90...
赤井はすぐ傍でわずかに肩を震わせている彼女を見つめながら、ひたすらにじっと考え込んでいた。昨晩、たどたどしくも一緒に寝て欲しいなどと頼み込んできた自分の女が、朝がきた途端、隣で必死に声を押し殺して泣いている。その光景があまりにも脆く、儚げで、恐ろしいくらい今にも消えてしまいそうな不確かな雰囲気すら感じさせた。どうやら自分の力量では、ただ甘くて幸せなだけの夢を彼女に見せてやることは叶わなかったらしい。
少し腕に力を込めれば抱きしめてやれる距離にいるはずなのに、日頃から甘い空気を求めがちな彼でさえも今のなまえに触れるのは憚られるように感じられて、珍しくも一切、手が出せなかった。たとえ同じベッドで眠ったとしても、それは物理的な距離が近いというだけ。自分の抱えている面倒ごとに巻き込みたくはないからと、調べていることに関しては自分勝手に隠し通しておきたくて。その立場を同等なものとして彼女にも与えてやるために「無理に話さなくてもいい」と言った言葉が仇となり、その孤独や寂しさの理由に本当の意味で寄り添うことができていないことを思い知る。そんな自分が、無力で歯痒かった。
しかし、赤井にはその涙に対して思い当たる節があることは事実だった。ここ最近、あまり眠れなくて。昨日の夜、突然のように添い寝を希望した理由を恥ずかしそうにそう口にしたなまえの目元には、確かに裏づけのような青白い隈があって、その言葉に嘘偽りはひとつもないのだということはわかっている。ただ問題は、その隈が現れたのが、彼女ひとりを花見に行かせてしまった日からであるということだった。
やはり赤井には、彼女を取り囲む孤独の元凶が、すべてバーボンこと安室透にあるように思えてならなかった。彼となまえとの間にあったこと。その複雑な経緯がたったここ数ヶ月間だけの話に留まるようには到底思えない。だからこそ赤井は、彼女の部屋に無断で忍び込んでその確証を得るためにアルバムの類を探したのだが、その痕跡は既に「何者か」によってかき消されていた。このことが何を意味しているのか、なんて。深く考えることのできない子どもでも、道理のようによくわかるだろう。
つまり、なまえがいつも楽しそうに話す、高校時代のかつての友人が彼なのだ。そしてその人物が安室透を名乗る別人になりすまし、赤井にとって世界で一番失いたくない存在へと昇華しまったなまえの心に、みだりに立ち入ってかき乱している。証拠という観点からは推察の域を未だに出ていないが、そんな風に断定している赤井はまたそのことに嫉妬して。そして、同時にこう思う。
彼女を繋ぎ止めておくことが、はたして本当に正しいことなのだろうか、と。
結局、赤井は彼女に指一本触れることすらできないまま、何も気づいていないふりをして布団から先に抜け出した。そして、なまえひとりを外界から取り残すようにパタンと静かにドアを閉める。
赤井の気配がなくなった部屋で、なまえはようやく身じろぎをして大粒の涙を懸命に拭うことができた。一緒に眠ってくれた秀一に、笑顔でおはようって言わなくちゃ。その彼にすべてを知られているとはつゆ知らず、そんな風に思ってなまえはどうにか自分を奮い立たせるのである。
case90. 君の最上の言葉で約束を破る
涙が乾くのを十分に待ってから、そっと音を立てないように下階に降りた。そして、逃げ込むみたいに洗面所に入った後、いつもより冷たい水を出して顔を洗う。鏡の中の自分はわずかに目元が腫れていたものの、思ったよりもそんなにひどい顔をしているわけではなく、これなら目ざとい赤井にも何も怪しまれることはないだろうと早々に高を括る。後は笑顔の練習でもして顔を筋肉をほぐし、とびきり機嫌がいいような態度を装っていつも通り彼の待つキッチンに入った。
途端、鼻腔をくすぐるコーヒーのいい香り。赤井はカップを片手に陽の当たる窓辺でなまえが大切に育てているローズマリーの葉に触れながら、鋭い視線を彼女に送った。ひるまない。とっさにそう思って、なまえは意図的に作り出した笑顔をにこにこと彼に向ける。
「おはようございます。昨夜は突然すみません」
「ああ、おはよう」
「あっ、そういえば。パンに塗るスプレッド、もう買い置きがなかったんでしたっけ? 今日、仕事終わりに買ってきますけど、何味がいいですか?」
私は久しぶりにピーナツバターなんていいかなあって思ってるんですけど、レモンカードの方がよかったらまたお休みの日にでも作ろうかなあ。なんて、なまえはそう言いながら、自分でもかなりわざとらしくどうでもいい話をしているなという自覚があった。よくもまあ、口からぽんぽんとそんな話が出てくるものだと我ながら呆れる。けれど、こうでもしていないと手強い赤井には心を悟られてしまいそうで。そして、もしそんなことをされたら、今度こそ立ち上がれないくらい心を打ち砕かれて、もう一歩も前に進めない自信すらあった。
けれど、赤井はわかっていた。それが彼女の精一杯の虚勢であることも。そして、わずかに腫れた赤い目も。その痛々しい態度のすべてが、無理やりにでも聞き出して抱きしめてやらなかった自分を責める代償になっているような気がしてならなかったのだ。今となってはもう、その思いに寄り添うことが正しいのか、それとも気づいていないふりをしてやり過ごしてやる方が正しいのか。さすがの彼でも判断しかねて、つい目線を逸らす。
「なあ、なまえ」
「はい?」
なまえは相変わらず、呑気にもスプレッドの話をされるものだと思っていた。しかし、赤井から言われたのは、予想をはるかに超えるような思わぬ言葉だったのである。
「好きだ」
それは、なまえの気持ちを無理にこじ開けるものでも、気づかないふりをしてやりすごすものでもなかった。ただ、彼はなぜか今、このタイミングで自分の気持ちを正直になまえに伝えなければならないような気がしたのだった。思えば、交際してからは態度でその気持ちを示すようにしてきたつもりではあるが、ここまではっきりと「好きだ」と言ったことはただの一度もない。だから、無性に今、伝えなければ、この先いつか絶対に後悔するときがきてしまうような気がしたのだ。
一方のなまえは、その言葉ひとつでまたも時間が止まったように感じていた。夢の中で、諸伏に言われた言葉と同じ。あれがただの夢だと結論づけてしまえればそれまでだが、今まで気づくことができなかった諸伏のあの愛しげな表情が恋愛対象としてなまえを見ているということを完全に物語っていた。友人ふたりともに向けられていた愛情にひとつも気づかなかった鈍い自分が嫌になる。けれど、彼らと赤井の決定的に違うところは、赤井がその想いをいつも直球でなまえに伝えてくれるというところにあった。
まるで改まった告白のような彼の台詞に対するなまえの返答は、もう既に決まっていた。それはもちろん、こちらからも同じく初めて彼に返す、最上の言葉である。
「私も秀一のことが好き」
「!」
「だから、これからもどうかよろしくお願いします」
そう言ってなまえはぺこりと頭を下げたかと思うと、恥ずかしさから頬を染めて「顔洗ってきますっ」と再びキッチンから出ようとする。けれど、それが二度目だということが完全にお見通しだった赤井は、とっさにカップを投げ捨てるように窓枠のところに置くと、先に行く手を阻んで抱き寄せる。次に聞こえたのは、余裕なくぐらぐらと揺れていたカップが無情にも落ちて割れる大きな音。なのに、その腕の中できつく彼女を抱きしめている方が、赤井にとっては何よりも先決だった。なまえはその態度にドキドキしながらも、まるで飼い主からの愛情を一心に受ける猫のように彼の厚い胸板に頬を押し当ててじっとしている。
彼の切なげな深い声が、耳元で響いた。
「今からお前との約束を破るから、嫌なら、三つ数えるうちに離れてくれ」
約束。突然言われたその言葉に一瞬はピンとこず、わずかに間を置いてしまう。だが、すぐさまその意味を理解したなまえはあたふたと彼の腕の中で慌て出した。
三。その約束とはもちろん、なまえが赤井と交際することを了承したときに、自ら出したあの条件のこと。
二。意外にも強引な彼が今まで律儀にそれを守ってくれていたことが、逆に愛されている証拠になっているような気がしてならなかった。
一。そして、今から彼がその約束を破る。なまえはそれを、目を閉じて了承する。
「ゼロ」
奇しくもかつての友人のあだ名と同じ。カウントダウンのラストとともに重なった彼の唇は熱くて、まるでそこから溶け出してしまうのではないかと思えた。今まで赤井から受けたキスの中で一番、優しくてとびきり甘い。大切にされているということを深く感じさせるもので、なまえはおぼつかない様子でそれを必死で受け止めるように応える。彼の想いと同じくらい、自分も彼を愛したい。そんな風に思いながら、おずおずと赤井の背中に手を回した。
小鳥の鳴き声しか聞こえないほど静かな朝。破られた約束に互いに後悔はない。
しかし、その頃。自室のベッドの上に置いていたなまえの携帯電話には、彼女の運命を変える一件のメールが届いていた。差出人は世良真純。その内容は「森林浴をしに長野の森の中にある貸別荘へ行くから、一緒に来ないか」と誘うものであった。