96...
聞き込みに向かっている途中、長野県警の刑事ふたりが少し休憩にと立ち寄った幹線道路沿いの休憩スペースの前で、相変わらず車内で待機していたなまえはコナンから届いたばかりの長文メールにざっと目を通していた。その冒頭では、やはり彼らが今いる貸別荘内にて殺人事件があったことが書かれていたものの、一番危惧していた蘭たちの無事を報告するような内容がきちんと記載されていたことに安心する。しかし、後半に進むにしたがって、なまえが今朝言った「運命の鍵を握る人」というのが諸伏高明警部であったということを彼はどこかで知り得たらしく、ねちねちとそれを指摘して注意を促すかような内容に変わっていくのが実に嫌悪の対象で、姉としては相当頭が痛くなる。なまえは隙がありすぎる、だとか。赤井さんはこのこと知ってるのか、だとか。どうして二十九歳の成人した女が未成年の弟にここまで過保護にされなくてはならないのか。ついそんなことを思いつつ、ご忠告どうもありがとう、というひたすら可愛げのない一文だけで返事をしておく自分もまた子どもだなと思い、なんだかおあいこの姉弟のようでちょっと笑ってしまったのであった。
思った通り、さきほど高明が口走った「かの少年」という言葉が、自分の弟であるコナンのことを指しているのだということは今のメールの文章から見てもよくわかった。彼らはおそらく何らかの事件で顔を合わせ、弟はその類稀なる知恵と推理力を高明にも貸し与えたのであろう。世間とはどれだけ狭いのだろうかとなまえは大きくため息をつき、そして弟の巻き込まれ体質にもほとほと呆れながら携帯電話をポケットにしまう。
その姿を外から見ていた高明は、優しく彼女を気遣うように後部座席のドアを開けて自動販売機で買ったと思われる缶飲料を差し入れてくれた。なまえがそんな彼に驚いてぐっと言葉に詰まったのは、見上げたその表情が、一瞬、景光かと思ったほどよく似ていたからである。
「なまえさんはレモンスカッシュがお好きなんでしょう?」
そんな言葉とともに受け取ったのは好物の炭酸飲料、レモンスカッシュであった。きっとその話をしたのは彼の弟である景光だと思うが、なまえはそれを受け取りながら大事そうに抱えて礼を告げる。
「ありがとうございます……。これ、私の『ふるさと』なんです」
「その話も弟から聞いて知っていますよ。よく放課後の音楽室に集まって一緒に『ふるさと』を演奏したと」
「ええ。なんだか懐かしいな」
六前に彼らと音信不通になって以来、自分の過去のことを知っている者と思い出話をすることもなくなっていたなまえは、あまりの懐かしさに力なく笑う。高明はその切なげな表情を心配そうに見つめて後部座席のドアを閉めると、どさりと再び運転席へと乗り込んだ。
受け取った缶のプルタブを開けたなまえは、途端に車内に充満するレモンの甘酸っぱい匂いに、つい感極まりそうになっていた。レモンスカッシュにはたくさんの思い出が詰まっている。彼らとの出会いから卒業。六年前までのさまざまな出来事。そして、いつかレモンスカッシュを片手にほろ酔いで談笑した安室透との思い出も。
なまえは隻眼の刑事である大和が車外で眉間にしわを寄せながら誰かと電話している様子を一瞥し、まだ時間がかかりそうだと判断するや否や、運転席で沈黙していた高明に改めて話しかけることにした。
「今日はすみませんでした。お忙しいところ」
「いえ、こちらこそ約束していたにも関わらず、まともな時間が取れずに申し訳ありません。こうして事件にも巻き込んでしまって」
「いえ、それは全然。こんなことを言うの申し訳ないと思いながら、実は同行できてちょっと嬉しいんです」
「……?」
「だって今日、あなたにお会いしてから実は何度もヒロと重ねてしまって。まるで彼と一緒に事件を捜査しているみたいで、不謹慎ながらちょっと嬉しいな、なんて」
口では「嬉しい」と紡ぐ割には、またも切なげにそんなことを言う彼女を、高明はある意味で非常に不憫に思った。そして、そんな彼女に対して自分ができることがなさすぎて歯がゆさばかりが募り、できるだけその傷を刺激しないようにあえて深く言葉を選びながら話題を返す。
「あなたは弟から聞いていた通りの女性ですね」
「え?」
「思慮深く、相手のことを常に思いやる。自身の強さもあるが、儚さも同時に持ち合わせていて、とても賢い女の子だと。景光はいつも、そんな風に自慢げにあなたのことを語っていましたよ」
「……買いかぶりすぎです」
「いえ。現に、こうしてお会いした私もそう思っていますが?」
「……」
なまえは言葉が出なかった。けれど、高明はさらに追い討ちをかけるように身を乗り出して後部座席の方に振り返り、まるで包み込むようなひときわ優しい笑顔を彼女に向けるのである。
「弟があなたのことを好いていた理由がよくわかりました。なまえさんには他人を惹きつける不思議な魅力があるようですね。景光が私にあなたの話を聞かせてくれたとき、その顔はいつも決まって、あなたのことが愛しくて堪らないと書いてありましたから」
「!」
高明はもちろん、その話題でなまえを傷つけているつもりなど微塵もなかった。むしろ行方不明になった弟の思いを告げてやることで、彼女の曇った顔を懸命に晴らそうとしたはずの言葉だったのである。
だが、その話はなまえにとって、あまりにも鋭く切りつける残酷な刃となった。
なまえは今日、初めて彼の口から「景光」の名が出てきたことで、やはり彼らが実の兄弟であることを改めて痛いくらい感じとっていた。そして、実の兄弟であるからこそ、その話に信ぴょう性が生まれ、それが揺るぎない真実であると思い知る。……彼が語る景光に関わるすべてのことが、過去形で語られているというところも含めて。
景光がかつて自分のことをそんな風に見ていたとは、先日、夢を見るまで知らなかったが、高明の話を聞いてその夢がやはり自分の都合のいい解釈などではなく、景光自身が何かを伝えたくてなまえの夢に今さら登場してきたようにも感じられた。ずっと込められていた彼の視線の意味に気づけなかった自分が鈍感すぎて嫌になり、激しい苛立ちの原因となって、彼女は自身の呼吸の方法も忘れそうになるほど心を強く締めつけて苦しむ。組み締めた指が、紫に鬱血しそうになっていた。
一方の高明は、気を使って選んだその話題が逆に彼女の心をきつく苦しめてしまったことに気がついて言葉を失い、深い反省の色をその表情に浮かべていた。続けるべき言葉が互いに見つからず、車内には重苦しい沈黙が流れる。小雨が降り出してきたのか、車の屋根にはぽつぽつと雨がぶつかる音がして、まるで誰かが泣き始めた声のようにも聞こえた。
その折、空気を無視して静寂を破るように助手席のドアが乱暴に開け放たれる。乗り込んできたのは当然、電話が終わったらしい大和であった。
「悪ぃ! 上原から報告を受けていた」
粗暴な彼ではあるが、今だけはふたりとも彼に助けられたと思った。高明は気を取り直したかのようにわずかに微笑んで、彼に頷く。
「では、その話を聞きながらさっそく参りましょうか。当該のパチンコ店はこの先すぐです」
case96. 切りつける刃は雨をも裂く
大和によれば、今回の聞き込み相手は十五年前の事件で逃走した赤女を追っていたひとりの元警察官であるという話であった。彼は犯人を夢中で追いかけている間に、まるで誘われるように暗い森の奥深くへと入り込み、そして、ついに捕らえようとした瞬間、半狂乱になった女がなりふり構わず振り上げた包丁によって激しく切りつけられたのだという。幸い命に別条はなく、怪我の程度も軽いものであったが、彼はそれを機に警察を辞めて、この年季の入ったパチンコ店に再就職したということであった。
パチンコ店の入り口に掲げられたネオン看板の文字は電灯が切れかかり、建物はところどころ薄汚れてヒビが入るほどの老朽化具合であった。なまえはその外観と慣れない騒音に圧倒されつつも、心を強く持って入り口の前に彼らと立つ。車を降りる際、高明には「君は女性警官のふりをしてください」と言われていたので、心算だけは一人前にそのようにして。美和子のように都会の女刑事にはなれないまでも、一応、警察関係者として自分も刑事らしい立ち振る舞いぐらいはできるはずだと彼女は人知れず奮起していた。
店内に入るなり、ものすごい音の応酬と煙草の匂いが襲ってきて、なまえはさっそく顔をしかめてしまった。しかし、すぐに自分は刑事だと言い聞かせて店の奥に歩み寄る大和と高明に続く。奴だ。そう言った大和はある人物に目をつけると一目散に彼に近づき、まるで食ってかかるようにその男に話しかけた。
聞き込みを始めた大和の質問は確かに荒々しい口調ではあったが、内容としてはもっともなことばかりであった。しかし、相手は元警察官とは思えないほどのらりくらりと煮え切らない態度ばかりを見せ、一貫して淀むように目線を泳がせている。何かを隠している? 素人であるなまえの目から見てもそんな風に感じられたとき、ついに沸点の低い大和が男の胸ぐらを掴んで声を荒らげたのである。
「大体、おかしいだろうが! あんた、事件後に赤女を探して森ん中、くまなく調べたんだろう!? なんでそのとき見つからなかった包丁が三年後にひょっこり見つかるんだよ!」
男は途端に怯えていたが、それを見かねた高明がフォローするように口を挟んだ。
「それはきっと木の葉の下に隠れていたんでしょう。我々が見つけたときも、隠れていましたし」
「けど、事件から三年も経ってんだぞ? もっと包丁は錆びてんだろ、普通!」
「錆びにくい特殊な素材の包丁でしたから」
「にしてもだ。あんた、赤女に切りつけられた後、すぐに追っかけたんだよな? だったら赤女が逃げた先に底なし沼があったことはわかってたはずだろうが! なんでそのときに沼も探さなかったんだよ!」
大和の迫力に、男は今にも泣き出しそうな表情であった。そしておずおずと続けるのは、彼自身思い出したくなかったその当時の記憶についてである。
「す、すぐに追いかけられなかったんだ……こ、腰が抜けて……」
「何?」
「だって、あの女……包丁を投げつけてきたんだよ……! 返り血で真っ赤になった恐ろしい顔で……! そ、それがトラウマになって、自分は刑事を辞めたんだから……」
「!」
その話は、その場にいた全員が凍りつくほどの大きな衝撃を与えた。何故なら十五年前の事件の際、逃走の途中で彼が赤女に「切りつけられた」という話であったはずなのに、今の彼は確かに赤女から包丁を「投げつけられた」のだと言ったからである。これに含まれる大きな意味はただひとつ。切りつけたのではなく、投げつけたのだとしたら、その包丁を赤女がわざわざ警官の傍に寄って拾っている余地はないはず。
しかし、その包丁は後に沼の傍で見つかった。三年も経ってから、だ。
つまり、その包丁を拾って三年後に沼の傍に落とした別の「第三者」がやはりその場にいたということになる。そしてその人物が、高明の話し通り、最近まで勝手に周辺の別荘に住みついていたのだとしたら。
「おい……、ってことは……」
「ええ。恐らくは」
まずいことになったと、なまえでさえ思った。要するに、今もコナンたちがいる森の中にその第三者がいる。十五年前の事件において、唯一、その生死が語られていない人物。殺された夫の、不倫相手の女が。