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 それから一週間後。なまえは電話をかけてきてくれた人物との約束のために、米花駅の北口付近にある案内板の役割を果たしている柱にもたれかかって些か緊張した面持ちでその人が来るのを待っていた。腕時計で確認した時刻は、午後六時すぎ。わざわざ仕事を早上がりさせてもらってまでここに来たのは、その人物に会えるのをとても心待ちにしていたからである。

 少しでも大人っぽく「綺麗だ」と言ってもらえるように、いつもはあまり履かないヒールの高い靴とミディ丈のタイトスカートを身にまとって、全方向的に隙がない大人の女性らしい雰囲気を珍しくも彼女は醸し出していた。耳飾りの類はあまり身につけない主義なのだが、かつてその人から記念にと贈られたパールのイヤリングだけは今日どうしてもつけたくて。それがちらりと見えるように、灰原に借りたヘアアイロンで髪もゆるく巻いて不器用なりにもハーフアップにしてみた。そうしてその人が現れるまで忙しなく前髪を気にし続けている姿を見れば、傍目にもこれからデートに向かうために気合いを入れている単なるOLにしか見えないことだろう。しかし、これは決してデートなどというものではない。なぜなら、これからなまえが会おうとしているのは、彼女にとってこの世で最も恋人にはなり得ない人物だからだ。

 帰宅ラッシュで混雑してきた米花駅。そろそろ来る頃だろうかとなまえが腕時計を睨みながら気を揉んでいると、そこに一台のハイヤーが入り込んできたのであった。あまり見慣れないその光景に周囲の注目も一心に降り注がれる中、その車は颯爽となまえの目の前で停車する。そしてベテランそうな運転手からの手厚いドアサービスを受けて現れた彼こそ、心から会いたいと願っていた人物。

 工藤優作。先日、世界的に栄誉あるマカデミー賞で脚本賞を受賞した彼女の自慢の父である。


「父さん!」
「なまえ。すっかり元気そうだな、安心したよ」
「うん。おかげさまで」


 なまえは嬉しそうに優作に駆け寄ると、前回会ったときと同様に、その頼り甲斐のある胸に勢いよく飛びつきたい衝動に駆られた。やはり自分はファザコン体質であるらしいということを、今後は大人しく認めようと思う。

 先日はなまえが体調不良で倒れてしまい、眠っている間に優作がアメリカに帰国してしまったこともあって、あまり話ができなかったことを実は彼女はとても悔やんでいたのであった。はっきり言ってすごく恋しかったのだと思う。マカデミー賞おめでとう、とも言ってあげられなかったから。


「それにしても、いきなりの電話だったからびっくりしちゃった。日本の出版社から出す『緋色の捜査官』の逆輸入本の打ち合わせだったんでしょう? 編集者の人と一緒に会食したりしなくてよかったの?」
「問題ないさ。それよりもオレは娘との食事を楽しみたい気分だったんでね」


 その言葉に、なまえは喜びを噛みしめるみたいに口を結んだまま口角を上げる。それはまるで自分が最優先だと言われているようで、思わずにやついてしまうくらいにはすごく嬉しかった。

 そんな娘の表情を見て、優作もにこりと微笑んでいた。しかしその実、彼の心の中にはひとつの大きな懸念がある。それを今回はっきりと彼女と話をするために、本来であれば電話でも済ましてしまえる出版社との打ち合わせをわざわざ日本で執り行わせて、その口実としてなまえを今日はここに呼び出したのであった。

 ともあれ、久しぶりに娘とふたりきりで食事をするということを楽しみにしない父もいない。優作は着飾った彼女の背をエスコートするように軽く押し、ハイヤーに先に乗せてやる。


「それより、お腹が空いただろう? さあ、行こう。店はもう予約してあるんだ」
「うん!」


 なまえは以前とは見違えるほど、いきいきと元気よく返事をした。向かう先は彼の今日の宿泊先だという米花サンプラザホテル。その上階にある、展望レストランであった。



case125a. 話がしたいよ


 文句のつけようがない満点の夜景をバックに、なまえはやや興奮気味に辺りをきょろきょろとしていた。その様子がまるで落ち着かない小さな子どものようにも見えるから、優作はじっと眺めるみたいに頬杖をついてのんびり気を緩めてしまう。ひと回りほどしか歳が離れていないため、一見すれば年下の妻のようにも見えることだろう。けれど、やはり優作からしてみれば、なまえは十七年前にあの孤児院で初めて見かけたときからずっと、目に入れても痛くないと思えるほど可愛いひとり娘に違いなかった。

 彼女ももういい歳で、今日は目一杯大人っぽい格好を装ってお洒落をしてきたようだったが、だからといって大人しく座っているわけではなく、ふとした挙動が子どもっぽかったり、無邪気に笑ったりする彼女の一挙手一投足が改めていちいち可愛いなと優作は思っていた。唯一、もしすべてを最初からやり直すことができるとすれば、自分と有希子の本当の子どもとして、そして改めて新一の本当の姉として、最初からなまえのことを神様から与えて欲しかったと思う。そうしたら、一ミリも彼女には寂しい思いなどさせずに、こんなにも諦めのいい子で育たずに済んだ、かもしれない。

 なまえはなまえで、そういえばつい最近もこんな夜景の見えるレストランに行ったなと思い出して、それが工藤家では伝説的な逸話にもなっている米花センタービルの「アルセーヌ」であったことを嬉々として優作に話し始める。死ぬほど美味い、という高級レストランには不相応な形容をした新一の笑い話とともに。


「そういえば! この前、初めて米花センタービルの『アルセーヌ』に行ったよ! ずっと父さんと母さんの話を聞いて行ってみたいなって思、って……」


 しかし、彼女は話の途中でそこへ連れて行ってくれた「彼」のことを思い出して、まるで風船がしぼむみたいに気持ちが冷静に陥っていくのがわかった。沖矢昴の格好をした赤井秀一が、確かにそこへ連れ出してくれた。その際、彼からプロポーズのような言葉まで受け取ったことも。もちろん、記憶に新しい。


『この先、お前がどんな残酷なことを知っても。どんな真実を得ても。その上でお前が何を選び、何を捨てるのか。俺はこの目で見守っていきたいんだ。お前の一番、近くで』


 あのとき、赤井はなまえに対して確かにそう言った。思えば、彼はその当時からずっとこの展開を予測していたのだろう。安室透が降谷零であり、そしてなまえの高校時代の旧友だということを。そしてそれを知ったときが、自分たちの交際の終焉であるということを。

 そして、彼は今もなお、静観し続けているのだ。無断で外泊をしても一切咎めることもなく。そもそも話しかけることすらなく。なまえが自ら何を信じ、何を選択するのかを、尊重しながら見守り続けている。じっと。潜水でもするかのように。


「ほう? じゃあ、今回はそこにしなくて正解だったな」


 優作は当然、なまえの一変したその様子に気づいていたが、別段、態度を変えることはなかった。逆に気を使わせないようにまるで何も気づいていないかのような振る舞いを自然にして、眼鏡のつるを上げながらマイペースにワインリストに目を通している。そして、なまえは飲めないんだったな、と独り言のように呟いてそのリストを閉じれば、近くにいたソムリエに何やら呪文のような単語を口にしてみせた。その姿は、純粋に格好いい。

 運ばれて来たのは二本のシャンパンだった。ラベルを見せて、味や産地についての詳しい説明を受けてから、高々と優作の方のグラスに一本目が注がれる。ぷつぷつと泡立つ気泡に夜景が吸い込まれるみたいに入って、形容しがたいほどとても美しい。

 対するなまえの方のグラスにも、優作のものとは別のラベルがついた淡い黄金色のシャンパンが今度は特に何の説明もなく注がれた。そのことに彼女は少し驚きつつも、しかし、優作が選んだものなら飲みやすいはずと、ある種覚悟のような心構えをする。しかし、注いだ後のソムリエに優しく微笑まれて、なんだろう? と思っていれば。こちらはアルコールではございませんのでご安心してお飲みくださいませ、とスマートに言って愛想よく立ち去られてしまった。前を見れば、優作がウインクする。


「実に、お前向きだろう?」
「うん」
「じゃあ、乾杯」
「乾杯!」


 そう言ってにこりと笑う優作の表情で、逆になまえも思い知るのだ。まだまだ父さんにとって私はただの子どもなのだな、と。




 一流のコース料理に舌鼓を打ちながらの食事会は、家族とはいえ離れて暮らしているせいか互いの近況を話し合う会話も弾んでとても穏やかで楽しいものとなった。最後に特注だというレモンケーキを優作が自分の分も食べてもいいと言うので遠慮なくそれを頬張りながら、なまえはここ最近で一番癒されたような優しい気持ちに浸る。

 しかし、同時にこのまま楽しい時間が終わってしまうのが怖いとも思うのであった。降谷に「もう無視したりしない」と言われてから連絡していないのと同様に、赤井との関係も何も進展していない。家に帰れば、自分の家にもかかわらずまた気配を殺して彼を避け続けるだけの生活が始まるのだと思うと、逃げ以外の何でもないが、帰りたくないと思うのはある意味で当然のことであった。

 なまえは先日、医務院のロビーにて美和子に言われた言葉を思い出していた。自分の気持ちにいつも正直に生きてね。たったそれだけのことなのに、なまえは馬鹿みたいにいつまでもそれができないのだ。まるで悪い女のそれながら、このまま結局白黒はっきりさせないままで、降谷とも赤井ともこの距離でいた方がよいのではないかとも思う。それが誰も幸せになれない結末であったとしても、誰かひとりを自分が不幸にしてしまうくらいなら誰も選びたくない、なんて。なまえは暗い顔をして食べ終えたデザートプレートにフォークを置き、ごちそうさまでした、と手を合わせて努めて明るい口調でそう呟いた。

 一方の優作は食後の紅茶に口をつけながら、時間が経つにつれて重たくなる娘の空気を、その鋭い作家としての目線で十分に観察していた。そして、ふうとひと息をつき、日本に来る前に妻の有希子から言われた一言を思い返す。


「いい、優作? なまえちゃんを何としてもシュウちゃんと復縁させて来てよね!」


 わかった!? と、やや凄むようにそう言われて。しかし、優作は不謹慎ながらそれを思い出すだけで少し笑ってしまうのであった。

 なぜならそれは、最初から聞けない約束だったから。

 彼は心の中で有希子に謝罪して、今日の本題についてようやくその口を開き始める。


「なまえ。単刀直入に聞くよ」
「え?」
「降谷零くんは、お前にとって大切な高校時代の友人のひとりだな」


 さすがのなまえでも、その質問には思わず絶句してしまった。そして、なんでそのことを、と震えた声で呟くが、すぐに合点がいく。どうせ新一から聞いたのだろう、と。しかし、優作はそれを柔く否定し、こう続ける。


「宅配業者を装って彼がうちに来たとき、インターホンでその顔を見た瞬間すぐに気づいたよ。彼がお前の友人で、数年前にオレのサイン会にスタッフとして潜入していた子だってね」
「!」
「お前は高校時代に、そのAくんとBくんと出会うまでは友人を一度も持ったことがないようだったから、その扱いに悩んでオレたちにまで大切に隠し通そうとしていたようだったし、さすがのオレでも彼らの名前までは知らなかったが。実は、お前が留学するために用意していた荷物の中から、一枚だけ写真が入っているのを見てしまったんだよ」
「……」
「そして、そこにはあの『彼』が写っていた」


 優作は話を続ける。その写真の少年が数年後、サイン会のスタッフに混ざっていたこと。父として娘の友人に声をかけたかってみたかったのだが、終了後にはもういなくなっていたこと。他のスタッフに聞けば、そんな者は雇っていないと言われたこと。失礼ながら物盗りだったのではないかと思って訝しみ、控え室に置いていた鞄を探ってみたのだが、なくなっているものは何もなかったこと。だが、今思えば。公安として不必要な詮索をされる前に、工藤邸の鍵を一時的に盗んで合鍵を作り、なまえの部屋にある写真を盗もうとしていたんだな、と。さすがは世界的大作家、実に見事な推理だった。

 なまえは先日、降谷から聞いていた通りの話を、今度は逆に優作の目線から聞いて声を失っていた。本当に彼の言う通りだった。そして、優作を出し抜いたことを得意げに景光に語ったのだという降谷も、本当はそのときから怪しい人物であるとバレていたのだと思って少し笑ってしまう。なんだか、彼らしくて。それでいて、なぜかとても切ない気持ちになってしまう。


「だから、最初からオレにはわかっていたんだ。彼がなまえの大切な友人であり、お前を奪い返すためにうちにやってきたということは」


 あのFBIの彼と比べて随分若いなとは思ったが、そこまで一途で血気盛んな青年はオレも別に嫌いではないんでね。皮肉を込めながらそう言う優作を、なまえは見つめる。そして視線が合うと、またもにこりと目を細められた。


「それからは……まるで千尋の谷に落とす獅子のような気分だったよ」
「え?」
「いや、それはこちらの話だったな」


 優作はなまえの質問をうやむやにして、そして逆に尋ね返す。それはもちろん、彼女のこれからについて。


「それで、なまえはどうしたい?」
「……」
「もしも。今のお前が誰かを苦しめることを恐れ、顔色を伺い続けるような生活を続けているのなら、それはもうやめた方がいい。これはお前の人生でもあるが、オレの可愛い娘の人生でもあるんだ。自分の気持ちに偽って生き続けることを父さんは決して望んでいない」


 優作は珍しく強い口調で、諭すようにそう言った。なまえは思う。まるで叱られているみたいだな、と。でも、それが今はとても嬉しかった。

 なまえは幼いときから工藤家に引き取られるまでずっと孤独だった。孤独に本を読んで、ひとりきりで生きていた。それを救うように優作に手を差し伸べられ、工藤家の長女として迎え入れられたことは彼女にとって最大の幸運に他ならない。だからこそ、わがままひとつ言わず、あまりにも諦めのいい子として育ち、決して優作や有希子から叱られたことなど一度もなかったのだ。

 本当はもっと甘えたかった。わがままもいっぱい言いたかった。心細くて一緒に寝て欲しいと両親の寝室を訪ねる夜もあったが、新一が生まれてからは強がって。遠慮して。でも、本当はその遠慮も今思えばいらなかったのかもしれない。

 そうした積み重ねが、今の気丈な彼女を作り出してしまったのであった。それが優作にとって大きな懸念材料だったのだと知った今、なまえは素直にこう思う。

 今からみんなにちょっとだけわがまま言っても、許されるのかな、と。


「何をどう選んでも父さんはお前の味方をやめないよ。……まあ、もちろん、あの小さくなった高校生探偵のこともそう思っているからこそ、先日の無謀な作戦に協力してやったんだがな」
「ふふ」


 なまえはようやく心からの明るい声で笑った。すると優作が、最後にだめ押しの一言を、またも皮肉を込めてこう言うのだ。


「男に振り回されるより、男を振り回す女の方がいいときもある。お前の母さんのようにな?」


 そう言って笑った。どうやら彼はずっと有希子に振り回されっぱなしのようだが、そういえば昔から工藤家のパワーバランスはそうやって取られていたのであった。




 なまえは優作と別れた後、ホテル前から準備されていた行きと同じハイヤーに乗って自宅を目指していた。その車内で、彼女はさっそく携帯電話を取り出し、スクロールしながら履歴を巡る。そして、一件。目当ての人物の番号を探し出すと、静かにタップして耳に当てた。

 その人物こそ、なまえが今一番、話がしたいと思った彼。もう何も怖くはない。逃げもしない。真正面から、向かい合いたいと思ったのだ。


「もしもし、秀一? 私だけど」


 話がしたいよ。寂しいときに、ずっと一緒にいてくれたあなたと。

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