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七百メートル先、目的地周辺です。運転、お疲れさまでした。そんな明るい声のアナウンスとともに長らく旅をともにしてきたカーナビのルート案内は終了し、なまえはフロントガラス越しにその「目的地」である長野県警本部の白い建物を見上げた。東京から出発して実に約三時間半。途中、世良たちを山奥の貸別荘付近で降ろすために寄り道はしたものの、それ以外はほぼノンストップでとうとうここまでやってきてしまっていた。普段はバイク党故に慣れない車の運転で多少の疲労もあるが、それよりも今はやはり興奮の色が強い。何度も気持ちを落ち着かせようとあの手この手で考えを巡らせていたが、結局、心境的に整理をつけられることはなく、よくわからないくらい雑多な思いを抱えたまま、ここまで来てしまったように思う。
ナビ通り直進するために最後の信号待ちをしていると、ちょうど反対車線からも数台のパトカーが同じように信号待ちをしているのが見えた。そういえば、この県に入ってからよくパトカーを見かけるような気がする。何か事件でもあったのだろうか。それとも、諸伏警部に会う約束をしているからこそ、自分の目が自然と警察車両に引かれてしまうのか。その理由は定かではないが、パトランプをつけて交差点内に侵入しないところを見ると、あまり緊急な要件ではないのだろう。なまえはつい職業病のようなそんな推理をしてしまい、自分で自分に呆れているうちに信号が変わってアクセルを踏み込んだ。
時刻はちょうど真昼時。約束の時間が十二時指定だったことと、指定場所が警察本部であったことを踏まえれば、おのずと彼が昼休憩の時間を割いて自分に会うつもりにしてくれているのだろうということは察しがつく。ちょうどお腹も空いてきたので、友人の兄と食事をしながら話というのも悪くない。そんな風に肯定的に思いながら、ここに来るまでに数軒ほど見かけた信州蕎麦の店を想起して「美味しそうだったなあ」とぼんやり思う。
「でも、なんか。今日はパスタの気分……」
呑気にそうひとりごちながら、なまえはウインカーを出して駐車場へと入っていった。まさか、その昼食を食べ損ねることになるとは知らずに。
case94. 十五年前の惨劇
一歩足を踏み入れた県警本部内は何やらとても慌ただしかった。仕事ではよく都内の警察署に出向く機会もあるが、なかなかここまで騒然としていることも珍しい。フロア正面の受付でアポイントを取っていることを告げればいいだけの話だったのに、そこに行く途中の廊下で屈強な刑事らしき男たち数名とすれ違って、なまえは思わず身を細くして気まずくかわすくらいには圧倒されてしまう。そして、すれ違いざまに複数回聞こえてきた「会見」という言葉を不審に思いながら、突き当たりのカウンター内に座っていた女性の受付員に声をかけた。
「すみません。十二時に諸伏高明警部と約束をしている工藤と申しますが」
「少々お待ちください」
そう言ってぺこりと頭を下げた彼女が内線で電話を繋ごうとした、その矢先。廊下の奥からまるで怒声のような大声が突然聞こえてきて、なまえは思わず、そちらの方を向いて固まってしまう。
「でもやっぱりおかしいだろ! どうして事件から三年も経った後、沼の傍で凶器の包丁が発見されるって言うんだよ、コウメイ!」
「!」
「では敢助くんは、今回出た嶽野のDNA鑑定がまがい物であると?」
コウメイ。なまえはその名を聞くや否や、反射的にその声のする方へと飛び出すように走り出してしまっていた。受付の女性がとっさに制止の声をかけるのもまったく耳に入らないほど、不乱に。
そんな特徴のある名前で呼ばれている人物は、なまえの中で間違いなくひとりしかいなかった。高校の卒業式。初めて会った親友の兄が、その名を自分のあだなとして口にして自己紹介してくれたことを思い出す。姓は諸伏。名は高明。あだなは音読みでコウメイ。新一から返却してもらった『二年A組の孔明くん!』のモデルになった人物に相違ない。
夢中で走っていたなまえの目にはやがて、髪をひとつに結わえ、杖をついて不自由そうに歩くひとりの男性の後ろ姿が見えた。そして、その隣で歩調を合わせるように歩いているのは、すらりと品のいい紺色の背広を身にまとった長身の男。なぜか顔も見ていないのに、その人物の後ろ姿が最後に会った景光と胸が詰まるくらい重なって見えて。なまえは間違いなく彼こそが自分の約束した人だと思い、そのスーツの裾を強く握って呼び止める。
一方、さすがにその行動は長野県警随一の頭脳を持つ諸伏高明であったとしても予想だにできず、突然の出来事に驚いて息を飲みながら振り返った。しかし、もっと驚いたのはその女の顔を見てから。すがるように自分を呼び止めた彼女の表情が、壊れそうなくらい切なげに眉根を寄せて今にも泣き出してしまいそうだったからである。
「諸伏高明警部ですか!?」
「君は……」
「お電話させていただいた工藤なまえです。十一年ぶり、でしょうか……」
全速力で走ったためにほんのりと染まった頬。上下する華奢な肩。しなやかに流れる長い髪。会うのは彼女の言う通り十一年ぶりのはずなのに、それだけの面影が揃っていれば、たとえ名前を聞かなかったとしても彼女が誰なのかは一目でわかる。
ふたりの将星から一心に寵愛を受けていた麗しき彼らの姫君。そしてその将星のうちのひとりが、自分の実の弟であることは高明にとって言わずものがなの事実なのであった。
「おい、コウメイ! 聞いてんのか……って。こんな大事なときに誰としゃべってんだよ」
「ああ、紹介します。彼女は……」
「んなことよりも、十五年前に赤女に切りつけられた制服警官のヤメ刑が今勤めてるパチンコ屋に行って、会見前にこのヤマ、きっちり俺たちで解決させるぞ!」
荒々しい口調でそう言って、不躾にもなまえのことを切り捨てたその男性は、どうやら高明と同じく県警本部で勤めている刑事のひとりらしかった。負傷しているのは足だけではなく、左目のあたりにも大きな傷があって、隻眼。まさに傷だらけな印象を受けるが、なまえは高明と約束していた時間にも関わらず、彼らが聞き込みに行ってしまいそうになっていることが気になって、つい、伺い立てるように声をかけてしまう。
「あの、約束の時間は確か十二時だったかと思いますが……」
「ええ、それは重々承知なのですが、実は君から電話をもらった二週間前と今とでは、県警の状況が一変してしまいましてね」
高明は申し訳なさそうに謝ると、なまえに軽くその理由について話を始めた。なんでも十五年ほど前に起こった殺人事件で、逃走した犯人の女のDNAと、その三年後に同県山中の底なし沼から発見された白骨化した死体のDNAが、つい一週間前に一致することが判明したばかりなのだという。鑑定が遅れた原因は、その犯人が犯行前に自宅に火をつけて自身の痕跡を一切隠滅したことと、唯一の望みであった彼女の母親が長年に渡って娘の罪を真実として受け止めきれずに彼女の臍の緒を生涯隠し持ち続けていたからであるらしい。その母親が死んだことでようやく今回、鑑定に踏み切り、結果が出たのが先週中頃。そしてその事実を明日、マスコミに向けて発表するのだと彼は言った。当時、その手口の残忍さと、痴情のもつれから起こったというセンセーショナルさは連日かなり過激に報道されて相当な話題となっていたらしく、長野県警は慣れない記者会見の準備に追われて、そのせいで騒然としていたのだということはなまえの想像にも足る。
「その事件ならうっすらと覚えています。確か夫が浮気相手と不倫中に現場に踏み込んだ妻が精神的に錯乱し、その夫を滅多刺しにして……彼女の着ていた白のレインコートが真っ赤に染まるほどの惨殺事件だったとか」
「よくご存知ですね」
「その夫を解剖した先生の文献を読んだことがあります。とても凄惨な事件だったので」
「そうでしたか……」
高明はなるほどと相槌を打つと「なので、あいにく時間が取れそうになく」と申し訳なさそうに続けて肩をすくめる。しかし、なまえはその話の腰を折るように得意の推理でその事件の不審点について口にしてしまうのであった。
「でも、やっぱり変だと思いますよ」
「え?」
「先ほどあなた方から漏れ聞いた情報だけしか私の手元にはありませんが、凶器の包丁はその死体が発見された沼の中からではなく、その傍に落ちていたわけですよね。だったら、逃走した犯人が沼にはまって抜け出せずに死んだと仮定して、どうしてその包丁だけが沼の外にあったのでしょうか? 落としたにしても、警察が当時、くまなくその周辺を探しているはずですし、三年も経ってから見つかるというのはやっぱり彼の言う通り不自然な感じがしますけど」
なまえはそう言って傍にいた深手の刑事を見つめる。普通なら、顔見知りであるはずの高明の言うことに肩を持っても不思議ではないのに、彼女はいたっていつも通りの冷静さを放って、よく知りもしない刑事の方に肩入れして推理したのである。これにはさすがの高明も、そして彼女から視線を配られた深手の刑事、大和敢助も困惑して互いに顔を見合わせた。特に大和の顔には「何者だ、この女」という言葉が書いて見えるようで、高明もその問いにはすぐに答えられずに沈黙している。
そのなんとも気まずい雰囲気にようやく気づいたなまえはふと我に返り、取り繕ったような笑みを見せて「気にしないで」と彼らに両手を振った。
「あ、いえ。すみません。出すぎた真似を……」
「敢助くん」
「あ?」
「申し訳ありませんが、やはり彼女も一緒に連れて行きましょう」
「はあ!?」
「えっ……?」
「国内最大規模の行政解剖機関である東都監察医務院で優秀な監察医をなさっている彼女になら、かの少年のように何か我々にとって有益な助言があるかもしれませんからね」
そう言って優しく微笑む高明に、なまえはやはり景光の影を見てしまう。しかし、次の瞬間には彼女は努めて勝気にもその目の色を変えた。それこそ、血は繋がっていないものの優作から受け継いだ探偵の性の一部なのかもしれない。
「それに、おそらく今日明日は我々にとって息をつく暇もなく忙しくなるのは必至。彼女を同行させていれば、多少手が空いた合間にでも約束していた通り話ができるでしょうから」
「……勝手にしろ」
「許可も得たところで。さあ、なまえさん、行きましょうか。パトカーではないので安心してください」
なまえはまるで高明に導かれるように背中を押されて、再び入り口の方までおずおずと歩いていく。
にしても、先ほど彼が口走っていた「かの少年」って。なんだかとてつもなく知った人物のような気がするんだけど、と。なまえはそう思いながら、長野県警の刑事ふたりとシトロエンCXに乗り込んで思いがけず十五年前の惨劇を追うことになったのである。