116b...
来葉峠からの帰宅後、それまで懸命に姉を看病していたコナンと入れ替わりになるように赤井はなまえの部屋に立ち入り、彼女が眠っているベッドに腰掛けて愛しげにそのやわらかい頬を指先でなぞった。バーボンがこの家から去った後、モニタリング用に使っていた部屋で突然、椅子から転がり落ちるように倒れ込んだというなまえ。一時は四十度近い高熱を出して意識もかなり混濁していたようだが、今はどうにか解熱剤を飲んで落ち着いている様子である。けれど、彼女の体力を蝕んでいるこの厄介な風邪もさることながら、そもそもそれを引き起こした原因であるなまえの大きな心労は、誰しも想像を絶するものだっただろう。予感こそあったのかもしれないが、なまえにとってベルツリー急行での事件以来、憎むべき存在として認識していたはずの組織の一員・バーボン。その彼が、実のところ正義に生きる公安警察のひとりで、高校時代の大切な友人だったとわかったのだから。それまで張り詰めていた感情がプツリと切れてしまうのも、仕方がないことなのかもしれない。
赤井はその指先を下方に沿ってなぞりながら進め、彼女の左首筋のあたりに到達すると、そこでぴたりと手を止めた。あの男がかつてここに残した、赤井への宣戦布告の意味を示す堂々とした痕。今はもうすっかり消え果ててしまっていたが、あれをつけられて以来、彼女が無理をして取り繕う機会が増えたと思う。それはもちろんバーボンが原因であることは言わずものがなではあるが、そうして彼の正体がわかっていたくせに自分のエゴで真実を話さなかった赤井にも非があると思えて。確かにこの戦いには、江戸川コナンのおかげで見事なまでに華々しい勝利を収めたが、その代償として失ったものはあまりにも大き過ぎたと赤井は思う。なぜなら、彼はもう、自分がなまえの傍にいることが許されないとわかっているから。
彼女の大切な親友の命を取り溢した運命が、今になって、こんなに身を切るような結果を招くことになるとは。過去、誰が予想できたのだろうか。
「れ、い……零……、零っ……」
眠っている彼女がうわ言を呟き始めたのは、そんなときであった。一体、どんな夢を見ているというのだろう。何度も必死に彼の名を呼び続ける彼女のその声は、こちらが耳を塞ぎたくなるほど切なげで、愛しそうで。まるで「零」と呼ばれた彼のことを心の底から強く求めているようにも聞こえ、そのあまりにまっすぐな想いが胸を突き刺す。そして、赤井はその胸の痛みですべてを思い知るのだ。やはり自分は、本当の意味ではこの戦いに負けたのだ、と。
それと同時に、本気で嫉妬してしまうくらいには羨ましかったのだ。これだけ散々、彼女のことを泣かせて、傷つけて、嘘をつき続けていた男が。結局、赤井が取り入る隙間もないほど想われているという事実が。
そうして、しばらく続いたうわ言を聞きたくないとは思いつつも、これが自分にとっての業なのだと悟って、赤井は耐え忍ぶように黙ってその声に耳を傾け続けていた。でも、せめて愛しいなまえには触れていたくて。安心して彼女が眠れるように、目を細めて優しく頭を撫でてやる。どうか夢の中でも、現実でも、もう二度と彼女が友達から置いていかれませんように。そんなことを神に祈るような思いだった。
やがて真夜中の二時半を過ぎて、ようやくなまえは目を覚ました。けれど、たとえ目が開いても。彼女はまっすぐ天井を見据えているだけで、こんなにも傍にいる赤井には気づかない。まるで最初から眼中にもないかのように。
だから赤井は緩やかに口を開く。来葉峠に向かう前に工藤邸のキッチンにてなまえに告げていた聞いて欲しい話を。ふたりの「終わり」を口にするために。
「おはよう、目が覚めたか?」
普段と何ら変わらない様子を取り繕いながら、赤井はそう言った。けれど、内心ではぼんやりと彼はこんなことを思っている。自分は今、どんな顔をしているだろうか、と。
せめて最後くらい、愛しい女に向けてとびきり優しい顔ができていればいいんだがな。
case116b. 負けたときはいっそ清々しさを
翌日の朝。割に早い時間帯からチャイムが鳴り、既にすっかり板についていた沖矢昴の変装を施し終えていた赤井は、その来客を出迎えるために玄関の扉を開けた。今日はこの工藤邸に、ふた組の客が来訪することになっている。そのうちのひと組は後に来る予定のFBIの同僚。来葉峠では息つく暇もないほど緊迫した時間を共有したジョディとキャメルである。
そしてもうひと組こそ、今しがた来たばかりのこの人物たち。にんまりとした悦っぽい笑顔を向けている工藤有希子と、なまえの看病後は隣家である阿笠邸で夜を過ごした江戸川コナンであった。もちろん、赤井となまえの間に起こった未明の出来事などまだ何も知らない彼らは終始にこにこして、はつらつとした朝の挨拶を気軽に交わす。
「シュウちゃん、おはよう! 昨日はお疲れ様!」
「おはようございます、有希子さん。それにコナンくんも。昨日はいろいろ助かったよ」
「えへへ、どういたしまして……」
赤井に褒められたコナンは嬉しそうに頭を掻いてはにかむ。続く有希子も目一杯の嬉しさをその表情に滲ませている様子で、ふたりはさっそく自宅でもある工藤邸に足並み揃えて入室した。きっと計画が無事に終わったことを、相当、喜びたい気持ちでいっぱいなのであろう。ある意味、コナンが占い師よりも正確に物事を見通して、筋書き通りに作戦を済ませてしまったのだから。
赤井は家主である彼らを差し置いて、まずは一旦、洗面所のある方へと率先して歩いていくことにした。昨日、バーボンとの直接対決があったせいで忘れかけていたものの、もとより今日は沖矢昴としての変装を直接有希子にチェックしてもらう最後の日でもあったのである。マカデミー賞という世界的に名誉のある場所柄、その舞台に登壇する緊張感は計り知れなかっただろうし、それに慣れないシークレットブーツや変声機の類で有希子の疲労はこの作戦に関与した人物の中で誰よりも大きかったことだろう。故に、変装チェックなどという軽い予定など延期にして、そのままアメリカにいてくれても構わない、と赤井は事前に気を使って連絡したのだが、彼に熱を上げている有希子がせっかく赤井に会えるこの機会をわざわざ逃すわけもない。それに、つけ足すとまるでついでのような感じにはなるが、優作から聞いていた娘の体調不良も、母としては本当に心配だったのである。
「いや、ホント。こっちはこっちでいろいろ大変だったけど、なんとかみんな上手くいったみたいで安心したわ!」
「ええ。これも有希子さんのおかげですよ」
「うふふ、そーお?」
そうやって優しくお世辞を言ってのける未来の息子にデレデレしている母を、実の息子であるコナンはジト目で下から睨み上げる。「この母親……」という絞り出すような呆れ声まで聞こえてきそうだが、まあ姉のこともあるし、おそらく一生このまま有希子は赤井に対して締まりなくうっとりしてしまうのだろうなと思う。それも、娘を差し置いてでも。
実はここに来る前。わずかながら工藤邸の前で、コナンと有希子は久しぶりに親子水入らずで立ち話をしたのであった。なまえの容体のことはもちろん既に優作を介して有希子の耳にも入っていたが、彼らがそれ以上に気にかけていたのは当然ながら赤井となまえの恋の行方である。コナンが立てた作戦が無事に成功を収めたことにより、彼らの交際関係上、最も大きな障害であったバーボンという男が尻尾を巻いて立ち去ったことで、これでもうふたりを隔てるものは何もなくなったと言ってもいいだろう。つまり「このまま結婚まっしぐらなのでは!?」と勝手に彼らが盛り上がるのは、これまでまったく男っ気のなかったひとり娘を持つ一家の話題としては実に健全なものだったのである。
赤井が向かった洗面所に行く前に、有希子はお節介ながら先にキッチンに入って冷蔵庫の中身をチェックした。前回と名目こそ同じではあるが、今日は改めて新一もいることだし、ふたりの結婚祝いを兼ねた宴席のために何か軽く食事の用意をしようと思い立ったためである。また、後に来るという未来の息子の同僚。FBI捜査官たちへの心ばかりのもてなしの意も加えて、みんなでどんちゃん騒ぎも悪くはない。予定的に飛行機の時間までは短いが、有希子は今日というこの日に、何が何でも彼らの祝いを込めたパーティを開きたかったのである。
「でも、シュウちゃん! これでもうなまえちゃんとの結婚も安泰ね!」
有希子は割と大きく通るような声で、洗面所に向かった赤井にそう声をかけた。傍にいたコナンも同調するようににこにこと笑っていたが、当の赤井からの返事はない。故に、有希子は続ける。
「だって。これで晴れてふたりの間には何の障害もないじゃない! ふたりのラブはもう誰にも止められな……」
しかし、その話の途中ですかさず赤井がキッチンを覗き、口を挟む。
「そのことなんですが、こちらからご報告が」
「え?」
ご報告。そう言われた瞬間、脳内が花畑であった有希子とコナンの脳裏には同時に五文字の言葉が思い浮かぶ。プロポーズ。きっと、それしかないだろう。おそらく赤井は来葉峠からの帰宅後に、なまえに正式なプロポーズをしたのだ。結婚してくれ、と。
しかし、そんな淡い色をした彼らの期待はすぐに打ち砕かれることになった。なぜなら赤井の口からは、信じられないような言葉が発せられたからである。
「実は、なまえとは別れました」
「え?」
ええええええ!? と、怒涛の戸惑いの声が、工藤邸どころか近所全体に聞こえそうなほどの大声で、絶叫みたく響き渡る。けれど、いまいち当人である赤井はけろっとしているので、その話がふたりをびっくりさせるための悪い冗談なのではないかと疑うほどであった。
「う、嘘でしょ? なんで? 私たち、彼との勝負に勝ったのよ……?」
「そ、そうだよ……! 安室さんとのことなら赤井さんがそんなに気にしなくてもっ……!」
「いや、彼のことだけを気にしているんじゃないんだ。いろいろと思うところがあって、俺の方から別れを告げたんだよ」
そのいろいろの中には、何が含まれているというのか。さすがのコナンでもその謎は解けぬまま、とりあえず「どうしよう」と、まるで伺い立てるように隣にいた有希子に視線を配る。しかし。
同じ米花町でふたりのことを物理的に間近で応援していたコナンよりも、遠距離にいた有希子の方がなぜか憔悴具合がすごかったのであった。いや、これはもはや石化と言ってもいいかもしれない。娘の結婚相手としては、これ以上、申し分ないと思っていた彼。その赤井から突然、なまえが別れを切り出されたという事実を、まるで自分のことのように有希子は微塵も受け入れられないでいたのである。
すると、そんな出来事などまったくもって知らない平和的なチャイムが、再び工藤邸には鳴り響いた。きっと赤井があらかじめ呼び出していたジョディとキャメルが、予定よりも早くやってきたのだろう。赤井改め沖矢は、先ほどと同様、いつも通り来客を出迎えるために平然と玄関に出ようとしたが、その背中を先に呼び止めたのはコナンの方であった。
「赤井さん!」
「……」
「なまえ姉ちゃんのこと『任せろ』って言ってくれたのに、なんで……?」
その少年の顔は、まさに悲痛と呼ぶのが正しかった。けれど、赤井は単にすまなさそうにするだけで、やはりその理由をきちんと口にするわけではない。それも当たり前だろう。なまえが心から慕っていた親友のひとりを自分が見殺しにした、なんて。口が裂けても言えるはずがなかった。
「悪いな、ボウヤ」
君の大切な姉さんを守ってやれなくて。赤井は小さな彼に視線を合わせるために一度しゃがみ込み、その頭をひと撫でする。そして何事もなかったかのように、再び玄関の方へと歩みを進めていくのである。けれど、赤井自らが別れを切り出したという話にもかかわらず、その後ろ姿にコナンが見たのは「喪失」という寂しげな言葉だけであった。