88...
翌朝。赤井によって刻まれた証は未だにひりひりとして、昨日の行為が夢ではなかったのだとなまえは起きたときからひどいくらい思い知らされていた。サテン地のパジャマの上から無意識に胸の谷間あたりを撫でつつ階段を降り、顔を洗ってキッチンでコーヒーを入れる。そこへ少し遅れてやって来たのは、まるで昨日のことなど何もなかったかのような態度を見せる熱烈なキスマークの犯人・赤井秀一。アメリカ暮らしが長いせいなのか、目が合うだけで朝食代わりの甘いハグを求めてくるので、純日本人であるなまえはそれをひょいとかわし、ジト目で彼に朝の挨拶を告げる。
「……おはようございます」
「随分、冷たいな。昨日はあんなにいい声で啼いていたのに」
「あーあーあー、聞こえない聞こえない」
両耳をぱたぱたと手のひらで覆いながら、発声練習のように繰り返す無様なダミ声。そして、それを爽やかに笑っている赤井。これは完全にからかわれているパターンだ。なまえはそう苦々しく思いながら、同じくコーヒーを入れて対面する席に座ってきた彼に対し、昨日渡し損ねていた紙製の小袋を手渡した。
「これは?」
「厄除けのお守り。私から秀一に」
「厄除け?」
「ええ。昨日は……その、いろいろあって言えなかったけど……『あの人』がまた近頃になってこの近辺の情報を鋭く嗅ぎ回ってるみたいですよ。それでなくとも秀一は死んだことになっているはずなのに、挑戦的にもベルツリー急行の八号車と貨物車の間であんなことするから……これ以上の災厄が降りかからないように神頼みでもしないと」
「あの人?」
「……安室透に決まってるでしょう?」
その名前を口にするだけで、なまえは少し緊張が増した。フルネームで呼ぶという抵抗じみた行為に必死で嫌悪感を滲ませようとしたが、一晩明けてみたものの、やはりもう彼のことを完全に嫌ってしまうことはできそうにない。もちろん、まるで手のひらを返すように安室に再び好意を抱き始めたというそこまで都合のいい話ではないが、会いたくて堪らなかった大切な友人である降谷と彼がもし本当に同一人物であるなら、弟を幼児化させた黒ずくめの組織にこのまま彼を置いておくわけにはいかないのだ。
なんとかして、私が目を覚まさせてあげなければ。使命的になまえはそう思い、顔を伏せて唇を噛む。
一方で、勘の鋭い赤井はなまえの口から安室の名が出てくるだけで、昨日の彼女の動揺の理由をすべて理解し尽くしてしまった。つまり、昨日。彼女は花見会場で安室透ことバーボンに出会ってしまったのだ。そして、その場で彼に何かを言われたに違いない。繊細ななまえの心を一瞬で打ち砕くような、ひどい何かを。
そして赤井は同時に、自分が柄にもなく激しい嫉妬に駆られているということにそこで初めて気がついた。彼女の恋人は紛れもなく自分であるはずなのに、名前ひとつで未だになまえの心をこんなにも動じさせるのはあの男。しかしなまえは、安室がバーボンだとわかった時点で、彼に抱いていたその淡い恋心を無下にも殺していたはず。だから、赤井の唐突な告白にも、ためらいがちに頷いてくれたと思ったが……。今、その心が揺れている理由は、ただひとつしか思い当たらない。
おそらく彼女もまた、彼に関して何か気づき始めていることがあるのだ。見たところまだその確証を得てはいないらしいが、もうそれも時間の問題。真実が明らかになった時点で、何を信じ、何を選ぶことになるかはなまえ次第になる。だが、赤井はこの身に宿る想いの強さであれば絶対「彼」に負けない自信があった。
「なまえ」
突然ながら、彼は何を思ったか、恋人に渡されたばかりのお守りを軽く一瞥しただけで早々に突き返してしまった。そして、冷静にこう言い放つ。
「これはお前が持ってろ」
「え?」
「俺にとっての災厄は、お前に災いが降りかかること。その方が俺にとっては恐ろしいものだからな」
彼はそう言うと、彼女の頭をぽんぽんと二回ほど撫でて立ち上がり、コーヒーを一気に飲み干す。隆起した喉元が規則的に動く様が思ったよりも雄々しくて、少し昨日のことを思い出してしまったなまえは軽く赤面するほどどきりとした。
「悪いが今日も外に出る。夜には帰るが、夕飯は確約しかねるよ。すまない」
「いえ、わかりました……」
気をつけて、と頼りなくかけた声もたった一度の頷きだけで済ませてしまった赤井は、おそらくこれから外出のために沖矢昴に変身しに向かったのであろう。黙ってキッチンを出て行く彼は、いつもと比べると妙にそっけない気がして寂しかった。
きっと、自分が安室の名を出してしまったからだ。かつて身を焦がすほど好きだった男の名を口にして、楽しい気分になる恋人はいないだろうとなまえは思う。
あっけなく突き返されてしまった悲しいお守りを、彼につけられた証が残る胸のあたりで抱きしめながら、強く強く祈る。赤井に災厄が降りかからぬよう。それから、安室にも。どうか災厄が降りかかりませんよう、お守りください。神様。その祈りがどこに届くのかは自分でもわからないが、今はそうやって祈らざるにはいられなかった。
かつて、ふたりは黒ずくめの組織の仲間として一時的にも行動をともにしていたことがあるはずだった。故に、赤井は誰よりも早く彼がバーボンであるということがわかっていて、なまえにも「好きになったことを必ず後悔する」と呪いの予言のように言うことができたのだろう。しかし、双方の忌み嫌い方が他の人とはかなり異なっているような気がしてならなかった。赤井の今の行動にしても。安室がわざわざ詮索のために、進んで赤井の変装を行っていたことも。屈折した何かが彼らの間にはあるのではないかと思えてならないのだ。
彼らの間に確執のようなものがもしあったのだとしたら。その原因は、一体。
ふと気づいたが、キッチンのカウンターの上には、いつの間にかなまえの大事なぬいぐるみがそっと同じキャラクターのカレンダーに寄りかかるようにして置かれていた。それをくれた大切な友人たちの顔が思い浮かんで、なまえは力なく微笑む。
緩衝材のように間に入ってくれたのは、いつも諸伏。どうか、神様。ヒロにも災厄が降りかかりませんように。
case88. どうか、神様
繁華街の中央にあるがやがやとした騒がしい居酒屋は、実は向こうから指定された場所だった。扉を入るなり、怒声かと一瞬びくつくくらいの大きな声で「いらっしゃいませーいっ!」と、この店の大将的な人物がくしゃくしゃの笑顔でそう言ってくるので、思わずおどおどしていると、既にカウンターについていた顔見知りの女性が軽い感じで手を上げる。
「なまえ! こっちこっち!」
「美和子。ごめんね、ちょっと遅れちゃった」
「ううん。私も今来たところよ」
それは気を遣わせないようにするための言葉の綾だったかもしれないが、なまえは美和子のその台詞を信じて安堵し、彼女の隣に腰掛けた。しかしなるほど。美和子が指定するだけあっていい意味でおやじ臭い。壁一面に貼られたメニュー札をつらつらと眺め、お洒落とは無縁の店だと思い知る。きっと刑事とはこういう場所で飲むのだろう。普段は取り締まる側としてきりりと襟を正している彼らも、ここではただの陽気な人になる。そんな想像まで広げてしまう、なまえにとってはとても新鮮な居酒屋だった。
「あら。お守りなんて珍しいわね。厄除け?」
「あ、うん。ちょっとね」
ところどころ塗装が剥げた木目調のテーブルに、一瞬だけ預けるために置いたバイクの鍵。それにつけていたのは、先日、赤井に突き返された例の厄除けのお守りだった。これを買った日に同じ神社で起こった殺人事件の話なら、美和子の恋人である高木が現場にいたので話も広がるかと思ったが、今はその説明が面倒臭いように感じられて無理やりすぐにカバンのポケットにねじ込む。すると、美和子は頬杖をついて何の気なくからかいがちに笑った。
「十字架とかじゃないんだ?」
「私はそんなに敬虔なクリスチャンじゃないよ。孤児院がキリスト教系だっただけ」
そうよね、とからりと笑って相槌を打った彼女に対し、なまえも表情を崩すようにふっと笑う。そして今回、美和子を誘った一番の理由についてさっそく口にすることにした。
「この前はどうもありがとう。美和子から聞いた話、すごく有益な情報だった」
そう、それは遡ること少し前。「モロフシ」という名前に聞き覚えがあると言った美和子は、その人物について独自に調べを進め、長野県警に諸伏高明という刑事がいることを見事に突きとめてくれたのである。それを聞いたなまえは、親友だった諸伏に警察官の兄がいたことを思い出し、その人物に近々、必ず会いに行くという固い誓いを立てていたのだった。
長野への旅立ちはまだ実行には移せてはいないが、そんな大切な情報をくれた美和子を慰労したいと思うのは当然のこと。そのために、今日はわざわざ仕事終わりの彼女に珍しくも自分から声をかけたのである。もちろん、全額奢るつもりで。
「そう言ってもらえると刑事冥利に尽きるわ。でも、別にお礼なんていいのに。今日も割り勘でいいし」
「ううん。それだとこっちの気が済まないから」
「うーん。じゃ、遠慮なく……大将っ! ビール、大ジョッキで!」
「私、ウーロン茶」
「大将、それも大ジョッキね!」
奥から「あいよーっ!」と同じくらい気前のいい掛け声がやまびこのように返ってきたので、なまえは少々、そのやりとりに面を食らっていた。美和子、もう酔ってるの? と、思わずそう尋ねてしまったほど、今日の彼女はテンションが高いらしい。それは純粋になまえの方から誘い出してくれたことが嬉しかっただけの話なのだが、彼女は彼女で今日はとことんなまえに付き合ってもらうつもりにはしていた。
「で。その後、何かなまえの方で掴めたことはあった? その、モロフシって人のこと」
「全然。でも、一度、美和子が教えてくれた人には会いに、長野まで行こうとは思ってるよ。連休が取れたらだけど」
本当に大ジョッキで運ばれてきたウーロン茶に苦笑いしつつ乾杯をして、ラミネート加工されたメニューをふたりして眺めながら話を続ける。まあ、私が探してるのはその人の弟の方なんだけどね、と言うと、美和子からは相槌を意味する感嘆が漏れた。
「へえ。あ、でも。そのモロフシ警部って県警じゃなかなかのイケメンらしいって噂よ? 由美が合コン仲間に聞いてくれたらしいから間違いないし。 なまえ、変なところで隙があるからほだされないようにしないとね?」
「あはは、ないない」
「例の大学院生とは続いてるんでしょ? その後どう?」
「うーん。これといって別に。順調、なのかな。美和子の方は?」
「私の方も別に……でも、」
そう言って、急にトーンダウンした彼女を横目に疑問を抱く。まさか、あまり上手くいってないのだろうか。そんな余計な詮索をしてしまったとき、美和子は恥ずかしそうに首を傾げながらこんな問いをなまえに投げかけるのである。
「……ねえ、見てわかんない?」
「え、何?」
「あー、もう。これよこれ」
彼女はばつが悪そうに頭を掻きながら、ジャケットの襟を引っ張って見せつける。言われてみれば、以前、諸伏のことを調べてもらう約束をしてくれた際に、堂々と見せつけてくれた赤バッジがそこにはない。「選ばれし捜査第一課」の証でもあった、大事なそれが。
「バッジ、失くしたの?」
「そう。この前、高木くんが取り逃がしそうになった被疑者を一本背負いしたときにね」
「それは……高木さんに責任とってもらうしかないんじゃない?」
「やっぱりそう思う!? よし、さっそく明日呼び出しちゃお」
美和子はそう言うと携帯電話を取り出し、何やら高木に詰め寄るためのメールを打ち始めたようであった。その表情は失くし物をして焦っているはずなのにどこか楽しそうで、なまえはついつい微笑んでしまう。何よ、と恥ずかしそうに睨む美和子には「愛の力は偉大だな」と笑って返した。
にしても、一本背負いか。なまえはそう思いながら、美和子が黒いシルエットの犯人を背負って投げ捨てる場面が悠に想像できて、ちょっと圧倒された。美和子と高木ならやはり主導権を握っているのは彼女の方だろうし、美和子の男勝り加減を高木はどのように扱っているのだろうかと余計なお世話的に訝しむ。
そうこうしているうちにとある疑問が思い浮かんで、なまえはこの場の無礼講を建前に彼女に尋ねてみることにした。
「ねえ、美和子ってさ」
「んー?」
「高木さんとは一緒に寝てるの?」
……硬直。後に、熟れたトマトのように顔を染めて、美和子はすごい剣幕で突っかかってくる。
「はあっ!? な、何てこと聞いてんのよ?」
「いや……この前、私の彼に『寝室を一緒にしないか』って言われたんだけど、そのときうやむやにしちゃったから。美和子の方はどうなのかなって思って」
そう訳を話すと、ようやく彼女は気を落ち着かせて椅子に座り直し、腕を組んで恥ずかしそうにこう答える。
「……付き合ってるんだったら、寝室を一緒にするくらいは普通なんじゃない? うちはまだ同棲してないからわからないけど」
「そう……」
「ま。試しで一回、添い寝もアリかもよ?」
「え?」
「なんか、なまえ。寝不足って顔してるし。疲れてるからそういうことに持ち込まないって約束だけ取りつけて、本当に添い寝だけしてみるのも悪くないんじゃないかなって思うけど? 誰かが隣で寝てるって確かに気も使うけど、朝起きたときすごく安心するわよ」
そう言って、今度は逆にけしかけるように笑う美和子がやっぱりとても美人で。ひとつ年下なのに、まるで彼女の方が先輩に思えてなまえは自分が情けなくなる。
確かに、ここのところまた寝不足が続いていたのだ。あの花見の日、彼に会ってから。
後は普通の食事会のような雰囲気で、和気藹々と雑談しながら料理を楽しむことになった。にしても、いやにおやじっぽい酒の肴ばかり頼み出すこの性格さえなければ、もしかすると高木とのゴールインも近いのでは? なんて思ったことは絶対に内緒である。