91...
長いキスの後ようやく割れたカップを片づけるために離れたふたりは終始無言で、妙に上気するような甘ったるい空気だけがあたりを漂っているように感じられた。
ふたりのキスはこれで三度目。一度目は沖矢と。彼の正体を暴くために出た賭けで、見事に返り討ちにされた窒息寸前のレモン味のキス。口内を割って入ってきた乱暴な舌がとても生々しくて。まるで自分の欲を押しつけるだけのような独りよがりのキスは、今思えば、沖矢昴の中に赤井秀一がいたということを証明しているような気がした。
二度目は赤井。冷凍車に閉じ込められた子どもたちを見守るために入った彼の部屋で、交際了承の返事をした途端にされた、またも強引に食むようなキス。それは、散々、告白の返事を待たされた彼らしい堪え性のないもので、結局はそうならなかったものの、あわよくばその激しい劣情とともに性的な関係へと持ち込む気構えさえも彼はそのキスで明け透けに見せつけていたのだった。
そして三度目が今。これまでで最も優しく、まさに「重ねる」という言葉が適切だと思えるような、愛情のこもったキスをようやくふたりは交わしたのだった。まさにその行為は恋人そのもので、なまえは彼と離れた後も、つい今しがた起きた出来事を思い出して頭がぼんやりしてしまう。
あのとき三つ数えるうちに逃げなかった理由は、拒めなかったのではなく、拒まなかったから。誰に左右されることもなく、初めて自分の意思で、なまえは赤井を受け入れたのである。
そのままなし崩しに抱くことはせず、赤井はまず自分が割ってしまったカップの大きな破片だけをひとつずつ丁寧に拾い上げて、あらかじめなまえが傍に敷いていた新聞紙の上に注意深く重ねていった。そんなに床も濡れていないので、残りの細かい破片はこのまま掃除機をかけて片づけてしまった方が早いだろう。そう判断して、納戸まで取りに向かおうとしたなまえに対し、時計に視線を配っていた赤井が冷静に告げる。
「ここはもういいから、お前は着替えてこい。仕事に遅れるだろう?」
「でも……」
「割ったのは俺だ。気にすることはないさ」
カップなら、ピーナツバターのスプレッドと一緒に俺が買っておくよ。そんな風におどけて言ってくれる彼に、なまえはふっと気持ちが楽になって笑う。じゃあ、お願いしようかな。そう言って首を傾げる世界で一番可愛い彼女に、赤井は快く頷いた。
「そうだ、なまえ。時間的に間に合うのなら、今日はバイクを置いて行ってくれないか」
「えっ、どうしてですか?」
「たまには夜、ふたりきりで外食でもしよう。俺が車で迎えに行くから、仕事が終わったら連絡を入れてくれ」
何の気なく、そんな恋人らしいことを言ってくれる赤井がなまえは嬉しくて。好きだと告げたばかりの気持ちが、尚も今、少し増したように感じられた。休日なら昼間、一緒に出かけている最中でランチをしに適当なレストランに入ることもあるが、基本はどちらかが作ったものを家で食べることの方が多い。それは、コストや時間的な理由も確かにあるが、なまえが思う一番の理由は赤井自身にあった。
この工藤邸という名の居住スペースは、彼にとって唯一、素顔を出せる場所。わざわざ手間のかかる変装までしてもらって外食しようとは思わないし、それに、できれば彼には本来の姿でゆったりと落ち着ける時間を過ごしてもらいたい。なまえは恋人という立場を優先するよりも、彼の家主としてそう思っていたのである。
「わかりました。たぶん七時半頃になるかと思いますけど、また連絡します」
「ああ」
「じゃあ、お言葉に甘えて。私、着替えてきますね」
「……なまえ」
「はい?」
なまえが揚々とキッチンから出ようとした矢先、赤井はとっさに彼女を呼び止める。そして、微笑みながら言うのは、今日の服装のこと。
「今夜は緋色のワンピースで頼むよ」
赤井は満足げにそう言うと、彼女の頭をまるで子どものようにぽんぽんと撫でて、先に納戸へ向かうためにキッチンから出て行ってしまった。その背中をなまえはぼうっとした熱っぽい視線で見送る。……にしても、緋色のワンピース、か。ドレスコードを言い渡されるなんて、まさか、こんな普通の日に高級ディナーに連れて行かれるわけもないだろうし。となると、彼はなまえの持つワードローブの中で、あのワンピースがよっぽどのお気に入りらしい。そう思うと、彼女はちょっとだけ嬉しくなる。自分も気に入って買っただけに、それが他人にまで気に入られているとなるとつい嬉しくて、思わずひとりでにこりと微笑んでしまうのであった。
階段を上って自室に入り、クローゼットからさっそく緋色のワンピースを取り出して着用しようと思った。しかし、そういえばと充電器に差し込んだままで着信の有無を確認していなかった携帯電話がベッドの上で置き去りになっていることに気がついて。先に通知を確認しておこうと手に取ったとき、久しぶりに世良からのメールが届いていることに気づいて指を止める。その内容は些細なものながら、なまえにとっては衝撃的ものだった。
『蘭くんたちと一緒に森林浴をしに長野の森の中にある貸別荘へ行くんだけど、なまえさんもよかったら一緒に来ないか?』
長野。思わぬところから舞い込んできた誘いに驚いて、なまえは服を着替えるよりも先に気づけば世良の番号に電話をかけていた。
長いコールがじれったかった。朝という時間を踏まえれば致し方がないはずなのに、そんな配慮をする余裕さえなくなっている自分がいる。なぜなら、長野には大好きだった諸伏の「兄」がいるから。友人である佐藤美和子からその話を聞いてからなまえはひとりでそこへ行く機会を伺っていたのだが、誘われたとなれば心強い。指先に込める力を強めて、不安な表情のまま世良が出るのをひたすら待つ。
一度、切ろうか。焦らされすぎてそう思った矢先、聞こえてきたのは回線が繋がる音。声の主は、今まさに起き抜けの様子だった。
「……あー、もしもし。なまえさんか?」
「もしもし、世良さん!?」
「ふわあ……、随分早起きなんだな。ボク、今、この電話で起きたよ」
「ごめんね」
「ううん。それより、電話をかけてきたってことはメールを読んでくれたってことだよな?」
「ええ。誘ってくれてありがとう」
なまえはひとまず礼を口にすると、はやる気持ちが抑えられずに、壁にかけたカレンダーを見つめながら世良に尋ねる。
「それで、長野にはいつ?」
「再来週の週末だよ。もしかして仕事か?」
「うん。でも、休むから平気」
「え、そんなことして大丈夫なのか? ……まあでも、なまえさんがそうしたいなら別にいいけど……」
仕事熱心なイメージのあったなまえが思いがけず易々と発言した「休む」という言葉に関して、最初は世良も釈然としない様子であったが、一緒に行けるのであればとすぐに気を持ち直したらしい。そして、蘭くんと園子くんと、コナンくんも一緒なんだ、と言うと彼女らしい屈託のなさで笑った。
そんな嬉しそうな世良を、なまえはまるで利用するようで良心が痛みながら、告げておかなければならない自分の同行条件について彼女にきっぱりと言い放つ。山間の多い長野で森林浴とはとても素敵だが、自分にはそれよりも優先したい予定があったのだ。
「でもね、世良さん。私、そこへ行くのは運転手としてでもいいかな?」
「え?」
「どうしても長野で会わなくちゃいけない人がいて、その人のことを訪ねたいの。だから、君たちを送って行って、私とはそこから別行動。帰りにはまた必ず迎えに行くから」
世良は当然、その発言について驚いていた。しかし、なまえのあまりにも緊迫したような口調からただ事ではないと察し、年上の彼女に向けて持てる精一杯の包容力で返答をする。
「別に構わないよ。一緒にその貸別荘に泊まれないのはちょっと残念だけど」
「ありがとう」
「でも、なまえさん。ひとつ聞いておきたいんだけど」
「?」
めちゃくちゃな条件を言っているということは自分でもわかっていたのに、了承の返事が返ってきたことになまえは安堵していた。しかし、そんな彼女を慕う世良は、慕うからこそ、どうしても探偵としてなまえに問わねばならないことがあったのである。
「……その、会いたい人って危ない奴じゃないよな?」
「え……」
「なんか、さっきからずっとなまえさんの声が切羽詰まってるみたいに聞こえるんだ。ボクの探偵の勘ってやつなのかもしれないけど、なんか、ちょっと心配かなって」
なまえはそこでようやく自分の気持ちが早りすぎていたことについて恥ずかしく思った。しかし、心配してくれた世良に返すのは、心から感謝の気持ちを示すようなやわらかい笑みである。
「ううん。危ない人なんかじゃないよ」
「……」
「大切な友達の、お兄さんなの」
そう言ったなまえの脳裏には、今朝、夢に見た諸伏の博愛的な表情があった。卒業式の日に、かつて一度だけ会った彼の兄。確か名前は諸伏高明。『二年A組の孔明くん!』のモデルとなった人物である。なまえは自分が彼に会わなければならない運命にあると、彼の存在を思い出したときからずっと思っていた。そして、その念願がようやく叶う。
危ない人ではないと聞いて安心した世良との電話を切った後、なまえは次に、とある場所の番号を調べて電話をかけた。突然の電話を不審に思われて相手に邪険に扱われるようなことがないように、とっかかりとして監察医だと名乗った方がいいだろう。嘘には当たらないし、もしかしたら、相手も同じく自分の存在を思い出す要因になるかもしれないから、と。
「……すみません。私、東都監察医務院で監察医を務めております工藤という者ですが、そちらに諸伏高明警部はいらっしゃいますでしょうか?」
case91. 空白を追いかけて
その日の仕事は自分の見立て通り七時半には終わって、なまえは医務院の入り口付近にて迎えに来てくれるという赤井の到着を大人しく待っていた。場所が場所だけにそうは見えないかもしれないが、格好的にはこれから意中の相手とデートに向かうOLのように見えるだろう。退勤後にほどいて少し癖ついた髪ですら、緩やかなウエーブをたくわえているようで艶めかしい。
待っている間、なまえはスマートフォンのカレンダーアプリで変更があった自身の予定をさっそくリスケしていた。仕事の予定を無理やり開けた弊害は、どうやったって出てしまう。しかし、そんなことはこの際どうだっていい。
二週間後の、週末。この二週間さえ乗り切れば、また自分は一歩、確実に真実へと近づけるという確信があった。所長にはもう休暇届を出したし、東京から乗るレンタカーも手配済み。本人と直接というわけにはいかなかったが、長野県警の他の刑事を経由して諸伏警部と会うアポイントも取れていた。いざとなれば適当な事件をでっち上げ、捜査協力をこちらから依頼するというビジネスライクな話で対応しようと思っていただけに、その嘘がお蔵入りになったことはひとまず安堵する。
諸伏高明。高校時代の友人であった諸伏景光の実兄である彼になら、さすがに音信不通になってしまった景光の行方について何か知っていることがあるだろう。警察学校を出てすぐに配属された場所も。空白の期間も。知っていることはどんな些細なことでもいいから聞いて、六年前から消えた彼の影を追いかけたい。たとえ、何かトラブルがあって警察をやめていたとしても、彼が元気ならそれでよかった。
「元気なら……」
そうひとりごちたなまえの脳裏には、嫌が応にも今朝の儚い夢がちらついてしまっていた。今になって『ゼロのこと、よろしく頼むよ』と、夢でそう伝えたかった彼の本心は一体、何なのだろう。それを思うだけで、途方もなく嫌な予感がする。なまえはつんとした目頭をとっさに押さえて、泣きそうになる自分を堪えた。そして、あの笑顔にもう一度会うことを堅く胸に誓う。当然、降谷も一緒に。
そうこうしていると、穏やかな運転を見せる見慣れた一台の車が医務院の駐車場に入ってきた。スバル360。運転席に乗るのは当然、赤井の外向きな姿である沖矢昴である。
「待たせたな、お姫様」
「昴くん……」
「さあ、早く乗れ。時間がぎりぎりなんだ」
彼はそう言ってなまえを急かすと、赤井より幾分かやわらかい表情で笑う。でも、時間がぎりぎりって。予約でもしているのだろうか。なまえは何が何だかよくわからないまま、助手席に回り込んで車に乗った。聞けば八時に予約済みなのだと言う。どんな店かは教えてくれない。
そういえば、誰かにここまで迎えにきてもらうのは、いつかの雨の日の安室以来のことであった。赤井に沖矢として来てもらうのは初めてで、少し緊張しながらシートベルトをする。そして、どこに行くんですか、と問えば、彼はまたも余裕の笑みでこう告げた。
「死ぬほど美味いと聞いてるが、俺も行ったことがないから楽しみなんだ」
「死ぬほど……?」
「着いてからの、お楽しみ」
彼はそう言うと、シガーソケットを抜いて咥えていた煙草に火をつける。その動作はゆったりとしていたのに、踏み込んだアクセルは強いエンジン音を立てて走り出すから少しびっくりした。
一体、誰曰くの話なのだろう。職業病のように悶々と行き先について推察してしまうなまえを横目に、沖矢は上機嫌で目的地へと車を走らせるのである。