127a...

 一方、その頃の降谷はもう五日目ともなる徹夜作業に従事しており、栄養ドリンクの空き瓶を数本、机の上に几帳面に並べては、猛スピードかつ無心で書類仕事をこなしていた。彼がそれほどまでに自分を追い詰めて働く理由はただひとつ。余計なことを考えないようにするため。一週間ほど前、母校の前で運命的な再会を果たした旧友であるなまえに「もう無視したりしない」との置き手紙を残したものの、実はあれ以降、彼女からの連絡は一切なく。もう二度とこのまま会えないのかもしれないという後ろ向きな不安が、ずっと彼の背後にはつきまとっていたのである。もっとはっきりと「電話してくれ」と端的に書けばよかったのかもしれない。番号も残しているとは限らないことだし、そもそもそれほどまでに気にかけるのなら、こちらから連絡すればいいだけの話。なのに、そうは思いながらも、なかなか直面すると素直にはなれないもので、なまえとの連絡が取れないまま無駄に時間だけを食い潰していたのであった。

 最初はそのメモも、裏面に書いたから気づいていないのではないかと思い込み、なんとか自分自身を励まそうともしてみた。だが、一時的に自宅に帰ってみるとあの置き手紙がなくなっていたため、きっと彼女は用紙ごとそれを持ち帰ったのだろうと推察される。表面を向けて置き去りにされていたのなら読んでいないとも取れるが、監察医という稀有な仕事をしているなまえに限って持ち帰ったメモ用紙の裏に気づかないとは考えにくい。

 故に、なまえがここまで頑なに連絡してこないのは、ひとえに降谷の話を聞いて、彼のことが嫌いになってしまったのだという理由しか残念ながら思い当たる節がなかったのであった。そう思った瞬間、書類にサインをするために握っていたボールペンがボキリと折れ曲がり、もう使い物にならなくなって手元からすべり落ちていく。彼はわずかに舌打ちをしてそれをゴミ箱に投げ捨て、ひときわ大きなため息をついてうなだれた。

 駄目だ。また考えてる。彼はそう思いながら、懸命に頭の中からなまえの存在を追い出すように首を振り、予備にストックしてある備品のボールペンを新たに引き出しの中から取り出した。にしてもこれで三本目だぞ。耐久性に問題があるようだから、次回から備品の購入には検討が必要そうだな。

 そんな降谷の様子を固唾を飲んで見守っていた他の公安職員たちは一同一箇所に集まって、彼の動向に逐一おどおどしながら、絶対に聞こえないような小声で噂話をし始めるのである。


「おい、誰か。降谷さんを仮眠室に連れていけよ」
「無理だ。あの人にそんな意見できるわけないだろ」
「もう今日で五徹目だし、ボールペンは四本目だ」
「このままじゃ俺たちもあのペンのように……」


 そのとき。ゴホン、とちょうど降谷が喉の調子を整えるために軽い咳払いをした。それはもちろん、自分の噂話を受けてわざとらしく一掃するため……というわけではなかったのだが、噂をしていた彼らは途端に縮み上がるかのような短い悲鳴を上げ、激しい悪寒からぶるぶるとその身を震わせるのである。

 こうなれば仕方がない。彼らはその対処法について、まるで示し合わせるように頷き合う。そして、後方にいたとある人物に向けて希望の視線を送るのであった。

 その人物とは。この職場内で最も降谷と接触する機会が多い風見裕也。彼にすべてを丸投げするのである。


「風見、お前が行け」
「そうだそうだ」
「風見さんしかいないんです、ここはなんとか!」


 そんな彼らの押せ押せの態度を見かねた風見はわずかにため息をつき、それから毅然と言い放つ。


「まったく。仕方がない」
「おおっ! さすが、風見!」
「しかし、ああなってはさすがにこちらでも無理です」
「……」


 一瞬にして、吹きすさぶ冷たい風が彼らの間を駆け抜けていく。まるで氷河期の訪れかのような凍りついた雰囲気に陥った彼らの中からは、もう誰も降谷を仮眠室に連れて行こうと言い出す者はいなかった。

 じゃあもうお手上げだな、解散。一同はそうして諦めの境地に至り、再び自分の持ち場へと仕事に戻って行く。しかし、その中で唯一風見だけは、どうすれば降谷が自ら仮眠を取ってくれるのか、その方法がわかっていた。だが何とも不甲斐ないことに、その方法がわかるとはいえ彼にできることは何もなく、精々、心の中で強く念じることぐらいしかできない。

 なんとかしろ、工藤なまえ。頼むから降谷さんに連絡を寄越せ。今すぐ。すぐにだ。……そう。風見こそ、なまえにこの状況を丸投げするしかないのであった。

 しかし、意外にも彼の願いが無駄になることはなかった。まさしく祈りが天に通ずるかのごとく、ちょうどいいタイミングでなまえから降谷の携帯電話宛てに一件の着信が入ったのである。

 ずっと机の上に大事そうに置いて連絡の有無を気にかけ続けていた降谷は、その画面を見るや否や、驚く暇もないほど反射的に着信を取った。それはもう、本当に目を見張るほどのスピードで。


「なまえか!? お前、どうして今までっ!」


 思わず勢いが余りすぎて立ち上がってしまう降谷のなりふり構わない声に、彼の周辺は一瞬にして張り詰めた空気に陥った。しかし、そこはさすがに恋愛に関しては天下の鈍感、工藤なまえ。彼女は赤井との話を終えた後、自室の窓辺から美しい月を眺めながらのんびりと間延びした返事を電話口でするのである。


「あ、零。ごめんね。今、大丈夫? 仕事中だった?」


 そんななまえのあまりに穏やかな声を聞いて、気持ちばかりささくれ立っていた降谷は一挙に気圧され、癒し尽くされてしまうのであった。意図せず立ち上がってしまった姿勢からゆっくりと元に戻るように椅子に腰掛け直し、苛立っていた感情を逃がすためにふうと息を吐く。彼女の声色の感じからして、どうやら嫌いになって電話を避けていたわけではないらしいということは長年の付き合いからよくわかる。逆に、それさえわかれば後はどうでもよかった。


「……ああ。仕事中だけど平気だ。どうかしたか?」


 降谷は落ち着きを取り戻したかのように、まるでビジネス口調でそう尋ね返した。するとなまえは電話口で少しだけ悲しそうに笑い、そしてベッドの上にごろりと横になる。その際、彼女のかすかな吐息と、衣擦れの音が降谷の耳にも聞こえてきて、まるで少年みたいに少しドキリとした。

 しかし、当然なまえの方にそんなつもりはない。彼女はその体勢のままで目を閉じ、降谷にとある「頼み」を口にするのである。


「あのね。行きたい場所があるんだけど」


 それは思ってもみない話の切り出しであった。降谷は少々驚きつつも、もうひとつの顔である安室の「探偵」という職業らしく、その場所がどこだろうかと頭の中で弾くように推測してみせる。おそらく、今まで一緒に行ったことのある場所だろう。東都水族館か、暗がりの海……それとも高校時代に行った場所の、どこかか。もし他愛ない映画やショッピングなんて可愛いことを言うのなら、デートらしくてそれもいいな。なんて。ともかくこの際、会えるのなら場所はどこだってよかった。


「どこだ? どこでも連れて行ってやる」


 惚れた弱みのように降谷はすぐにそう言った。しかし、なまえはそんな彼の考えていた場所をすべて否定するかのように、思わぬ場所を告げたのである。


「        」
「!」
「お願い。どうしても、行きたいの」
「……」


 なまえの悲痛な願いに対して、その場所は、残念ながら降谷の一存だけでは行くことができない場所にあった。でも、なまえがそこに行きたいと願うのは当然だという思いも確かにあって。ずっと疎遠にしていた彼女の気持ちを今は何よりも大切に尊重したいと思い、背後にいた風見にちらりと視線を送る。それに気づいた彼は一瞬びくりとしているようだったが、すぐに何か頼まれごとの気配を察知して、部下としての責任をまっとうするために表情をいっそう固くするのであった。降谷は彼のその顔を見て、すべて任せることを決意する。


「わかった。さっそくで悪いが、明日にしようか。都合はつける」


 降谷は手元のパソコンを切り替えて自身のスケジュールを確認し、明日の夜に入っている予定をすべて別日に移動させた。幸い、急ぎの仕事はなまえからの連絡待ちの期間中にすべて済ませていたために比較的に都合はつけやすい。結果論ながら、明日の予定のために五日間もの徹夜をこなしていたと言ってもいいほどに。

 降谷はその後、なまえとの待ち合わせ場所や時間を詳しく決めてから電話を切ると、おもむろに立ち上がり、先ほど視線を合わせたばかりの風見の方へと歩いて行く。そして彼の肩にポンと手を置き、まるで辞令でも繰り出すかのように言い放つのだ。


「話がある。会議室まで来てくれ」
「は、はい……!」


 風見はわずかに震えながら、鬼気迫る表情をした降谷の後をひとまず追うことにした。その様子を見た他の同僚たちは、心底同情しながら彼を見送る。上司のあまりに神妙な態度に「風見は生贄になったのだ」という新たな噂話すら生まれた。

 しかし、そこで降谷から詳しい事情を聞かされた風見は、彼から持ちかけられた依頼について快く承諾した。その代わりに、降谷に五日ぶりの睡眠を取らせることにも成功し、仲間内ではしばらく風見が「英雄」と呼ばれることになったという話は、また別の機会にしておこう。



case127a. 最期の場所


 翌日。梓不在のため、どうしても外せなかったポアロでの勤務を終えてから、降谷はなまえと約束した米花駅まで車で迎えに出ることにした。それでも事前に決めていた待ち合わせの時間には少し早かったようで、待っている間、喧騒の中でちらほらと幸せそうに歩くカップルを見かけては、何気なく目線だけでその幸せの行く先を見送っていく。いつもなら羨ましいとも思うのだろうが、今の彼の気分的には、少しその気持ちも落ち着いていて。これからなまえに会えるのは確かにとても嬉しいことには違いないのだが、向かう場所のことを考えるとわずかに胸の痛みがそれを上回ってしまっていることに、降谷は自分自身で気がついていた。

 そうしてしばらく「その場所」にどうしようもない思いを馳せていると、駅の改札口があるところとは反対側の方から、コンコンと助手席の窓をノックされる。そこにいたのは、珍しく上から下まで黒を身にまとった旧友の工藤なまえだった。


「お邪魔します」
「……どうぞ」


 降谷は思いがけない彼女の姿に、かなり驚いていた。律儀に挨拶をして車に乗り込んでくるなまえを頭の先から足先まで一瞥し、その悲壮感さえ漂う喪服の雰囲気に圧倒されてしまう。黒のブラウスに、同じく黒の膝丈のプリーツスカート。表情もどこか頼りなくて、とてつもなく寂しそうな顔をしていた。


「悪い、僕も喪服にすればよかった」
「ううん。私がそうしたかっただけだから」


 彼女は足元に紙袋を置き、テキパキとシートベルを締める。降谷はそのあまりに触れ難くて美しい横顔に向かって一応、あらかじめの注意事項を口にした。


「昨日は言わなかったけど、正直、僕だけでそこへ連れて行くのは少々リスキーなことなんだ。治安も悪いし、お前に何かあってからじゃ困る」
「うん」
「そう思って、今日は手隙の人間を数名募って周囲の警備に当たらせているんだ。私用で使うだなんて本当は絶対駄目なんだけど、みんな理解して有志で集まってくれた。だから、時間は十五分程度しか取れない」
「わかった」


 降谷は意思の強そうななまえの返事を聞き、自分の気持ちもいっそう固くしていざ車を発進させた。昨日、風見に頼んだのは、もちろんその警備について。これから自分たちが向かう「その場所」に組織の人間が出入りしていないとも言い切れないし、それに、なまえはなぜかベルモットと顔見知りで彼女に命を狙われたことがあるとも聞いた。その理由までは知らないが、用心するに越したことはないだろう。

 それからなまえはまるで遠くだけを見つめるように、流れ星のように次々と消えていく数多のネオンをその瞳に写し続けていた。口元は結んで。じっと、何かを耐え忍ぶように黙ったまま。不安からか、膝の上で頑なに手を組みしめていて、その姿は服装とも相まって、まるで敬虔に祈りを捧げる修道士のようにも見えた。

 何もしゃべらないなまえに彼は再び口を開く。今日は素直に、直接、礼を言うために。


「なまえ」
「?」
「今日はありがとう。僕と一緒に、そこへ行きたいって言ってくれて」


 自分ひとりでは、到底、来られなかっただろうから。そう言うと、なまえはまたもうっすらと笑う。そして、悲痛にもこう返すのだ。


「私も。零と一緒に、会いたかったから」


 零に会いたかったから、ではなく、零と会いたかったから。その言葉に降谷は胸が張り裂けそうになる。できることなら、永遠に、あの日の三人でありたかった。

 これからふたりが会いに行くのは、もちろんこの世でもっとも大好きで、最高の大親友。諸伏景光。「ヒロの最期の場所」それが、なまえが彼に連れて行って欲しいと頼んだ場所であった。

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