思っていたので、別段、焦っていたわけではなく。むしろ、久しぶりに彼女にとっての宝物でもある銀の弾丸やその姉である女神の元気そうな顔を堂々と桜の木の下で見られて、ベルモットは自身の胸の中にいる神様に、願ってもみなかった幸運を授けられたように感じていたのであった。

 一方。同じく変装中であるバーボンの方もすこぶる機嫌がよさそうで、その口元は緩やかな弧を描いて笑んでいた。なまえに会ったことは確かに予想外ではあったが、それも今や結果オーライ。仕事や目的に一切の滞りはなく、あの無能なFBIから赤井の情報をわずかでも聞き出せたことはそれなりにも状況の前進に繋がる。そう思うと、じりじりと追い詰めているという感覚に酔って、正直、胸が踊っていた。


「財布を所持していなかったので妙だとは思ったんですがね。まあ、あの男の懐に入っていた奇妙な五円玉を拝借しておいて正解でした」
「でも、その掏られた財布をわざわざ彼に返しに戻るなんて」
「あとで大騒ぎされたら困るでしょう。キャッシュカードや免許証も入っていましたし」


 そう言って笑う律儀な男に、ベルモットは少々呆れていた。こちらが接触する前の段階で財布を奪われていたのだから、掏摸被害に関してはあの男の自業自得であるはずなのに。その律儀さがバーボンらしさでもあるが、リスクは最小限にしておいてもらわないと困る。

 リスクといえばもうひとつ。ベルモットには彼の妊娠中の妻として周囲の人間を欺くこと以外にも、バーボンが今回引き起こした行動の後始末をしていたことがもうひとつだけあった。それこそが、彼女の右手に握っている小型の盗聴器である。


「まあ、感謝してよね。あなたがあのFBIの仔猫ちゃんに腕を掴まれたときに彼女の袖口に仕込んだ盗聴器、ちゃんと回収してあげたから」
「それはどうも」
「それで? あの仔猫ちゃんからいい話は聞けたのかしら」


 そう言うと、ようやくベルモットが変装に使っていたマスクを窮屈そうに剥いで後部座席に投げ捨てる。腹に溜めた空気を抜くと、一気にスレンダーな女優体型に戻るその姿はまるで魔法のようだった。

 そして、それを見たバーボンの方も同じく。変装を解きながら悠々とこう返す。


「ええ、大収穫でした。意外な裏話も聞けましたしね」


 バーボンが言う意外な裏話とは、黒兵衛と呼ばれる掏摸師が殺された事件の最中に盗聴器で聞いていた、FBIと江戸川コナンの会話の内容だった。


『病院に潜入している彼らのスパイを割り出すために、わざと携帯を落として拾わせたでしょう? 最初に拾ったあの太った男が脂性だったなあって。結局、次に拾った男がスパイで、最後のおじいさんはペースメーカーをつけてて……そして、その携帯をシュウが……』


 そう言って口を噤んだあの女は、当時の赤井の様子について深く回顧しているようだった。彼女が話していたその携帯電話こそ、後に日本警察に提出され、来葉峠で焼け死んだ赤井の指紋と一致したという一見して動かぬ証拠になっているものである。だが、その証拠が意図的に偽装されていたものだと証明できさえすれば、まるで白を黒に換えるように、今度は逆にそれが赤井生存の証拠となる。そして、その話に慌てて口を挟んだ江戸川コナンが、奴の死の偽装工作に一枚噛んでいたということも彼の目には明白だった。

 次に調べるのは病院周辺がいいだろう。それも赤井が死ぬ直前、一時期FBIに囚われていた組織の一員であるキールが入院していた杯戸中央病院。そこに当たりをつけてまず間違いはない。

 後はそこで、じっくりと確証を得るのみ。ぎりぎりと音がするほど握ったハンドルを、彼は修羅として武者震いにすら変えるのである。

 江戸川コナンという恐ろしくイレギュラーな懸念材料はありながらも、一歩ずつ、真実に近づいているという感覚がバーボンの手の中には確かにあった。このまま相手に切られたことすら気づかせないほどの不意を突いて、その首を是が非でも狩る。赤井秀一。組織の壊滅は、スコッチの仇を取った後で遂行すればいい。

 そんな相棒の目に、並々ならぬ決意があるとは露知らず。ベルモットは単に、今回の働き分が返ることを期待を込めて運転中の彼に問いかける。


「その話のオチはちゃんと聞かせてくれるんでしょうね」
「ええ。確証を得たらすぐに」
「……」
「でも、これだけは言っておきましょう。恐ろしい男ですよ、あの少年は」


 バーボンの言うその少年に心当たりがあったベルモットは、少々そのことについては苦々しく思っていた。一年前のニューヨーク。あの場で、エンジェルとともに彼が見逃してくれたからこそ今の自分がここにいる。しかも、その数時間前には、彼の姉にも命を助けられて。あの日、自分は二度も失うはずだった命を彼らによって守られたのだ。

 なら、自分が生かされているうちは彼らを絶対に守り抜きたい。特に、バーボンがなぜか焦心するほど固執している工藤なまえは、絶対に彼の手中には落としたくないと、まるで娘を想うように案じているのである。

 話を反らすためにベルモットは、行きと帰りで現れたこの車のわずかな変化に着目してその点について尋ねることにした。それは彼女にとって、あまり見慣れない形をしたストラップのようなもののことである。


「ところで、そこについてるチャームは一体何なの?」
「ああ、これですか。お守りですよ。ご存知ありませんか? 日本古来の縁起物なんです」
「縁起物?」
「数多降りかかる災いから僕を守ってくれる、そんな大切なものです」


 バーボンはそのしなやかな指で、一瞬、ワイパー操作に使うコラムスイッチに引っ掛けてあったお守りに触れた。そして、その拍子に大きく揺れ出したそれを優しげな瞳で見つめて、堪らないくらい愛しくなる。

 自分のためではないとはいえ、なまえがくれたものだから。それに対する彼の思いは格別なものになる。災厄を払って迎えに行こう。今度こそなまえに想いを告げるために。

 愛してる、って。



case87. 消せない傷


 結局、何もかも答えが出せぬまま、ぐちゃぐちゃな思考で帰宅したなまえはどっと疲れていて、先に帰っていたらしい赤井に笑顔を向ける余力すらもう残っていなかった。だから、できれば出迎えがない方が望ましいと思っていたのに、こんなときに限って彼はわざわざ玄関まで顔を見せにくる。未だ外向きの沖矢の変装をしたままではあったものの「おかえり、早かったな」と言う口調と声は赤井そのもので。なまえは返事もせずとっさにうつむいて、そんなわけもないのに靴を脱ぐのに忙しいふりをした。


「子どもたちは弁当を喜んでくれたか?」
「……」
「なまえ?」


 何気ない会話だったからこそ、なまえは余計に言葉に詰まる。銀行強盗事件のとき、守ってくれた火傷の男が実は安室で。今日会った愛妻家の男性も、おそらくその正体は彼。そしてその安室がもしかしたら、自分が心から会いたいと願っていた降谷と同一人物なのかもしれないと思うと、今にも心が引き千切れてバラバラになってしまいそうだった。でも、依然として証拠がない。「頼むから無茶をするな」と言ったあのときの言葉も、彼にとっては単なる心配からくる叱責だっただけの話なのかもしれないし。すべてが単なる気まぐれだったと言われてしまえばそれで終わり。

 それに、少なくとも安室は二度目の逢瀬の際、自分はなまえの知り合いなどではなく「安室透という、ただひとりの男だ」と悲しげにそう言った。その言葉があったからこそ、なまえは正直に彼のことを信じることにしたのだった。

 それがあったから、自分は安室のことを好きになってしまった。なのに。今さらそんな裏切りって、ない。

 もうよくわからないよ。誰が何者で、善か悪かなんて。ただ、どうしても。なまえはこんな感情のままで、もう一方的に安室のことを嫌いにはなれそうになかった。あんなに彼のことを避け続けていたはずなのに、大切な友達の降谷零だと思うともう嫌えない。たとえ、その手が悪事に染まっていたとしても。

 それから蘇るのは、彼から言われた古傷を治す方法。


「秀一」


 なまえは絞り出すように力なく恋人の名を呼ぶと、その腕を掴んで倒れるみたいに彼の胸に飛び込んだ。こんなことをするなんて、自分でもらしくないと思う。でも、今は何をどうすることが正解なのか、彼女にはまったくわからない。それがただの逃げになるとしても、恋人の胸にずるくも逃げ込んでしまいたくなるのだ。


「……どうした? 出先で何かあったのか?」


 一方の赤井も、なまえのそのただならぬ行動で、すぐに何かがあったのだろうということは察することができた。昼過ぎに珍しく彼女から電話をかけてきたときは「事件があった」と言っていたが、おそらくこの行動はそれに付随することじゃない。花見に行った先で、彼女に何かショックな出来事があった。それも、電話を切る前と後で状況が一変するような、とびきりひどい出来事が。赤井は得意の推理でそう察する。

 とはいえ、普段から虚勢を張って強がっている愛しい女から受けた突然の甘えとも取れる行動は、下心的にも嬉しくないわけがなかった。電話の最後の方で「たくさんお前を抱きしめたい」と言ったその有言実行とばかりに、赤井はそのまま彼女を抱きしめて絶対に離すまいとしながら、その大きな体で覆いかぶさるようにすっぽりと包み込んでしまう。かたかた小刻みに震えている体から、その不安を優しく取り払うように。言葉ではなく、体温で「大丈夫だ」と教え込ませてやるみたいに。深くて甘い愛情をかけて、その腕に込める力を強めるのだ。

 そうして丁寧に彼女を抱きしめていると、何か頭に浮かんだことを打ち消すためだったのかもしれないが、すりすりと胸の中で頬ずりをするような態度を見せるのがあまりに愛らしくて。押さえつけるような禁欲生活を長く続けているせいか、このまま組み敷いて抱いてしまいたい欲がいっそう色濃くなって赤井は戸惑う。


「まずいな……」


 彼は小声でそう呟きながら、生理現象とはいえ、やや困惑気味に自身の下腹部に集まる熱を秘密裏に抑え込んでいた。しかし、その熱もなまえを抱きしめている限りはなかなか逃げてはくれそうにない。

 故に、赤井は一旦、名残惜しくも彼女との距離を十分に取って、落ち着くまで離れていることにしようと思い立った。指先で梳くように彼女の細い髪を流し、先ほど擦り寄せてきた熱い頬に手を添えてやると、まるで愛玩犬のように軽く目を閉じる行動が可愛くて。思わずその頬に甘いキスを落としたところで、ようやく理性的になろうという気持ちを強く持ち直すことができる。


「何か飲むか、それとも腹が減ってるなら……」


 しかし、そう言いながら自然な風を装ってもっと距離を取ろうとした赤井に対し、珍しくなまえの方から腕を伸ばして強引にも縋るように再びその厚い胸板に飛び込む。そしてまたも不安そうに顔を押しつけて、震えながら小さくこう言うのだ。「離れないで」と。

 その瞬間、赤井の中で必死に耐えていたものが見事一瞬で崩れ去る音がした。彼はそのたくましい腕でなまえを無理やり横抱きにすると、一番近かったリビングのソファに下ろし、乱暴にその上に跨る。そして、着ていたジャケットと眼鏡を荒々しく脱いでその場に余裕なく放り捨てると、泣きそうになっていたなまえの瞼に情欲の篭ったキスを落とした。狼狽するなまえに、赤井は笑む。それが合図だった。

 赤井は小さくて形のいい彼女の耳元に唇を寄せると、水音をわざと立てて興奮へと誘うように器用な舌先で耳介を舐め上げ始めた。あまりの出来事に狼狽以上の戸惑いが生まれたなまえは、一度、甲高い声を上げて体を弓なりにのけ反らせる。その姿は赤井にとって、あまりにも扇情的すぎた。

 その後も彼からは執拗なほど吐息の混じった耳責めが続き、なまえは羞恥か、それともくすぐったさからくるものなのか、必死に声にならない声を上げて逃れるように身をよじらせていた。そんな彼女をまるでひどく犯しているような気になって。赤井は男として、つい、ぞくぞくとしてしまう。それから、もう紳士的な自分はいないとばかりに、彼女の着ていたブラウスの裾から冷たい指を入れて腹部を往復するように撫でると、いっそう彼女の困惑の色が強くなったのがわかる。その行為はなまえがバーボンを飲んだ日以来、実は二度目であったが、きちんと覚醒した彼女にとっては当然初めてで、なまえは思わずその指を強く制止した。


「だ、めっ、」
「なまえ。俺は、以前も言った通り、お前が苦しんでいる理由を無理やりに聞き出すことはできない」
「え……?」
「なぜならそれをすれば、俺もお前に話さねばならないからだ。俺が今、抱えているすべてのことを」
「……」
「だから、お前が言いたくなったときに、話したいことを話してくれればいい。それでいいんだ」


 切なげにそう言って笑う彼の頬を、なまえは恐る恐るなぞるように手のひらで触れた。赤井はその小さな手を握り、そして甘く指を絡める。相変わらずもう片方の手はなまえの臍あたりにあるのだが、彼の冷たい体温すら今は正直、心地がいい。

 赤井が欲情しているということは、なまえの目から見ても明らかだった。それに、自身が出した条件とはいえ、交際中のいい歳した大人がひとつ屋根の下で暮らしていて見向きもされない方がおかしいとは思う。だから、彼が自分のことを欲しているらしいということは、恋人としては喜ぶべきことなのかもしれない。けれど、同じくらいなまえは自分が彼につけ入っている悪い女なのではないかと思えて、その心に募らせる罪悪感もひどかった。

 その原因になっている人物。その人こそ、いつまでも記憶からは消えてくれない、苦すぎる初恋の相手。安室透である。あの日、必死で殺したはずの好意が、疼く古傷とともにいつの間にかこんなにも顔を出して。純粋な気持ちで赤井に甘えることが、これほどできないとは思わず、なまえは無性に泣いてしまいそうだった。


「だがな」
「えっ」
「正直、さっきのは俺の理性に堪えた」
「ひゃあっ……!」


 彼女の短い悲鳴とともに、赤井はなまえの制止を払いのけ、強引にもブラウスを胸の上までたくし上げた。小ぶりながらも露わになった白い肌。双丘の真ん中にレースの花がついた薄桃色のブラジャーが丸見えになって、なまえはとっさに隠そうとしたが、次の瞬間には雄を剥き出しにした赤井の顔がそこに埋まっていて叶わない。

 下着は外さないまでも生々しいリップ音を立てながら、赤井は誰も触れたことのないなまえの未踏の白い胸に自身の証でもある赤い痕を、飽きることなくつけていった。所望の通り、それは離れていかないことを示すような行動であったが、経験のないなまえは理解が追いつかない。


「しゅ、いちっ、やだぁっ、あっ、」


 一貫してどうしていればいいのかわからず、なまえは無様なくらい必死で彼を押し除けようとその身を激しくくねらせていた。やだ、やだ、と子どもの駄々のように声を上げる力も次第に弱くなり、もともとあまりなかった効力が無に等しいほど薄れていく。当然、赤井は行為をやめない。柔くて暖かい谷間に自身の所有を示す赤い痕を無数につけると、余裕なさそうに舌舐めずりをしながら言う。


「絶対に抱かないと約束するから、もう少しだけお前を堪能させてくれ。俺も、限界が近いんだ」
「そんなっ」


 一応、なまえの羞恥に配慮するように、胸は依然として下着で隠されたままだった。だが、外気に触れた柔らかな膨らみ部分はほとんど吸い尽くすように何度もキスを落とし、熱い舌で丁寧に舐め上げる。胸の片方は彼の大きな手で鷲掴みにされ、その指の動きに健気に従うみたいに形を変えていた。それに飽きると今度は下着の上から頂のあたりをなぞって弄ぶ。じれったいような、こそばゆいような。なまえは本能的な嬌声をその口からだらしなく漏らしてしまう。

 こんなに甘い、自分の声は知らない。聞いているのもあまりに恥ずかしくて、ずっと耳を塞いでいたいくらいだった。

 その身は紛れもなく、赤井の愛撫で初めての快楽を感じている女の姿そのものだった。しかし、彼女はそんなこともわからないまま、意味もわからずただ漏れてしまう甘ったるい声を出し、ついには顔を隠すように手で覆う。それに気づいた彼はその手を彼女の頭上で組み上げ、にやりと悪戯っぽく笑った。


「可愛い」
「ん、やだっ、変なこと言わないで」
「どうして? 自分の女に可愛いと言って何が悪い」
「だって、私、可愛くないか、らっ」
「じゃあ、愛しいでどうだ?」
「ぅっ、だ、めぇっ、っ」
「素直じゃないな」


 可愛い。彼にそう言われただけでじわじわと下半身が熱くなる感覚があった。まるで自分の体ではないような、変な感じがしてなまえはとても怖くなる。はしたない。こんな自分はおかしいのではないか。そう思えば思うほど、異常なほどの悦楽を感じてしまう。

 未だ力強く組み上げられた腕のせいで顔を隠すこともできず、上気して蕩けるような顔をしていることなどなまえには想像できないだろうと赤井は思った。けれど彼は、愛しい女のそんな物欲しそうな表情を作り出しているのが自分であるという事実に興奮し、これ以上進むのは歯止めが効かないような気がして、一度、落ち着くためにもしゃぶりついていた柔い膨らみから唇を離して目下の彼女を優しく抱きしめる。

 その胸には、自分が夢中でつけた赤い跡が、まるで満開の桜のように残っていて、赤井は自分もまだまだ若いなと苦笑してしまった。


「そんなに物欲しそうな顔をしないでくれ。最後までシたくなる」
「し、してないっ」
「ああ、そうだな。今日はここまでにしよう。もうこれ以上すると本気で後戻りできなくなる。俺はお前をゆっくりと大切にしたいんだ。心の準備ができるまで」
「……」
「心に何か引っかかりがあるままでは、抱かれたくもないだろう?」


 そう言われた途端、なまえは昂っていた気持ちがさっと引くような感覚に陥った。見透かされていたのだ。その原因が安室であることまではまだ見通せていないとは思うが、自分の心が目の前の赤井だけにあるのではないということを、ずっとその目で見透かされていたに違いない。

 乱れた服を軽く整えてくれた彼が「何か飲み物をいれてくるよ」と優しく言って去っていくのを見送った後、なまえは思わずソファに顔を埋めて泣きそうになる。

 彼の言う通り。本当はずっと、先ほどの一連の行為の最中、呪いのように思い出していた。今日の昼間、彼が言ってくれたあの言葉。

『その交際相手に、存分なほど甘えておくことですよ』

 ねえ、安室さん。あなたどんなつもりで言ったの?

 馬鹿正直に彼の言う通りにしたのに、ひどい罪悪感が襲ってきて、古傷は癒えるどころかぐずぐずに化膿しているような気がした。心が裂けそうなほど痛い。そんな、ひどい気分のままで夜は更けていく。

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