128a...

 降谷のRX-7は、今にも朽ち果てそうな一棟の廃ビルの前で静かにライトを消して停車した。ここに来る途中ですれ違った一台。そして前方に一台。裏口には二台。頼んで手配していた公安の車が、暗黙なる厳戒態勢を張って停まっている。事前に受けた報告では、風見が指揮のもと、降谷たちの到着前に数名が当該の廃ビルに入り、どの部屋も無人であるということは既にチェック済みであるという。何から何まで本当に助かる。優秀な部下を持って僕は幸せ者だなと、やんちゃばかりしていた警察学校時代では考えられないほどいつの間にか偉くなってしまった自分の立場を、彼は自嘲せざるを得なかった。

 きっちりと自分が出した十五分という条件を彼らにも明示して厳守するために、降谷はスタートの合図として一度、車を降りてから風見に連絡を入れることにした。その間、喪に服しているなまえはというと、持参した紙袋を片手に、通話が終わるのを彼のすぐ隣で待っている。けれど、思わず降谷の服の裾を少しだけ握ってしまったのは、彼女が予想していたよりもそこがあまりに寂しい場所だったから。彼は電話をかけながらなまえの指先が小刻みに震えているのを感じ取り、もしもこの場に監視している者が誰もいなければ、今すぐにでも抱きしめてやりたい衝動に駆られていた。


「じゃあ、今から十五分。よろしく頼む」


 手短に電話を切り、震えるなまえに視線を配る。目が合った彼女の瞳は不安と悲しみで大きく揺れていた。


「階段だけど大丈夫か」
「うん、大丈夫」


 そう問うてはみたものの、なまえが「大丈夫」以外に言葉を返せないということは、長年付き合ってきた彼女の性格上わかっていた。だから降谷は唇を噛み締めるなまえに向けて、自然と自分の手を差し出す。それは一切下心などない、とても自発的な行動であった。


「手」
「え?」
「繋ぐか? 怖いんだろ」


 なまえは一瞬、突然の提案を戸惑っているようであった。しかし、迷いながらもその手を取ってぎゅっと握りしめると、祈るように一緒にきつく目を閉じる。その様子があまりにも愛しくて。降谷はついじれったくなって、その指を絡めて自分の方に軽く引いた。


「行こう」


 ヒロに、会いに。そんな言葉になまえも頷く。

 寂れた建物に優しい月光が落ちる。そこに、手を繋いだふたりの影が細く長く伸びていた。



case128a. レスト・イン・ピース


 そうして最初はなまえの手を果敢に引いていた降谷であったが、屋上に近づくにつれて、次第に彼はあの日に遡るかのような錯覚に陥るようになっていた。景光から受けた連絡。無我夢中でアクセルを目一杯踏み込んで向かった足。弾むようにうるさい自分の息と、薄い鉄板製の階段を駆け上がる軽い音。あと数段というところで、まるで希望という名の風船を破裂させるかのような銃声が聞こえて飛び出せば、そこには既にぐったりと血に濡れた親友と未来永劫に忌むべきあの男がいたのだ。

 降谷にはもちろんわかっていた。ライが直接、景光に手を下したわけではないということを。しかし、より上層部へと上り詰めるために、まるでその死を利用するような形で裏切り者の始末をしたという報告を組織にした彼のことを否定しなかったのは、確かに黙って見殺しにしたという面では殺したと言って相違ないからという意味合いもあったが、一方で、奴がそう言うならそれでもいいと思えたからである。景光が自決したことを誰かに説明したところで、ライの昇進云々の妨害はできても、決して親友が帰ってくるわけじゃない。なら、そのライ自身が「殺した」と言うことでそれが本当になるのであれば、景光の死に間に合わなかった不甲斐ない自分を昇華して、より強く奴を憎み続ける理由になるのではないかとも思えたのだ。まるで身代わりみたいに。

 だからこそ、そうして景光を殺したことになっている赤井となまえが繋がっているのではないかという恐ろしい考えは、どうしてもクリアにしておかなければ済まされない問題であった。じゃないと、あの日に死んだ景光があまりに浮かばれない。彼が心臓と一緒に撃ち抜いた携帯電話には、高校時代に撮ったなまえの写真も入っていたわけで。音信不通にしてからの長期間、何件にも渡る着信が端末の履歴に残っていたことを踏まえて考えてみても、それが組織の手に渡れば、あらぬ疑いをかけられて彼女も殺されてしまう可能性すらあった。それを景光が未然に防いだというのに、そんな彼を殺した赤井と交際しているかもしれないだなんて、絶対に許せるはずがない。

 でも、降谷は思うのだ。わずかに腑に落ちない点もあるとはいえ、その赤井となまえとの間に何の繋がりもないと判明した今。まるで抜け駆けでもするみたいに自分だけが景光抜きでなまえと関わり合いを持っても本当にいいものか、と。彼が身を呈した命の上で。こんな、不甲斐なく後悔ばかりしている自分が。

 そう思うと途端に胸が痛くて、降谷は一段後ろから健気についてくるなまえの小さな手を今一度きつく握り絞めた。今の彼の心の中には、身ごと巣食うようなはっきりとした「恐怖」がある。萩原が死に、松田が死に、景光、伊達にまで先に逝かれてしまった。初恋の女医も。誰も。もう二度と降谷の元には帰らない。誰も守れない。悔しくて、巻き戻せない過去を何度も強く後悔した。

 今だってそうだ。本当はこんなに暗くて寒くて寂しい場所なんかじゃなくて、もっと陽だまりみたいな場所で再会したかった。誰も欠かすことなく、三人揃って。笑顔で。

 降谷はそんな悔やみ切れない想いを抱きながら、それでもなまえの希望を叶えてやるために黙々と階段を上っていった。そして、景光が永い眠りについた屋上に着いてしまう前に、最後に、こう思う。

 彼は恨んでいるかもしれないな、と。組織や赤井のことではなく、誰かのせいにしながら生き続けている僕のことを。そう思うから、ここへ向かう途中の車内でなまえにその想いを吐露するかのように、自分ひとりでは到底来られなかっただろうと言ったのだ。

 あの日のヒロに、怒られるのが怖くて。


「ねえ、零」


 そんな中、静寂を割って声をかけてきたのはなまえの方であった。彼女は何となくその握られた手指から察していたのである。降谷が思い詰めているということを。

 考えてみればそれは当たり前のことであった。ここは彼にとって、唯一無二の親友を目の前で亡くした場所。なまえが言い出さなければもう二度と立ち入りたくなかったかもしれないし、目に映るものすべてが思い出したくない記憶を誘発するものだらけなのかもしれない。

 だからこそなまえは、死んでしまった、今の景光のことを思い浮かべたのだ。少しでも、彼の死と向き合う降谷の心が軽くなりますように、と。祈りを込めて。


「ヒロは向こうで、会いたい人に会えたかな」
「……」
「私、実はヒロの過去のこと何も知らないの。交通事故でご両親が亡くなったっていう話は聞いて知ってたんだけど、何となく、それだけじゃない気がして」


 そうか、なまえは知らないのか。降谷は納得するようにそう思ったが、生前隠していたらしい彼の意を尊重するためにも、あの事件についてはあえて何も語らない。話して楽しいことでもないからなおさらだ。

 でも、なまえは教えて欲しいとも言わなかった。ただ、自分が聞いて知った事実だけを元に、頑なに強がって振り向かない降谷の背中にこう告げるのだ。


「零もそうだけど、ヒロもたくさん秘密を抱えてすごく辛かっただろうから。今はもう怖がらずに、安心して、笑ってたらいいね」


 その一言で降谷ははっとして、親友の性格を今さらながらあますところなくすべて理解したような気がした。人一倍に死の恐怖を知っていたはずの景光が自らの手で死を選んだこと。それは単にお互いが決めていた暗黙のルールに則ったからじゃない。大切な人を守るためなら、彼は「命すらも惜しくはない」ということをわかっていたのだ。それも、降谷以上に。

 揺るぎないその信念はおそらく、降谷と出会う以前の景光の身に起こったあの陰惨な事件が起因しているに違いなかった。それまでの彼がどのような性格だったかは知らないが、そのとき景光は、守られるということを身を持って知ったのだと思う。その経験が、誰からも愛される温厚で博愛的な彼を形作ったのだ。

 そんな悲しい事件のことも含めて、なまえの言う通り、抱えていた大きな肩の荷が下りて景光もやっと楽になっただろうなと思うと、長い時間を経てようやく彼が報われたような気がした。怒りや悲しみに囚われて誰を憎むかばかり考えていたせいか、降谷はこんなに大事なことに今まで気づけていなかったことが、親友としては情けないなと思う。

 そして、そんな降谷を見て、景光は。


「笑ってるよ、たぶん」


 やはり降谷は振り向かずにそう言った。彼の胸の内では、出会ったばかりの頃の幼い景光が屈託なく笑いかけている。「怒ってるわけないだろ? ゼロ!」と。




 そうこうしているうちに、ふたりはとうとう階段を上り切って吹きさらしの荒廃した屋上に到着した。降谷は手を繋いだまま階段正面の突き当たり付近まで、優しく寄り添うように彼女を導いていく。何の変哲もない無機質な冷たいコンクリートの壁ではあるが、その前に立つと、なまえはまだ何も言われていないのに切なさで身が締まる思いがした。頬を打つような風が強く吹いている。

 消えるほどの小さな声で、降谷がぼそりと呟いた。


「ここだよ」


 ここに座るようにして、ヒロは死んでいた。飛び散った血痕はさすがにもう残ってはいないが、今でもあの凄惨な現場は降谷の瞼に焼きついている。

 なまえはそっと繋いでいた手を離し、その場でしゃがみ込んで慈しむみたいに目を細めてその壁にそっと触れてみた。それはなぜか、とても神々しい行為のようにも見えた。彼がそこにいるわけもないのに、まるで眠る景光の頬を撫でているのではないかとも思えるほどで。降谷は堪らず、その悲愴感から視線を逸らす。


「寒かったね、ヒロ」


 なまえはそう言って、ちょうど景光がもたれて死んでいた場所に今度はすがるように額を当てた。寒かったね。痛かったね。でも、やっと会えたね。うわ言のようにそう言って寄り添い続けるか細い声が次第に歪みを帯び、泣いているのだと知る。その姿が本当にいたたまれなくて。降谷は思わず彼女の隣にしゃがみ込み、気づけばその肩を抱き寄せていた。

 三人はそこでやっと再会を果たしたのであった。景光は揃わなかったけれど、確かに会えた。あまりにも幸せで、あまりにも悲しいひとときであった。

 時間がわずかしかないことをあらかじめ理解していたなまえは、しばらく泣いた後、手の甲で強引に涙を拭うと、持ってきていた紙袋からあるものを取り出す。車に乗ったときから降谷はその香りで薄々気づいていたが、それは景光らしい清廉さを持つ、青と白で統一された綺麗な花束であった。

 なまえは降谷に尋ねる。


「お花は置いて行かない方がいい?」


 しかし、降谷は首を横に振る。


「いいよ。もし組織の人間が来たとしても、僕が手向けたことにするから」
「ありがとう」


 そして、ともにその花を壁に沿うように手向けると、そこでようやくふたりは手を合わせて黙祷を捧げた。

 どうか安らかに。生まれ変わってもまた会おうね。今度もこうして、絶対に見つけるから。




 階段を下りきって風見に終了の知らせを入れる頃には、ちょうど宣言通りの十五分が経つ頃合いだった。帰りは一貫してどちらからも話さず、無言で。でも手だけはずっと繋いだまま。やはり一段遅れてついてくるなまえが静かに泣いているらしいということがわかって、降谷は優しさから、彼女の泣き顔を見ないように何も気づいていないふりをし続けていた。

 降谷がなまえを車に乗せて再びエンジンをかける。


「今日はもう送るよ」


 時刻は午後九時過ぎ。好きな女を帰してしまうにはまだ早いのかもしれないが、泣き腫らした目をした彼女の気持ちを思うと早く休ませてあげたい気持ちが勝ってしまう。そんな気遣いから、降谷はやや急ぎ気味にアクセルを踏み出し、彼女の住む米花町へと戻るために車を走らせ始めた。

 しかし、それに一度頷いたなまえは、しばらく無言で助手席で揺られていたかと思うと、思わぬ話を切り出し始めるのである。


「あのね、零。私、昴くんとは別れたよ」
「……」
「一応、彼の方から振られたんだけど。私からもちゃんとそれに対する返事はしたし、結局のところは、おあいこみたいな感じになるのかな」


 降谷にとってその事実は、とっくに梓から聞いて知っていたことであった。どちらから別れを切り出したのかや、返事をどうしたのかに至るまでの詳しい事情は知らなかったが、なまえがあの大学院生の沖矢昴との交際にピリオドを打ったという話はもう既に知っている。

 だから、今、降谷が驚いているのはその事実にではない。

 道はまだ、人気の少ない路地を抜け切る前であった。降谷はその言葉を聞いて、勢いよく車を停めると、瞬時に自分のシートベルトを外す。そして、なまえをどこへも逃さないように彼女の顔の前に腕を伸ばし、助手席の窓にわざとらしく音を立てて片手をついた。そして、これまで以上に真剣な顔つきで彼女にこう詰め寄るのである。


「どうして、今、僕にそんな話するんだ?」
「え?」


 そう言ったかと思うと、降谷はもう我慢の限界かのようになまえに感情をぶつけるような激しいキスを強引に迫った。しかし、生憎、なまえが顔を背ける方が早くて、そのキスはやわらかい彼女の頬の辺りに不時着してしまう。でも、それでもよかった。降谷はそのまま唇を滑らせて彼女の耳に吐息をかけながらきつく抱きすくめるのである。呼吸がくすぐったいらしく、わずかに抵抗するような彼女の身じろぎすらドキドキした。

 なまえが自ら繰り出した恋人との別れ話は、彼女に長年想いを寄せ続ける馬鹿な男にとっては勘違いさせるに十分すぎるものであった。せっかく早く帰すつもりだったのに、そんな話をして、僕にどう返して欲しかったんだ? どんな言葉を期待しているんだ? その答えが聞きたいんだ。その可愛い口で。夜通し。何度も。


「そんなの、お前の口から聞いたらもう帰せるわけないだろ」


 アイスブルーの瞳が揺れている。なまえはもう逃げ出せない。

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