89...
その夜、意を決して赤井の部屋をノックしたなまえは、自身の部屋から枕だけを抱えて持ってきていた。美和子に「添い寝もアリ」などと言われたことを馬鹿正直に真に受けて……という面ももちろんあるのだが、本当はあの花見の日から不眠気味で、なかなか寝つけないことが起因している。以前誘われた寝室を一緒にするという案にはお応えしかねるものの、一度くらいならと赤井と添い寝してみるという荒治療に出るのも悪くはないのかもしれないなと思えて、珍しく自分の方から歩み寄ってみることにしたのであった。
コンコン、と響く高い音。そういえば昔、この工藤邸に引き取られてすぐの頃は、夜になると心細くて、父と母の寝室を遠慮がちにノックしては一緒に寝て欲しいと頼んだこともあったっけ。新一が生まれてからは子どもながらに無意識に遠慮してそんなこともなくなってしまったが、あのときはとてもどきどきわくわくして、ふたりに挟まれて見る夢は決まって幸せだった記憶しかない。
ノックに反応して足音が室内から聞こえてきたかと思うと、赤井は警戒するように決してドアを全開にすることなく、そっと顔だけその場から出した。そして、パジャマ姿の恋人をその目に映した瞬間、驚いたように大きく扉を開ける。
「どうした? 珍しいな」
「秀一、あのね……」
「?」
「……今日、一緒に寝てくれる?」
その誘い文句はあまりにもたどたどしく、赤井の目には愛おしく映った。彼女の言う「寝る」が本当の意味での睡眠であるということは言わずものがなわかっているが、それを残念だとして断る理由も特にない。夜、それぞれの個室に入れば、赤井は隣人の阿笠邸の盗聴をしながらバーボンを傾けるばかりで、それもあのベルツリー急行の一件からはその緊張も以前よりは薄れていた。決して油断しているというわけではないが、大切ななまえひとりを抱えて眠るくらいはどうということもないと即座に判断できる。
「実はここ最近、あんまり眠れなくて。嫌なら寝つくまで一緒にいてくれるだけで」
と、まるで言い訳のような言葉をもごもごと口にする彼女を、赤井は最後まで話を聞かずに引き入れた。そしてエスコートするように軽く背中を押して自分がいつも使っているベッドまで誘うと、後ろから彼女のこめかみあたりにキスを落とす。それはまるで欧米で親が子どもを寝かしつけるためのおやすみのキスのようで、なまえは子ども扱いだとそこを押さえて上目遣いで彼を見やった。笑っているところを見ると、これは相当機嫌がいいらしい。
赤井の部屋は以前と同様、無駄なものが一切ない整頓された部屋だった。持ってきていた枕を彼のと並べるように置くと、急にシングルベッドが狭くなったように感じられて。ここに今から自分が彼と寝るのかと思うと、なまえは今さらその光景に怖気づきそうになる。だが、一度深いため息をつけば、自分が言い出して決めたことだと腹を括れた。
先日の赤井の言葉から、彼がなまえの心の準備が整うまでは絶対にセックスをしないということはわかっていた。それに、ちらりと見える窓際のデスクの上に置いていた飲みかけのバーボンが入ったグラスから考えてみても、彼がすぐに隣で眠るわけではないだろうということは察せられる。寝入ってしまえば恥を感じることもない。そう安易に予測したことが、数秒後には間違いであったことに気づいたのだ。
壁につけるように設置されたベッドになまえがよいしょと潜り込むと、その背後からすぐに彼の方も同じ布団に当然のように入ってくる。そして、驚いている彼女を大事そうに抱きしめると、その吐息が妖艶にも首元にかかった。
「えっ。まさか秀一ももう寝るの?」
「ああ、時間が勿体ない」
「勿体ないって」
「一秒でも長くお前を抱いて眠りたいんだ」
恥ずかしさから彼に背を向けていたなまえではあったが、その言葉で一気に自分の顔が性懲りもなくまた熱くなるのがわかった。首筋に彼の吐息がかかるのがわざとかと思うほどくすぐったくて、そこを気にするように三本指で押さえていれば漏れ出すような彼の笑みが聞こえる。
「俺の夢が叶ったよ。ベッドの中でなまえに『おやすみ』を言うこと」
「んっ」
「お前、誘ってるみたいにいい匂いがする」
そう言ってすんすんと顔をうなじに埋めると同時に、前に回ってきていた彼の手がパジャマの裾からいやらしく入ってきて臍のあたりをなぞった。甘い刺激に短い悲鳴を上げて困惑していると、彼は安心させるように言う。
「大丈夫だ、何もしない。ただ少し触れさせてくれ。こうしていれば俺も今日は落ち着いて眠れそうだから」
「う、ん……」
「おやすみ、なまえ」
いい夢が見れるように祈ってるよ。そう言われてちゅという可愛い音ともに髪がかかるうなじにキスを落とされる。なまえはやっぱり早計な荒治療だったなと思った。なぜなら、全然眠れる気がしない。
しばらくそのまま目を閉じてじっとしていれば、腹部に当てられていた冷たい彼の指がだんだん自分の体温でほどけるように暖かくなってくるのがわかった。背中からは熱源のような彼が宝物を閉じ込めるみたいに自分を抱きしめてくれている。まるで体温を交換しているみたい。そんなことを思っているうちにようやく睡魔がきて、結局いつも通り寝つき悪いまま意識を手放した。
幸せな、夢の中へ。手を引かれるように。
case89. 眠る彼女はいつまでも目を覚まさない
南東京駅行きの都営バスに乗っていた。運転席の頭上に掲げられた真新しい電光掲示板には「東20」というナンバーと次の停留所が表示されている。車内は割に混み合い、満員の座席に対し立っている者も多く、あちこちで話をしている賑やかな声に包まれていた。
その中でも後方から数えて二番目の左側。窓側に座っていたなまえは先ほどからこくりこくりとバスの揺れに合わせて眠りの船を漕いでおり、通路側の客の方へ無遠慮に頭を垂れている。しかし、その姿は二十九歳の彼女ではない。今のなまえよりもひと回りほど年若い、高校時代の自分。そんな彼女となまえは同じバスに乗り合わせている。これは間違いなく、夢だった。
後ろにいた大学生くらいのカップルが「ゴールデンウィークの初日だね」などと言って、手を繋いで仲睦まじそうに予定について話し合っていた。また、隣にいる老人の腕時計が、待ち合わせ時間を既に半時間ほど過ぎてしまっていることを知らせている。……待ち合わせ? どうして今、そう思ったのだろう。何か大事な予定があった、ような気がする。
やけにリアリティのあるバスの中は、なまえの記憶の中で夢と現実の世界がごちゃ混ぜに混在しているような不可思議さを放っていた。曖昧な既視感ばかりが視界には映り、その理由を大人しく目で追うように探していれば、突然、馴染みある歌が風に運ばれてくるように耳に入ってくる。
誰かがバスの中で、突然、大きな声を出して歌い始めたというわけではなかった。むしろ、バス特有の大きなロードノイズと喧騒に負けて、かき消されるほどの微かなボリュームだったはずなのに。なぜかその歌だけが切り取るようにはっきりとなまえの耳には聞こえる。
ト長調。ふるさと。
驚いて歌声のする方に視線を移せば、そこにはやはり揺れながら眠りについている高校生のなまえ自身。そして、その隣で幸せそうにハミングをしている少年がひとり。その顔を見た瞬間、彼女は自分が記憶のどこに迷い込んでしまったのかを理解した。
誰にも気づかれないような音量で楽しげにハミングをする少年は、まだ無精髭も生やしていない頃の諸伏景光で間違いなかった。彼はときどき遠慮なく肩に激突する友人の寝顔を、一切、嫌な顔ひとつせず優しく見つめながら『ふるさと』を歌っていたのである。その目には彼の人のよさがすべて詰まっていて、二十九歳のなまえは思わず、息を飲む。
ここは十二年前の、五月三日。諸伏と降谷を伴って、三人で南東京駅にある商業ビルへ新一の誕生日プレゼントを買いに行く途中のバスの中だった。交通機関音痴のせいで乗り間違えをしたなまえにつき添うように諸伏が乗り合わせてくれて、待ち合わせ場所まで向かっている最中。結局、この後一時間ほど遅刻して、ふたりして降谷にこってりと絞られた記憶はあったのに、今、目の前で起こっている光景に対する記憶はない。それもそうだろう。今の自分はあの通り、無垢な目を閉じて眠っている。太陽を浴びて。
はらりとなまえの顔にかかった髪を、諸伏のしなやかな指が摘んで器用に反対の耳にかけてくれた。窓から差し込む光のせいか、その光景がとても穏やかで幸福に満ち溢れたもののように感じる。もう六年も会っていないが、諸伏の性格は出会ったときからちっとも変わっていない。誰かのために尽くし、平和を愛し、悪を憎む。博愛的で、誰に対しても隔てなく優しい。そういうところが友達として大好きだった。
振動でかたかたと揺れる窓ガラス。賑やかな他の乗客の話し声。誰かがブザーを押して停車を知らせる音。そんなガヤガヤとした騒がしい車内で、口を結んでハミングをしていた諸伏がゆっくりとその口を開く。
「なあ、なまえ」
急に自分の名前を呼ばれて、当然、反応したのは二十九歳になったなまえの方だった。しかし、諸伏の目にはその姿が映っていないらしく、その視線はただ一心に隣で眠る友人の横顔に釘づけになっている。もちろん、高校生のなまえは目を開けない。その様子を見て安心するようにふっと微笑むと、諸伏は次に驚くべき言葉を投げかける。
「 」
瞬間、すべての時が止まったような気がした。なまえはその場で呆然として、一切、身動きがとれなくなる。それでも、その動揺を表すように自分の指の先が微妙に震えていることに気づいたのは、しばらく経った後だった。
バスはその後も目的地まで不乱に走っていた。相変わらずざわざわとした車内で、先ほどの彼の言葉は誰の耳にも届かず静かに消えていく。けれど、彼の方は満足そうで。口元を弧にして笑うと「なんてな」という照れ隠しを口にした。
運転手が次のバス停で止まることをアナウンスしていた。気づけば次第に、周囲から人の気配が消えていく。どうやら覚醒が近いらしく、曖昧だった世界がさらに曖昧になり、その形を不規則に歪ませているのだと思った。けれど、後方二列目のその席だけはいつまでもはっきりと見えていて、諸伏は隣のなまえを見つめながらいっそう愛しそうな表情に変えている。それから先ほどと同じように髪を直すふりをしてなまえの頬を指でなぞり、彼らしいへにゃりとしたやわらかい笑みで呟くのだ。でも、オレはゼロのことも心配だから。
「だから、なまえ。ゼロのこと、よろしく頼むよ」
そこで目が覚めた。今まで散々夢を見せていたシャボン玉が、ついにはぱちんと弾けるみたいに。
カーテンの隙間から朝日が差して、壁に光が反射していた。背後にある暖かな熱。それが赤井であることを感じながらも、なまえは今しがた見た幸せすぎる夢を回想し、気づけばとめどない涙をぼろぼろと溢していた。
諸伏が降谷のことを頼むと言うのはどこか変だった。もちろん、夢だからと言ってしまえばそれまでの話なのだが、幼少期からずっと一緒にいる腐れ縁的関係を持つ彼らが友人とはいえなまえに相棒のことを頼むとは思えない。まるでそんなの、諸伏だけどこかひとりで離れていくみたいな口ぶりだ。いつも穏やかで、場のムードメーカー。人一倍博愛的で、だけどしっかり悪を憎む。そんな彼が降谷を置いて、どこに行くというの。
それに。なまえの脳裏には、夢の中で発した彼の言葉が蘇る。一向に目を開けない高校生のなまえに対し、その様子を見て安心するようにふっと微笑んで投げかけた、あの言葉。
『好きだよ』
眠っているなまえはいつまでも目を開けない。自分に向けられた有り余る深い愛情には気づかないままで、いつまでもひとり、陽だまりの中で眠り続けているのである。