124a...

 風見はその後できるだけ早く現場へと急行し、降谷と合流すると彼を助手席に乗せて車内から張り込みを続行することにした。途中のコンビニで購入したふたり分の軽食とコーヒー。それに加えて、なぜか珍しく社名まで指定されて自販機を探し回る羽目になってしまったレモンスカッシュの缶を手渡し、いつも通り味気ない昼食としてそれらを頬張りながら対象を注視し始めることにする。国内に鳴りを潜める反社会的組織は降谷が潜入している集団だけには止まらず、今日は別組織のリーダー格である被疑者の男を現行犯で逮捕できないか、公安の彼らが鋭く目を光らせて監視業務に当たっていたのであった。

 視線は一切前方から離さずに、無言のまま爪を立ててプルタブを開けた降谷は、風見が買ってきた食事に手をつけることもなく、それだけをひとくち含むように飲むとその甘酸っぱさをいつまでも舌の上で転がし続けていた。風見に無茶を振るがの如く、このレモンスカッシュが急に飲みたくなった理由はもちろん、昨日のなまえとのこと以外に他ならない。降りしきる雨の中、互いの誤解や齟齬を埋めてしまうような運命的な再会の後、降谷は初めて人前で涙をこぼしながら愛しい彼女と頭を寄せ合って、久しぶりに心から穏やかな気持ちで寝入ってしまった。本当に、夢みたいに優しい夜だった。

 そんな余韻に浸っている降谷には気づかず、風見は忘れないうちにポケットから当該の鍵を取り出し、彼に「どうぞ」と言って返却した。そして、自分がその鍵をもらうために東都監察医務院まで出向いていた間の被疑者の動向について尋ねてみようとする。しかし、それを受け取った降谷は、なぜか風見よりも先に質問を繰り出してきたのであった。


「それで、どうだった?」
「え?」
「彼女はどうだったかと聞いている」


 強い断定的な口調で質問をする降谷のその視線は、やはり風見に向けられることはなかった。ただ不乱に被疑者を見つめ続けるその瞳は、獲物を狩るような雄々しい肉食動物のようにも見える。いくら彼が整った顔立ちをしているとはいえ、その目で睨まれれば誰しもすくみ上がるだろうと思うほどに。

 しかし、正直に言って風見はその質問にかなり困惑していた。それは自分の、彼女に対する第一印象的なものを答えればいいのか。それとも、工藤なまえと何を話したかについて事細かに説明をしなくてはならないのか。一体、何と答えるのが上司にとっての正解なのか、まったくその要領を得なかったからである。


「ど、どう、とは?」
「……元気そうだったかとか、調子が悪そうだとか、いろいろあるだろう」
「ああ、そういうことですか……」


 それを聞いた風見はすぐに合点して、ついよからぬことにまで気を回して察してしまった。彼女の調子を気にしているということは、鍵の件からも察するに、どうやら降谷は昨晩、なまえに対して相当な「無理」をさせてしまったらしい。確かになまえの見立て通り、風見は一見すれば事務的な堅物ロボットのようにも見えるのだが、その実、本当の彼は年相応の独身・彼女なしの一般男性なので、人並みには合鍵のやり取りするような男女の間柄が羨ましくなったりもする。しかも、今まで名前と職業ぐらいしか聞いたことのなかった工藤なまえが、想像していた以上に美しい人物で。正直、これなら降谷が独占欲を剥き出しにして「不必要に話すな」と忠告してきた理由にも頷けた。彼の過去の女性遍歴についてはさすがに知らないが、おそらく今は相当、彼女のことが大切なのだろう。だから昨晩は思いの外、歯止めが効かなかったに違いない。……たぶん、そういう意味で。

 確かに降谷となまえは風見の目から見ても、どこをどう見てもお似合いにしか思えなかった。それは容姿的にも、性格的にも。どういう経緯があって彼らが合鍵をやり取りするまでの交際に至ったかは知らないが、強く惹かれ合うことがもはや必然だったのではないかと思ってしまうほどに。それに、降谷零という完璧な人間にここまで熱を上げて愛されれば、彼女はもう一生逃げることもできないだろう。ある意味、御愁傷様と彼女に対して思うくらいには。


「普段の彼女のことを知らないので何ともお答えしかねますが、特に変わったところは何も」
「そうか」
「まあ、どこも痛そうには見えなかったので大丈夫じゃないでしょうか」
「?」


 一方の降谷には、特にその後半部分の意味がよく理解できていなかったのだが、変わったところがなかった、という彼の主観的な話が聞けただけでもう満足だった。引き続き監視作業を続けながら、昨晩のことについて思い返す。

 昨日の、空白を埋めるような長い話が終わった後。降谷はいつの間にかなまえの肩に寄りかかったまま寝入ってしまい、ふと目を覚ましたときにはその距離が何とも近くて、不恰好にも思わずびくりと体が跳ねてしまったのであった。反動で彼女がふらりと倒れそうになるから、思わずその華奢な肩を捕まえて。そのまま壊れ物みたいに優しくベッドに寝かせてあげた、というわけである。しかし、よりにもよって自分の部屋、自分のベッド、自分と同じシャンプーの匂いに、さらには自分の服まで身にまとった彼女が、やけに妖艶に見えてしまったことは事実で。安室透として接近していたときよりも、はるかに緊張しているという、まるで高校時代のままのように初心な自分がそこにはいた。セックスに関しては、もうこの歳だし、組織に潜入している関係上やはり経験もある。一方の彼女の方も、結局その存在自体が振り出しに戻ってしまった謎多き大学院生に、何度か思い通りに抱かれていることだろうし。そう思うと、自分のことを棚に上げてまたも胸の内に激しい嫉妬の炎が渦巻いてくるから、今すぐにでも彼女のことを抱き潰してあの男から得たすべてを上書きしたくもなる。だが、ここで焦って嫌われる方が精神的には辛いだろう。降谷はそう思い直し、必死に我慢してその無防備な寝顔から視線を外した。

 それから降谷は指一本彼女に触れることもなくその場から離れて、落ち着くためにキッチンでコップ一杯の水を飲んだ。これ以上傍にいると本気で理性が飛ぶ。彼は真面目にそう思っていた。

 時刻はまだ五時すぎ。なまえと引き合わせてくれた強い雨もいつの間にか上がり、窓の向こうの空は既に美しい朝焼けと共に白み始めていた。典型的なショートスリーパーである彼にしてはなまえのおかげかとても熟睡できた朝だったので、残っている仕事を片づけるために超早朝出勤も悪くはないと明け方の空に思う。それに、これ以上ここにいても、理性との勝負ばかりで勝てる気がしないし、なんて。そんなことをちょっとだけ微笑みながら思って、彼女を起こさないように音も立てずに身支度を進めていく。そのうちに起きてしまったらしい眠そうなハロにもかなり早いが餌を与えて、なまえのことを任せる、と言えば了承したようにぺろぺろと手を舐められた。

 出かける寸前に戸締りのことを思い出して、手頃なメモ用紙に置手紙を書き、その横にわずかに緊張しながら合鍵を置いた。別になまえになら返却してもらわなくてもいいとは思ったが、まだ自分たちはそういう関係にはない。だから、そういった面で彼女に負担をかけるわけにもいかなくて、部下に取りに行かせる、なんて愛想のない言葉だけを書いておいた。本当は自分で行きたいところだったのだが、あいにく、当分の予定的にそれは叶わないだろう。

 本当は、ずっとこの家にいたっていいのに。降谷は鍵を眺めながら、馬鹿みたいに本気でそう思っていた。そうしたら毎日死ぬ気で仕事なんか早く終わらせて、暖かく出迎えてくれた玄関で彼女を抱きしめる。そして飽きもせずにキスを繰り返して、堂々と触れて、今まで寂しい思いをさせてきた分たくさん時間をかけて愛情を注ごう。公安のくせに犯罪じみているとは自分でも思うが、大げさな表現じゃないくらい本当は誰の目にも触れさせたくないし、ずっと閉じ込めておきたいくらいなまえのことが大好きだ。

 そのくらい本気なんだ。過去も今も、そして未来も。

 しかし、そうすることはできないということは当然ながらわかっていた。そもそも昨日の今日で和解しただけで、まだ恋人でも何でもない。それに、さすがに今日は彼女も帰らねばならないだろう。例の大学院生とまだ同居を続けているのかどうかはさておいて、彼との思い出がたくさん詰まった、あの家に。

 そう思うと、またもどうしようもない嫉妬に駆られてしまう自分があまりにも惨めだった。でも、以前なら指を咥えて見ているだけだったかもしれないが、今は気持ち的に全然違う。

 必ず、奪うよ。もう誰にも遠慮しない。

 降谷は指一本も触れないという弱い決心をさっそく崩して、出勤直前に彼女の寝顔を見つめるために今一度ベッド脇に近づき、その場でしゃがみ込む。そして、布団から出ていた彼女の細い腕を取って、その手の甲にまるで誓いのようなキスを落とした。それだけで、今は十分満たされたのだった。

 いってきます、と無防備な彼女に向かってそう呟くと、彼はくすりと微笑みながら家を後にした。その寸前には、気づくかどうかは賭けだったが置手紙のメモ用紙の裏に「0」という署名入りで別の文言を書き加えておいた。『僕の電話番号わかるよな? もう無視したりしない』と。それは彼にとって「電話が欲しい」という不器用で素直じゃない精一杯の言葉だった。

 親友の癖を習うかのように、胸ポケットに入れていた降谷零としての携帯電話。他の人とは変えているその着信音が、今となってはこんなにも待ち遠しいなんて。


「早くかかってこないかな」


 風見には決して聞こえないように、降谷は助手席でそう呟いた。けれど、監視していた被疑者が怪しい動きを始めたところで、完全に公安としてのスイッチに切り替える。そして同じく気配を察知して車から出ようとしていた風見に「三分だ」とかつての旧友の言葉を借りて檄を飛ばした。三分で終わらせるぞ、と。

 それはひとえに、彼女が住む愛しい国を守るために。



case124a. 自分の気持ちにいつも正直に


 しかし降谷の期待とは裏腹に、なまえはその電話が繋がることを理解していながらも、肝心のかける勇気がいつまでも見つからないでいた。借りた服を返却するために、日程を擦り合わせたいとは思いつつもかけられず。長年の不在の履歴ばかりを眺めては悶々とした時間を過ごしていく。そのうちに美和子がカップ式自販機で買ったホットコーヒーを持ち帰ってきて、先ほど彼女と入れ違いに帰った風見が座らなかった医務院ロビーの椅子に堂々と腰掛けると、タイトスカートから伸びるその長い脚を披露するみたいに美しく流れるように組んだ。彼女に手渡すために用意していた報告書のファイルは、もう既に説明を終えてテーブルの片隅に放置されている。


「じゃあ、彼とは別れちゃったんだ?」


 いつものことながら捜査そっちのけでなまえの話を聞いていた美和子は、その続きとして残念そうにそう言うと、まるで取り調べをする女刑事のような態度で背もたれに体重を預けた。そして宙を見上げて何か考え事をしている素ぶりを見せる。なまえはその様子が尋問されているようでいたたまれず、同じ自販機で買ったいつもは買わない甘すぎるカフェラテを気まずく口に含んだ。

 今まで散々相談に乗ってくれていたひとつ年下の美和子でさえも、あまりに突然の沖矢となまえの別れにはさすがに困惑しているようであった。なまえにはなんだかそれが申し訳なくて。けれど、そんな彼女の様子を美和子の方が先に見かねると、まるで母親のようなノリでなまえを励ますためにその頼りない背中をバシンと叩く。


「振られたからって何もそんなこの世の終わりみたいな顔しなくてもいいのよ! 何なら由美に頼んで合コンお願いしてあげようか?」


 まあでも、その由美も。最近、元彼と復縁したらしいし、もし復縁にあやかりたいならあながち由美大明神様を崇めるのも間違いじゃないかもね、なんて。そんな冗談か本気かよくわからないことを言ってのける美和子に向けてなまえは乾いた笑いを見せつける。

 合コン。まさに前回のそれの際に、解散間際で一緒に抜け出した金髪の彼が、実はずっと探していた高校時代の友人で自分にとって何よりも掛け替えのない存在だった、という話はどう考えても説明しにくいことであった。特に美和子には一度「降谷零」の名を告げているし、彼が公安であるということは深く組織の事情を知る者しか告げてはならないという暗黙の了解もある。しかも、公安と捜査一課なんて、その力関係を考えただけで互いに相容れない存在であることには違いないだろう。

 よって、なまえが美和子に話ができる内容と言えば、それは降谷零のことではない。今、一番彼にとっての表向きの顔である安室透の存在の方だった。


「ねえ、美和子。唐突なんだけど、安室さんって知ってる? 毛利探偵事務所の下の、喫茶店に勤めてる……」
「ああ。知ってるけど」
「実は今、その人のことでちょっと」


 なまえはただそう言いかけただけだったのに、さすがは刑事の心眼だろうか。美和子は心底驚いたような顔をして、戸惑いながら叫んだ。


「えっ、もしかして好きなの!?」
「いや! えっと、好きとかじゃなくて。いや、好きだけど、何と言うか……」


 自ら言いかけてしどろもどろになっているなまえは、その次に自分が続けるべき言葉が何なのかわからなかった。降谷のことが恋愛として好きなのかと問われれば、そんなことは正直、急に言われてもよくわからない。ただ、もう二度と離れたくないなとは思う。そしてそう思うことは同時に、赤井と付き合うことが不可能であるということを実質、示しているのであった。

 なまえは懸命に何と言おうかと考え込んで、言葉を吟味し、言いかけて、また飲んでを繰り返す。しかし、結局頭を掻きむしるくらい悩んでも告げられずにいれば、美和子は突然ひときわ優しそうに目を細めるのである。


「ねえ、なまえ。私、前に言わなかったっけ」
「え?」
「『自分の気持ちにいつも正直に生きてね』って」
「……」


 確かにそれは以前、例の合コンの前に美和子に言われた一言であった。自分の気持ちに正直に生きる。当たり前のことなのに、なまえはずっとそれができていない。そんな後ろめたさが、以前にその言葉を言われたときに同じく過ぎったことも思い出す。

 急に黙りこくってしまったなまえに、美和子は冷静に言葉を続けた。


「なまえは何て言うか。ちょっと人のことを考えすぎなのよ。それは思いやりがあっていいことなんだけど、本当はもっと自分のことを大切にして、一番に考えてあげなくちゃ。ね?」
「……」
「人生っていう物語は、自分が主人公なんだから」


 じゃあ、また来るわね。そう言い残して颯爽と帰ってしまった美和子の背を見つめて、なまえはじっと考え込んでいた。自分のことを、一番に。そう思ったとき、なまえは今一番自分がしたいことは何だろうかと胸に問いかけてみる。答えは面白いほどすぐに出た。

 一番はまず、今まで傍にいてくれた赤井と話がしたい。でもやっぱり、その勇気が出ない。

 そんなとき、テーブルの上に置きっぱなしにしていた携帯電話が突如として鳴り響く。なまえは急いで駆け寄り、誰からの着信かを確認した。降谷か、それとも赤井か。そんな風に予想しながら。


「!」


 しかし、その電話の人物は予想に反して降谷でも赤井でもなく。なまえを別の意味で絶句させるような、思わぬ人物からの着信であったのだった。

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