123a...

「アンッ!」

 翌日。その声で目が覚めたなまえは、バチリと音がするくらい大きく目を開けて勢いよく上半身を起こした。声のする方へ視線を投げかければ、ぱたぱたと尻尾を振って細かく息を弾ませる小さな犬・ハロがなまえのことを見上げており、愛らしく構って欲しそうにアピールをしている。もし彼が話せたとして、この、いつまでも眠っている大胆な客人に言いたいことはおそらく「おはよう」だろうか。ベランダへと続くテラス戸に引かれた薄いレースのカーテンは、朝日をまとって眩しいくらいきらきらと輝いていた。

 気づけば、そこは見知らぬベッドの上だった。いや、正確に言えば降谷のベッドだということは明らかにわかるのだが、どうして自分がここで眠っていたのかは定かではない。昨晩、彼から六年もの長い空白を埋めるような話を聞いて、ふたりして子どもみたいに泣きながら仲よく頭を寄せて眠ったことは覚えている。でも、その話をしていた場所はもちろんベッドの上などではなく、畳の上だったはずで、しかもふたりはそこに横並びに座っていたはずであった。

 故に、彼女がここで眠っていた理由は、降谷がわざわざなまえを抱えてベッドまで運んだのだということ以外に考えられなかった。そう思うと、なまえは途端に自分の頬がカッと熱くなるのがわかる。まさか添い寝などということは彼に限ってないと思うが、友人とはいえ、あまりにも自分の行動が無防備すぎたのではないかと思ったからだ。そして、その照れを隠すように弾かれるまま布団から這い出ると、背後から後追いしてくるハロを伴いながらうろうろと降谷を探し始める。しかし、残念ながら部屋のどこにも彼の姿はなく、昨日、壁にかかっていたスーツがないことから察するに、既に仕事に出かけてしまった後らしいということは明白であった。


「スーツ、ってことは。今日はポアロじゃなくて、公安の方、なのかな……」


 なまえはそうひとりごちて、一度、時刻を確認するために鞄の中から自らの携帯電話を取り出すことにした。赤井から着信があるかもしれないと一瞬後ろめたさも過ぎっていったが、どうやらそれは取り越し苦労に終わったらしく、通知は何も来ていない。それを安心すべきなのか、不安に思うべきなのかはわからないけれど、今だけはひとまず胸を撫で下ろす。

 デジタル時計で表示された時刻は六時四十五分。このマンションの場所はあまりわかっていないが、地図アプリかタクシーさえ拾えれば何とでもなりそうなので出勤時刻には余裕で間に合いそうである。にしても、七時前にはもう家を出るのか、彼は。そう思うと、途端に彼の体調が不安になってしまう。せめて「いってらっしゃい、気をつけてね」くらいは言ってあげたかったけれど、そう後悔しても遅いだろう。

 かりかりと何の音かと思えば、目を離していた隙にハロがキッチンの引き戸に向かって器用に前足をかけているところだった。ちょうどその真上、流し台の横に手頃な箱があって、パッケージから察するにどうやらこれが彼のご飯であるらしいということがわかる。食器カゴの中には犬用と思われる器がまだ水滴がついた状態で入っていたので、おそらく降谷が出勤前にハロに朝食を与えたのだろうということはわかったが、その姿があまりにも愛らしいのでなまえはそれを取って、少しだけ手のひらに出すと「ちょっとだけだよ」と言いながら彼の口元に持っていってやった。ペロペロと舐めるように食べる様子が本当に可愛くて、思わず口元が緩んでしまう。狭い額を撫でてやるとくすぐったそうに目を細めてくるから、余計に。

 なまえは立ち上がり、何気なくダイニングテーブルの上に視線を向けた。そこには一枚の、黄味がかったメモ用紙と鍵が置かれていることに気づき、さらには昨日着ていた自分の服が、綺麗に乾いて折りたたまれた状態で椅子の上に置かれていることにも同時に気づいて息を飲む。それは間違いなく降谷の仕業で、生真面目な彼らしい美しい筆跡の置き手紙だった。


『鍵は置いていくからかけて出て行ってくれ。昼過ぎに医務院まで部下に取りに行かせる』


 要件は実に端的で、たったそれだけだった。なまえは一緒に置かれていた鍵を手に取って、朝日に透かすみたいに眩しく眺めてみる。仮にも公安で勤めている彼だけれど、もう隠す必要もないとわかった今なら戸締りすらも旧友に任せるらしい。でも、それが何よりも信頼されているという証拠だった。

 とりあえずなまえは服を着替えて顔を洗い、コップ一杯だけの水をもらって出発することにした。借りていただぼだぼのスウェットは礼儀として洗って返そうと思い、できるだけ小さく折りたたんで鞄に詰める。いや、本当は礼儀も確かにあるけれど、降谷に会う理由が欲しかっただけなのかもしれない。いつでもまた会える、という確証めいたひとつの理由が。

 家を出る前に、再び彼が残した置き手紙を名残惜しくも眺めてみることにした。鍵は手のひらにきつく握って、今度はその紙を持ち上げてみる。しかし、そのとき初めて気づいたことがあった。日に照らした瞬間、今度は本当に何かが透けて見えたのだ。なまえはとっさに、そのメモ用紙を裏返す。

 そこにはやはり端的に。美しい文字でこう書かれていたのである。


『追伸:僕の電話番号わかるよな? もう無視したりしない。 0』


 最後の、ただの楕円にしか見えない丸が何よりも彼が残したという証になっていた。だから、その文章を読んだとき。たったそれだけの内容なのに本当に泣きそうになるくらい嬉しく思う。ずっと六年間かけ続けていた電話が、ようやく繋がったような気がして。

 なんだかとても優しい気持ちになって、なまえは迷いながらもその置き手紙を記念に持ち帰ることにした。小さく折りたたんでパスケースの中に入れると、またひとつ宝物が増えたようで。高明からもらった景光のものである卒業式の写真とともに、大切な思い出として新たにしまっておく。


「じゃあ。またね、ハロちゃん!」


 玄関を開けて振り向き様そう言うと、ハロがまたもアンッ! と元気よく鳴いて見送ってくれた。まるで「またね」の意味が彼にはわかっているかのように。



case123a. ハロ、ハワユ


 昼過ぎに来客があることを所長に伝えるとなぜか意味深にニヤニヤとされたが、訪ねてきた人物を見て彼はがっかりしているようだった。その真意はよくわからないながらも、なまえはぴったり昼食を終えた後にタイミングよくやって来たその人物に応対するために一度、医務院の玄関ロビーに出る。降谷の部下、ということは来訪した彼も公安だということを暗に開示されたということにもなるが、なまえはその人の顔を見て、失礼ながらも第一印象的に降谷以上に「らしい」人だなと思ってしまう。三十歳くらいの、眼鏡をかけた堅物そうな感じがいかにも真面目な雰囲気の男性だった。


「あなたが工藤なまえさんですね」
「ええ」
「降谷さんの使いで来ました。風見と申します。以後、お見知り置きを」
「どうも」


 おずおずと頭を下げるなまえに対し、彼はにこりともしない相変わらずの無表情で。来客用に設置されている椅子に腰掛けることもなく、単刀直入に要件のみをこちらに告げてくる。


「さっそくですが、鍵を頂戴しても?」
「ええ、すみません」


 なまえはそう言いながら、白衣のポケットに入れていた鍵を取り出し「お願いします」と言って彼に手渡す。それを受け取った風見は一度だけ頷くと、本当に事務的な口調で「確かにお預かりしました」とだけ言った。形容が悪いかもしれないが、まるで正確なロボットのような人だ、となまえは思う。彼の部下ということで親しみを込めた対応を心がけていたつもりであったが、打てど響かず。わずかに首をひねりながら声を潜めて、苦し紛れに世間話でもしてみることにした。


「風見さんも公安警察なんですよね。他言はしませんが、一般人の私に開示しても大丈夫だったのですか?」
「公安の立場にもいろいろありますので。中には、自らの身分を開示した方が取引がスムーズになる場合もあります。ただ、他言しないでいただけるとありがたいことに変わりありませんが」
「なるほど、善処します」
「むしろ今後は我々公安が関わる事件について、監察医としての工藤さんに話を聞きに来る場面があるかもしれません。今回は、その顔つなぎのためも含んでいると降谷さんはおっしゃっていましたから」


 その説明でなまえは深く納得した。鍵を取りに来る役目を部下に任せたのは、昨日の今日で会うのが気まずいからだとばかり思っていたが、本当はそんな浅はかな理由などではなく風見の言う通りなのだろう。ポアロで働く私立探偵、安室透。黒ずくめの組織の幹部、バーボン。そして公安警察を取りまとめるトップ、降谷零。彼はまさしくトリプルフェイスと呼ぶに相応しい三つの顔を持ち合わせ、それ故に立場上、表に立ち回っての公安の捜査ができない。だから、彼の部下である風見がそれをカバーするような役を担っているのだろうということは、察しのいいなまえならすぐに理解ができた。

 しかし、少しだけでも今の降谷に会って直接彼の調子を確かめたかったことは事実であった。なまえの方が起きるのが遅かったとはいえ、自分よりも早く出かけてしまった彼が今、元気にしているか。嗚咽こそ漏らさなかったが肩に感じた温度は相当泣いていたことを示していて、そのために頭痛や瞼の腫れなどもあっただろうし気持ちも幾分かは落ち込んでいるかもしれないと思ったからである。


「あの……零は、今は?」


 心配そうになまえは風見に尋ねた。すると、彼は即答する。


「現在は被疑者張り込み中です」


 その答えで、なまえの心配はさらに増した。今度は彼の気分と言うよりも、今頃どんな凶悪犯を相手にしているのだ、という気苦労が絶えない。しかし、その顔色を瞬時に読み取った風見が、なまえを落ち着かせるために理路整然と釈明を続ける。


「降谷さんならご心配には及びません。あの人はあなたが思っている以上に強いです。それも、近頃、特に」
「強い……?」


 その言葉に引っかかってしまったなまえは、思わずうつむいて考え込んでしまった。はたして、あんなに泣いていた人が本当に強いのだろうか、と。

 けれど、風見はあえてもう言葉を続けない。降谷の強さの理由でもある彼女に、そのことを自分が告げてたところでどうしようもないということはわかっていたから。


「すみません、立ち話をしてしまって。お時間ありましたらコーヒーでも?」
「いえ。あなたとは、あまり不必要な話をするなと降谷さんに言われているので」
「え?」
「では、また」


 なまえは疑問符を浮かべたまま、軽い会釈をした彼をとりあえず外まで見送ることにした。どうやら彼は入り口のすぐ真横に車を横づけしていたらしく、なまえの疑問も解かずに颯爽とそれに乗り込もうとする。

 しかし、その前に何かを急に思い出したようで、彼女に対してこう言ったのだ。


「工藤さん」
「はい」
「降谷さんのこと、よろしく頼みます」


 そうして、今度は深々と一礼すると、風見は東都監察医務院を後にしたのであった。堅物な彼の滞在の時間は、わずか五分にも満たなかった。

 一方のなまえはあっけにとられたまま、彼の車が見えなくなるまでその場でじっと見つめ続けていた。よろしく頼みます。そう言われて返す言葉は決まっていたが、心にわだかまりがあったままではたとえ相手がいなくなった後でもその返事を声に出すのははばかられる。

 それは当然、避けて避けられ続けている赤井に対しての感情であり、早急に彼と話をしなければならないということは十分すぎるほどよくわかっていたのであった。

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