95...


 高明が運転するシトロエンCXの後部座席で大人しく座っていたなまえは、車窓から流れていく長野の街の風景を眺めながらじっと過去のことを回想していた。高校二年生に学年が上がってから、しばらく経ったある日。ひょんなことがきっかけで、なまえは自分が孤児であることと、もともと工藤家とは何の血の繋がりもないことを話の流れから打ち明けたのは、当時、委員会で不在だった降谷にではなく景光が先だったのである。別段、それまで聞かれなかったから言わなかっただけの話で、ふたりに秘密にしていたわけではない。それに、自分にとってはもう気持ちの折り合いもついていて、今さら彼らの同情を引くかもしれないと恐れるほどのことでもなかったはずなのに、彼はその話を聞いた途端、猫みたいな目をさらに丸くして。それから、まるで彼女の気持ちにそっと傍らで寄り添うように自分と実兄の複雑な境遇について初めて話をしてくれたのである。その話題には、ある種、救われた思いを抱いたことは確かで。なまえはそのとき、いっそう景光のことが大好きになった。もちろん、ひとりの友人として。

 以降、彼は時折、長野に行ったときのことや、その兄とやり取りした手紙の内容のことなどを詳しく話して聞かせてくれた。その話をしている間、景光はいつも嬉しそうで。だから、もしかしたら。今、なまえが見ているこの景色も彼がかつて見たものなのかもしれない。そんな風に思うと、目に映る景色すべてが途端に大切なものに思えて、そして途方もなく泣きたくなった。

 ねえ、ヒロ。どこに行っちゃったの。なんて。なまえは曇天の空に問いかけながら、癖で組んだ手を祈るみたいに胸元に掲げる。


「おい、コウメイ。あの女、一体、何者なんだ?」


 そんななまえをバックミラー越しに一瞥した大和は、まるで不審なものでも見るように彼女を見つめて、運転に集中している高明の横顔に声を潜めて話しかけた。思い起こされるのは、先ほど本部署内で見せた圧倒的な彼女の推理力。微かに自分たちの話を漏れ聞いただけで、あそこまで一部外者の女がこの事件に関して自分と同じ違和感を持つなんて。よっぽどの鬼才だろうか、と考えた瞬間、頭をよぎるのはひとりの少年のこと。まるですべてを見透かすような恐るべき才能を持つ人間はふたりといないとまで思ったが、それはどうやら早計な見当違いだったらしく、大和は珍しく背後の女に対して一目を置いていたのである。

 高明はそんな彼を横目に見て、そして同じくバックミラー越しに今も何かに対して懸命に祈りを捧げているなまえの姿を目視した。いや、実は高明がなまえを見ていたのはこの車に乗ってからもう何度目かになるのではあるが、一貫して曇った表情にしか映らない彼女のことをかなりの危うさがあるとして不安視していたのである。

 弟の卒業式。そのとき初めて出会った彼女は確かもっと明るくて、快活そうに見えた。そして何よりも、かつて弟が楽しげに話を聞かせてくれたその人物像からは、光のようなまばゆい女性だと思っていたのに。見目には面影も残っているが、この十年余りで彼女を包み込む色は灰へと変わり果ててしまったのかもしれないと思う。

 そして、それはおそらく景光のせいで。


「弟の大切なご友人ですよ。監察医だそうですが」
「俺はつい、お前がさっき口走った『かの少年』っていう言葉で思い出しちまったよ。顎に手を置いて考え込む動作とか、ちょっとした挙動が、あのボウズにそっくりだってな」
「確かに」


 そう頷き合ったふたりの脳裏には、同じく眼鏡の少年が思い起こされる。以前、まだ高明が新野署の所轄にいた頃、死亡の館の事件の際に初めて出会った不思議な少年、江戸川コナン。それより以前に出会っていたという大和に言われるまでもなく、なぜかあの少年と彼女が重なって見えてしまうのはどういう因果だろうかと高明は訝しむ。

 そのことについて彼が深く考え込んでいるときに、突如、大和の携帯電話がけたたましく叫ぶように鳴り出した。画面を確認した彼は「上原か」と呟いたかと思うと、着信ボタンを押して応答する。


「俺だ。どうした?」


 そう言って電話を取る大和は、後輩である上原から報告を受けた内容についてひと呼吸置いてから荒々しい口調で聞き返した。


「ああ? あの底なし沼の付近の貸別荘で、男が殺されただと!?」
「!」
「ああ、こっちはまだ聞き込み先にも到着してねえよ。終わり次第コウメイとそっちに向かうが、初動は上原、お前に任せる」


 その話を聞いていたなまえはやや嫌な予感がしていた。何かと事件に巻き込まれやすい体質の弟とその友人たち。向かった貸別荘付近に底なし沼があるという話は聞いていないが、あの獣道を見ていればたとえ道の先に沼があったとしても不思議ではない。

 殺されたのは男性だということで、彼らのうちの誰かが被害にあったというわけではないらしいというところにだけ、不謹慎ながら今はほっと胸を撫で下ろす。なまえは大和が電話を切るなり、後部座席から身を乗り出して恐る恐る彼に問いかけた。


「すみません。今の電話ってもしかして……」


 なまえはとっさに世良たちを降ろした、長野県内の山の名前を口にした。まさかその山で事件じゃないですよね、と。すると、大和と高明はまたも驚いたように顔を見合わせ、どうしてそのことを、と尋ね返すのである。


「実は今日、県警本部を訪ねる前に、知人の子達をその近辺で降ろしたんです。貸別荘に向かうと言っていましたが、その現場かどうかは私には……」
「いや、その可能性はかなり高いでしょう。あのあたりは最近、赤女が出るという噂があって別荘を借りる人間もほぼ無に等しいらしいので」
「? でも赤女はとっくの昔に底なし沼で死んでいたはずでは?」
「ええ、ですがその噂のせいで我々もDNA鑑定が出るまでははっきりと断定できなかったんですよ。周辺の貸別荘では確かに人が住んでいた形跡が最近まで残っていましたからね」


 まあ、沼から見つかった白骨死体が赤女と呼ばれた犯人の嶽野駒世であるということは、その臍の緒のおかげで先週判明したので、こうして被疑者死亡として処理しようとしているわけなのですが。と、そうつけ加えるように高明が言った台詞に、むっとするような反応を見せたのは助手席の大和。どうやらそのあたりに彼らの意見の衝突があることは先ほどから見て取れるが、なまえはやはり深く考え込む。

 今しがた起こったという男性の殺人事件はさておき。十五年前の事件に関して、気になる疑問点は次のふたつ。ひとつめは事件から三年経って沼の中ではなく傍で発見された凶器の包丁のこと。そしてもうひとつは、最近まで誰かが住んでいた痕跡が残る貸別荘の話。このふたつからおのずと導き出せる答えは、恐ろしいことではあるがなまえの脳裏にはひとつしか思い浮かばない。

 その森に、赤女ではない別の第三者がいるのではないかということだ。


「心配ですか? その知人が」
「え?」
「しかし、まだしばらく捜査には付き合っていただきますよ。聞き込みが終われば、我々も至急、現場へ向かいますので」


 そう言って、高明は気を使ってすまなさそうに釈明をする。だが、なまえは初めて彼に軽い笑みを見せて大きく首を横に振った。


「いえ、事件は私の知人に任せておけば勝手に解けてしまうと思うので」
「?」
「私の知人は、実は敏腕な探偵なんです」


 それもふたりね。そう言って笑ったなまえの表情は、ようやくと言っても過言ではないほど、高明が見たかった十一年前の笑顔と同じであった。



case95. 「赤」にまつわる殺人事件


 なまえの嫌な予感は見事に的中し、世良たちが出向いていた貸別荘内では無残にも殺人事件が起こってしまっていた。

 亡くなったのは薄谷昌家。二十八歳。世良の真ん中の兄の高校時代の同級生で、今日はその友人たち四人で毎年訪れていた貸別荘に「とある目的」で世良たちを呼んだのである。その目的とは彼女が当初うそぶいていた森林浴などではなく、実はこの周辺の貸別荘全体で起こっている「赤」にまつわる怪奇現象を兄の代理で解決するためであった。しかし、その怪奇現象を解明する前に彼らの目の前で堂々と殺人事件が起こってしまったのである。それも「赤」にまつわる殺人事件が。

 犯行は昼食後。彼らが毎年、恒例的に行なっているという分業での家事をそれぞれにこなしていたとき。トイレと風呂場の掃除を担当していた被害者は、その最中、何者かによって頭部を鈍器で殴られ、彼が持参したというまさに底が見えなくなるほど真緑に染まるバスソルトを入れた湯の中に、重りごと沈められ、溺死させられたのだという。「赤」にまつわる点とは、その緑の湯一面に所狭しと浮かんでいた無数の赤いトマト。蘭と園子、それから彼の高校時代の友人であった河名澄香が入浴しようと浴室に立ち入ったとき、そのトマトが波面を覆い隠すように薄谷の死体を隠し尽くしてしまっていたのである。緑と赤のコントラストが背筋を凍りつかせるほどの不気味さを放ち、まさに赤女の仕業を思わせるような殺人事件であった。

 長野県警捜査一課の刑事で、この事件の初動捜査の指揮を任された上原由衣は部下から詳しい報告を受けつつ、現場となった風呂場を一瞥し、一度外まで被害者の遺体の送致を見送ると、気になったことを彼に尋ねた。


「あの風呂場の血、ガイシャの?」
「ああ、いえ。あれはこの別荘に来ていた少年のものでして……」
「少年?」


 首を傾げた上原が別荘内に再び踏み入ると、そこには鼻にティッシュペーパーを詰められた見知った顔の少年と、それを気遣う姉のような存在である毛利蘭の姿が意図せず目に飛び込んできたのである。


「あなたたち……! っていうか、コナンくん? どうしたの、鼻血?」
「あ、うん……遺体見てびっくりしちゃって……」


 そう言って照れたように頭を掻くコナンを、傍にいた園子は鼻を鳴らしながら「本当は蘭のヌード見て興奮したんじゃないの?」とからかう。実は入浴しようとしていた第一発見者の蘭の体に巻いていたタオルが動揺とともに取れて、意図せず全裸を見てしまった彼は鼻血を吹いて倒れてしまったのである。なので、ぶっちゃけると園子の言う通りなのだが、今はその話をよそう。


「にしても。どうする、蘭? 一応、なまえさんに連絡入れとく?」
「うーん……せっかく会いたい人に会ってる頃だろうから、今はもう少し様子見しといた方がいいかもね? なまえさん、心配するとすっ飛んで来ちゃいそうだし……」


 すると、その会話を聞いていた上原が、ふと気づいたように聞き返す。


「なまえさんって、もしかして工藤なまえさんのこと?」
「え? 上原刑事、ご存知だったんですか?」
「私たち、なまえさんの車でこの貸別荘まで送ってきてもらったんです!」
「そうだったの……。あ、いえね? 直接、彼女に会ったことはないんだけど、二週間ほど前にそのなまえさんって人からうちの署に電話があったのよ。諸伏警部にアポイントを取りたいんですけどって」


 その話を聞いていたコナンは驚き、そしてとっさにピンとくる。いつかなまえに『二年A組の孔明くん!』という本の所在を聞かれたことと、そして彼女が言った「運命の鍵を握る人」という言葉。そのふたつの点が一本の線で結ばれるように、その小説の登場人物のモデルとなった諸伏高明警部に彼女が「運命の鍵」を見たのだとわかったからだ。


「なまえ姉ちゃんが諸伏警部にアポイントを取ったって本当!?」
「ええ。なんだか、とても深刻な話があるみたいだったけど……」


 間違いない。なまえは諸伏警部と以前から知り合いだったんだ。それも、自分の知らないところで。コナンはそう思い、殺人事件そっちのけで姉の不可解な行動について考え込んでしまう。なまえといえば、今朝その関係性を尋ねたバーボンこと安室透との仲も怪しい。その三人が共通としていることは何かと考えるも、今はその答えを出せずにいた。

 一方、なまえが会う予定にしていた人物が自分の顔見知りであったことに安堵していた蘭は、ひとりごとを言うように「諸伏警部だったんだ」と呟いた。しかし、その話を横から聞いていた園子は、いつもの悪い癖を発揮するように、蘭にこんなことを尋ねてしまう。


「ねえ、蘭。その諸伏警部って、ぶっちゃけどう?」
「どうって?」
「雰囲気よ、雰囲気。何歳ぐらいかとか、イケメンかとか、あるでしょ?」
「えー? うーん……切れ長な目が特徴的で、あと口ひげがあって……ちょっと言葉遣いは難しいけど三十代中頃くらいの、感じのいい刑事さんだよ?」
「おやおやぁ? だったらなまえさん、またラブの予感じゃない!? 昴さん危うし! なんちゃって!」
「もう、園子。すぐそんなこと言うんだから」
「ベルツリーのときの安室さんみたいに、なまえさんのこと颯爽と連れ出しちゃったりしてね?」


 園子はそう言うとくすくすと楽しそうに笑っている。しかし、そんなことを言われて気が気ではないのは、蘭ではなくコナンの方であった。諸伏警部が安室ほど怪しいかと言われれば全然そんなことはないのだが、曲がりなりにも彼氏持ちの女が妙年の男とふたりきりで会うのはまずいだろ。そんな風に思い、鼻血を抑えるために不恰好にも鼻紙を詰めたままの顔を焦らせて、急いで姉に釘を刺すようなメールを打つのである。

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