126a...
今から帰るからリビングで待ってて。話がしたいから。そんななまえからの連絡を受けたとき、赤井はちょうど自室の窓辺にてバーボンを傾けながらひときわ青白い月を眺めていたところだった。あの一件以来、彼女に考える時間を与えたくてわざと顔を見合わせることを避け、まったく話をすることもなくなってしまったのだが、正直に言えばこの生活は彼にとって、些か気が狂いそうになるほど切ないものとなっていた。一週間前の猛烈な雨の日なんて、夜になっても彼女が帰って来なくて。何度も電話するべきか悩んだし、宛てもなく車を走らせて探しに行こうかとも思った。けれど、結局そうしなかったのは、帰って来ないという彼女の選択すらも今は最優先として考えてやりたいという彼なりの優しさでもあったのである。
しかし、なまえから告げられた「話がしたい」との一言で、ついに自分にも審判が下されるときが来たのだということを、彼は比較的穏やかに察していた。実はここ最近、特に彼女がいない間は、いつそのときが来てもいいように生活に必要なもの以外を軽くまとめ始めていたのである。ダンボールの数はまだわずかだが、彼は部屋に乱雑に散らばるそれらの箱を眺めて力なくこう呟く。
「そろそろ、本格的に支度をしなければならないな」
ここを出て行くための、支度を。

case126a. おかえり、ただいま
ただ玄関の鍵を開けるだけのことがこんなにも緊張するだなんて、想像にもしていなかった。なまえはひとりそう思いながら、しばらくそこで頑なに仁王立ちをして手元にある鍵と扉を忙しなく交互に見つめる。優作との会食を終え、帰りのハイヤーの中で赤井との電話も終えた後、彼にどんな話をするかについてはもちろんじっくりとその頭の中で考えてはいた。だが、それを上手く彼に伝えられるかどうかに関しては、はっきり言って、彼女には自信がない。
初めて会ったときから感じていたが、赤井の目にはどうも不思議な力があると思う。世の中の道理も真実も、何もかもを見透かしてしまうような不思議な、目。ルームメイトとしても、恋人としても、なまえはかつて何度もあの目と向き合い、そしてその度に本当に様々な気持ちに陥った。自分を孤独から救い出してくれた大好きな目のはずなのに、けれど今は少しだけ向き合うのが怖いという気持ちもあって。それをどうにか払拭したくて、なまえは自身の心の中にいる神様に向けて「どうか自信を」と、か細い祈りを捧げる。それに優しく応えるように、包み込むような風が彼女の頬を撫ぜた。
意を決して自宅の鍵を解錠することにする。そして「ただいま」を言うかどうか迷いながら恐る恐るドアを押し開けば、リビングで待っているとばかり思っていた赤井が、まるでなまえのことを待ち構えていたかのように壁にもたれたまま腕を組んで立っていて。その視線がちらりとこちらに向いた瞬間、彼女は思わず息を詰まらせてしまう。彼と会うのは実に久しぶりのことだった。
なまえの帰宅に、赤井の目がわずかに少し細くなる。そして彼は、時間の経過など一切感じさせないように、いつも通りの口調でこう言うのだ。
「おかえり、なまえ」
その第一声に驚きつつも、なまえもつられるように笑って頷く。
「ただいま、秀一」
そうして笑う彼の優しい顔を見て、そのあまりに変わらぬ態度になまえは確かに安堵していた。だが、同時にぎりぎりと胸が切なく張り裂けてしまいそうにもなる。
彼との生活において「おかえり」と「ただいま」があることは当たり前だったはずなのに、今となっては、こんなにも幸せなものだったのだかと改めてその存在に気づかされたような気がしたのだ。そして、その言葉はなまえに孤独ではないことを思い知らせるには十分すぎるものとなって。彼が「おかえり」をくれるから、いつの間にか家に帰るのも好きになった。我ながら単純だな、と自嘲してしまうほどに。
赤井はポケットに手を入れて踵を返し、そのままなまえを誘導するように黙ってリビングへと進もうとする。しかし、その途中で彼は立ち止まって振り返り、またもこちらのことを優しく気にかけるように尋ねるのだ。
「先に紅茶でも入れようか。レモン、ミルク、ストレート……って、お前は聞かなくてもレモンだよな」
「うん」
「じゃあ、俺もそれに付き合おう」
そう言って二度ほど軽く手招きをされる。手伝え、ということだろう。なまえは気まずさを上手く隠しながらそれに従うように彼とともにキッチンに入り、懸命に平然を装って一緒に紅茶を用意し始める。一見すればそれはまるで楽しい茶会の準備でもしているような感覚にも陥るが、これから話そうとしている内容について考えると、なまえは自分の気分が急速に重たくなっていくのがわかった。しかし、実を言うとそれは赤井の方も同じことで。お互い、必死になって緊張を隠しているということには残念ながら気づいていない。また、そういう意味で、いつの間にか彼らはとてもよく似た者同士になっているということにも、同様に気づいていないのである。
赤井がリビングのテーブルにティーセットを置き、先にいつもの定位置にドサリとした質量で腰掛けた。その姿を見たなまえの脳裏には、彼が沖矢昴の変装を解き、赤井秀一として初めて目の前に現れたときとまったく同じ光景が思い起こされる。そして、まるでそのときを同じく自分もなぞるように、なまえもおずおずと彼と対面する席に座った。
キッチンでほとんど準備してくれたのが赤井だったから、お返しとばかりに今度はなまえがテキパキと彼の分まで紅茶を給仕していった。琥珀色の水面に、最後に輪切りのレモンを浮かべれば、なまえはいざ心を決めて話を切り出す。
「別れようって言われた返事、ずっとしていないなと思って」
「……」
「でも、その話の前に聞きたいんだけど。秀一は全部知っていたんだよね? 零だけじゃなくて、ヒロも組織に潜入してる公安の人間だったって」
すると、赤井はしばらく何も言わず、なまえに入れてもらったレモンが紅茶の表面にぷかぷかと浮かんでいる様子を見つめていた。そしてカップを持ち上げ、わずかに口をつけてからようやく穏やかな口調で話し始める。まるで、過去を切なく懐かしむように。
「ああ。でも、それを知ったのはあのボウヤがここに来て、例の作戦について説明をするほんの少し前だよ。お前のパスケースの中に写真が入っていて、悪いと思いながらそれを見てしまった。すまなかったな」
「……」
「俺が組織に『ライ』として潜入していた頃、スコッチとバーボンとは比較的同じ任務に就くことが多くてな。バーボンの方とは何かと馬が合わなくて対立も多かったが、スコッチは特に気のいい奴だったから、俺も彼のことは組織に似つかわしくないほどいい奴だと思っていたよ。割に嫌いじゃなかった。あいつはギターもベースもプロ並みに上手かったし、任務に向かう最中に出会ってしまった真純にも優しくしてくれた。たぶん、兄弟でもいたんだろうな」
なまえはその話を聞いて、何の関わり合いもないと思っていた赤井と景光が過去に運命を交差させていて、そのことを赤井自身も未だに覚えて懐かしんでくれたことを、まるで自分のことみたいに嬉しく思っていた。しかし、赤井の方はそう語りながらも、その胸にはずっと一抹の不安が過ぎっており、その「スコッチ」の件で彼女には嫌われているものだと勘ぐってしまう。
なまえが「話がしたい」と言ったときから、赤井は降谷と彼女が既に接触したのだということに当然ながら気がついていた。それも、おそらくあの雨の強い日に。降谷からすべてのあらましを聞き、スコッチの死に赤井が関与しているのだと聞いて、彼女には相当なショックを与えてしまったことだろうと思う。こう見えて彼自身本当はなまえに別れを切り出した際に、自らスコッチの話をしようとは思っていたのだ。だが、好きな女に対して自分が嫌われてしまうかもしれないそんな残酷すぎる話は、どうしてもできやしなかった。たとえ、ずるいと言われたとしても。
そして、悲観的な考えではあるが、降谷から相当恨まれていると思われる赤井は、嘘か誠かは別にして、なまえが彼にどんな話を吹聴されたのだろうかとそればかりが気になって仕方がなかったのだった。今でも赤井は時折思い出してしまう。自らの胸を貫いて逝った、スコッチの死に顔。組織の人間としてさらなる高みへと上り詰めるために、彼の自殺さえも利用して裏切り者をこの手で始末したとうそぶいたことも。そして、あのときの怒りに震えるバーボンの顔も。
そんな修羅の彼であるからこそ、赤井ひとりを悪者にするためになまえに嘘を織り交ぜた話をするのは当然だと思えた。彼らが単なる公安という関係だけにあるのではなく、本当の友人であったことも踏まえて考えれば、その線はより濃厚になるだろう。
けれど、赤井の胸のうちにはそう思われても仕方がないという諦めも確かにあるのであった。あの場で、スコッチのことを生かしておけたのは自分しかいなかったのに。足音に気を取られたからとはいえ、彼を助けられなかったことは本当に殺してしまったのも同義なのかもしれない、と。
だが、そんな心配をよそに彼女はふっと微笑んでみせたのだ。親友を殺した男に対して。まるで天使のように安らかな表情で。
「ありがとう。ヒロのこと、覚えていてくれて」
「!」
そのあまりに博愛的な言葉に驚き、赤井は声を失う。そして、なまえは静かに考えていた通りの話を続ける。
「零が教えてくれた。秀一が組織の人間として振る舞うために裏切り者だったヒロのことを殺したって言ったって。でも、本当はそうじゃなくてヒロは自分から死を選んだんだって。公安や、家族や、私の情報が組織に渡るのを避けるために、胸ポケットに入れていた携帯電話ごと拳銃で撃ち抜いて」
「……」
「まあ、零はそれがわかっていても、秀一のことは嫌いみたいだったけどね」
なまえはそう言って笑う。それはつまり、彼女「は」赤井のことを嫌っていないという意味を表していた。
「私、秀一には今まで言葉では言い表せられないくらいたくさんのものをもらって、本当に感謝してるの。彼らと音信不通になって。新一もこの家からいなくなって。本音を言うとずっと寂しかったけど、そんな弱音を吐く相手もいなくて。でも、昴くんが……秀一がここに来てくれたおかげで毎日がすごく楽しくなった。最初はあなたのことなんて絶対に好きにならないなんて大見栄切ってたくせに、気づいたらどんどん好きになって。母さんにもコナンくんにもこのまま秀一と一緒にいた方が幸せになるよって何回も言ってもらったし、私自身も、本当に、そう思う」
「なまえ……」
「でもね」
なまえはそう言いかけて、わずかに息を飲む。それから感情をこぼすみたいに一筋の涙を流して、今にも壊れそうなくらい悲痛な面持ちでこう言うのだ。
「私は、もう、零をひとりにしておくことはできない」
そう言いながらぼろぼろと涙をこぼし始める彼女を、赤井はただじっと見つめていた。正直、好きな女が他の男を思って泣いている姿は、見ていてとてもいたたまれない気分だった。
こうなることは最初からわかっていた。太刀打ちできないほど強い絆で結ばれている彼らのことは最初に話を聞いたときからわかっていたし、スコッチが彼女の言う「ヒロ」と呼ばれる人物であることを悟ったことが、今回の、すべての決め手にもなった。
思えば、あのときが自分にとってのターニングポイントだったのかもしれない。あのとき、彼の命を救えていたとしたら。今もまだ自分は彼女と繋がっていることを神様から許されていたかもしれないな、と。
赤井は思い出す。数年前、なまえがまだ医学生だった頃、メリーランド州のガンクラブで初めて彼女に出会った。同じく東洋系の顔立ちをしていた彼女に強く目を引かれて見つめていれば、思った以上になかなか筋がよくて。つい物珍しくて、らしくもないナンパでもするみたいに話しかけてしまったのだった。正直、そのときから可愛いと思っていた。
そして、ニューヨークでの思わぬ再会。腕の中で泣きじゃくる彼女を面倒にも思ったが、思えばその頃にはもう歯車は回り始めていたのだと思う。その証拠に、工藤なまえという名前と、彼女の馬鹿みたいにお人好しな性格と。あと、レモンが好物だということは、なぜか頭の片隅にずっとあって。記憶のどこかに貼りつけられてしまった付箋みたいに、いつまでも笑えるくらい忘れられなかった。
だからこうして一緒に住むことになったとき、これが純粋に運命というものなのだと思った。彼女に強く惹かれてしまうことは、神に定められしことだったのではないかと。やっぱりらしくもなく、彼はそんな風に思ったのだ。
けれど、降谷零の掴んだ運命には勝てなかった。
赤井は穏やかに負けを認めて、今自分が持てる最大の笑顔を作ってその表情に貼りつけた。そして、最後まで彼女の涙を止めるための騎士としての役割を果たすために、泣きじゃくるなまえに優しく尋ねる。
「そっちに座ってもいいか?」
「え?」
すると、赤井は返事を聞く前になまえの隣に座る。それはいつもリビングで一緒にいたときと同じ。見上げた角度がとても懐かしいように感じられて、なまえは滲む視界の中でその瞳に永遠に焼きつけるみたいに彼のことを見つめる。
「わかっていたさ。そう言われるんじゃないかって」
だから泣かなくてもいい。赤井はそう言ってなまえの涙を無骨な指先で優しくすくう。でも、その体温がまるで彼の心の温度ごと表しているように思われて、触れられる度に涙が溢れてしまうのであった。交際を断っているのは自分の方のくせに、これじゃ困らせるだけじゃないか。そう思うのに、止められない。
しばらくそうして泣いていれば、赤井はまるで何もかもを終わらせるための、最後みたいにこう言うのだ。
「早めに新居は見つけるよ。だから、俺のことは心配しなくていい」
しかし、それを聞いたなまえは瞬間的に涙を引っ込める。そして、ずっと彼に向かって告げようと思っていたふたつめの内容について口を開くのだ。
「そ、れ、なん、だけど……」
「?」
「秀一さえよかったら、この家には住み続けてくれて構わないよ。哀ちゃんを守るためになるべく近くでの監視が必要なんでしょう? この家、空き部屋が多いからなんだか広く感じちゃって、私もひとりは寂しいし」
「……」
「もちろん秀一がよかったら、なんだけど……」
その提案は「気まずさ」というものを除けば好条件以外の何ものでもなかった。ひとつめの新居が不慮の火事で燃えたときにも感じたが、家を探すということは身分を詐称している赤井には割に面倒な手間が多く存在している。その点、ここに住み続けられるとなれば、それらはすべて省かれることになり、甘んじてその境遇を享受したくなる。
だが、赤井には当然、気になる点があることにも違いなかった。
急に取り繕うような態度を見せる彼女をフォローするかのように、赤井はその疑問に関して思ったことを正直に尋ねることにする。それはもちろん、どこからどう見ても異常に嫉妬深そうなあの降谷零についての話だ。
「それはこちらとしてもありがたい話だが。しかし、それではさすがに『彼』が嫌がるんじゃないのか?」
しかし、赤井の思惑に反して、なまえは一気にげんなりしたような、それでいてわずかに怒ったような珍しい顔色に表情を変える。
「その点に関しては全然心配いらないよ。だって、今まで散ッ々なくらい振り回されて、ずーっと嘘つかれて。おまけに正体がバレるまで延々黙ってるだけっていう、ものすっごくひどいことされてたんだもん。そのくらいしたって、私、バチ当たらないと思う」
そう言って、なまえはまるで子どもみたいに口を尖らせるから、さすがの赤井もすぐには何も言い返せなかった。ただ、その態度があまりにも可愛くて。やっぱり自分はこの先もなまえのことが相変わらずずっと好きでいるだろうなと思って、彼は笑ってしまう。
けれど、なまえの方はこう見えて至って本気だった。なぜなら、これが優作に推奨された、彼女なりに降谷を振り回す方法であると信じ切っていたからである。
「まったくもって、言えてるな」
しばらくして、ようやく赤井は隠さずに笑いながらそれに同調してやることができた。そんな彼の様子を見たなまえは途端に得意げになってふふんと笑い、赤くなった自身の目元をもう一度こすってからレモンティーに口づける。その横顔に、赤井は意地悪でもするように話しかけた。
「なまえ」
「?」
「最後に抱きしめてもいいか?」
なまえは一瞬、驚いているようだった。けれど、すぐにその態度を軟化させてカップをソーサーの上に戻すと、先ほど同様、慈愛に満ちた表情で彼女から両手が差し出される。赤井は思わずそれに飛び込むように強く抱きしめて、最後の感触を大切にその身に刻みつけるように味わった。
この髪の匂いも。肌のやわらかさも。温もりも。ずっと忘れはしない。もうこの想いは届かないけれど、確かに自分は本気の恋をしていた。
でも、もしまた降谷が彼女を泣かせるようなことをするのであれば、さすがにもう譲ったりはしないが。赤井はそう思って笑みをこぼし、ゆっくりと彼女から体を離す。そして、改めて手を差し出した。
「これを機に、今からお前と俺はルームメイトだ。よろしく頼むよ、相棒」
赤井から握手を求められ、相棒と呼ばれたなまえは満面の笑みでそれを握り返す。まるで固い絆で結ばれたバディを組むみたいに握り締めたその手は、やはり彼の心の温度を表すかのようにとても暖かかった。