117b...

 数日後の工藤邸。まるで潮が引くようにすっかり熱も冷めた後、静かすぎる朝がこんなにも寂しいものだということをなまえは身に沁みて思い知ることになった。自室のベッドから気怠く上体を起こし、まるで確かめるみたいに耳を澄ませてみても、いつまでも下階から聞こえてくる音は皆無。以前なら、赤井が朝からシャワーを浴びている音や、朝食を用意してくれている音。ミルでコーヒー豆を挽く小気味いい音に、たまに彼が好んで聞いているようであった英語のラジオや音楽が、キッチンからは賑やかに聞こえてきたはずであった。一緒に暮らしていた弟の新一が幼児化して以来、つい慣れきってしまっていたひとり暮らしの静寂。それを突如として壊してしまう彼のそうした生活音に、なまえも最初こそ戸惑ってはいたものの、いつの間にかその音は自分がひとりではないことを教えてくれる掛け替えのないものになって。特に赤井と交際を始めてからは、その音をよりいっそう愛しいとさえ感じるようになっていたのである。

 けれど、あの日。限りなく黒に近い存在であった安室が、本当は降谷だと暴かれた日を境目にして。この家の中から赤井秀一という名の男の姿は、なまえがいつ起きても眠っても、まるで透過し尽くされてしまったかのように彼女の目の前からプツリと消え去ってしまったのであった。

 しかしそれは何も、彼が無断でこの家を去ってしまったという意味ではない。

 なまえは自身の携帯電話を片手に、メールチェックをしながらのそりと自室を出た。そして、パジャマのまま整然とした洗面所へと向かう。生気のない、情けない顔を洗い流しに来たわけだが、そうするより前に目に止まったのは、流し台の脇にある何の変哲もないプラスチック製の歯ブラシ立て。

 そこに立てられていたのは、なまえが使っている黄色の歯ブラシと、赤井のものである青い歯ブラシであった。位置的に使った形跡があるので、この家には一応、今も彼は継続して住んでいるということになるのだろう。他にも食器のわずかな位置の変化や、煙草の残り香などで、なまえはこの家でふいに彼を感じることがある。その姿はまったく見えなくて、まるで幽霊と同居しているようだと思ってしまうほどだが、諜報員として組織で長年働いていたFBIの彼になら、顔を合わせないように気配を残して消えるなんてことは実にお手の物なのかもしれない。

 つまり、彼に別れを告げられたあの日以降、なまえは赤井から一方的に避けられていたのであった。おそらく彼女が起きる前に赤井は起きて、寝た後に帰って来る。以前、何者であるかを誤魔化していた沖矢に対して激怒して避けていたなまえと同じように、今度は彼の方がそんな無理のある生活を続けているに違いなかった。

 けれど、それは当然のことなのだと彼女は思う。安室が降谷であることを知った今でもまだ彼のことを見捨てられずにいることが、何よりもその証拠。そんな態度だから、ついにあの優しい赤井をも呆れさせて、愛想を尽かされてしまうに至ったのであろう。だから別れを切り出され、こうして無様に避けられることになった。その結果を招いたのは他の誰でもない自分であり、もう二度とあの愛しい時間を取り戻すことはできないのだとも思う。

 自嘲気味に鏡の中の自分を見つめて、赤く腫れた目にうんざりしてしまう。こんな顔をして、何を被害者面しているというのか。傷つけたのはこっちの方なのに。


「自業自得だな」


 なまえはそうひとりごちて、赤い目を洗い流すために水を出そうとレバーに手をかけた。しかしその瞬間、傍に置いていた携帯電話が激しい音とともに震えて着信を伝える。

 そこに表示された名前は、世良真純。奇しくもこのタイミングで、気にしている彼の実妹からの連絡であったのだ。



case117b. 静かな朝、赤い目の私


 突然、世良から「会えないか」と誘われて、なまえは彼女が数日前から滞在しているというホテル・ハイド・プライドの高層階にあるラウンジを訪れていた。杯戸町にある数多の宿泊施設の中でも、かなりランクの高いホテルであるらしいことはその名前からしても伺える。周囲も品のよい紳士淑女で溢れており、医務院から直接バイクで来たなまえのオフィスカジュアルな服装でさえ、はっきり言ってここではかなり浮いていた。だが、その後しばらく気まずい思いを抱えながら大人しくラウンジ内で待っていれば、にこにこと悪びれずに遅れてそこへやってきたのは癖っ毛のあるショートカットの彼女。世良は、なまえ以上に一切、服装に気を配るということを知らないらしく、Tシャツの重ね着にジーンズという下手をすれば店側から立ち入り禁止を下されそうなほど極めてラフな出で立ちで堂々と手を振ってくるものだから、なまえは驚きとともに少しだけホッとしてしまう。失礼ながら、浮いている数が一から二になるだけで非常に心強いと思ってしまったのだった。

 そんななまえの様子を見て「どうしたんだ?」と何も気づかずに不思議そうに尋ねてくる世良に対し「なんでもないよ」と笑顔で言い返して。赤井と似ているとは到底言い難い、この飾らない空気感こそが彼女のいいところだなと改めて思い直し、なまえはなんだか本当の妹を見るような目つきで彼女のことを微笑ましく見つめてしまうのであった。


「にしても悪かったな、急に呼び出して。ほんの数日前にここのホテルに移ってきたんだけど、ボクだけじゃ入れないくらい雰囲気あるラウンジだからさ」
「ううん。むしろ誘ってくれてありがとう。でも、本当にここでよかったの? 世良さんが来る前にちょっとだけメニュー見てたけど、随分、高いみたい」
「いいのいいの! 今日はこのためにお小遣いもらってきたし!」


 そうなんだ。なまえはその世良の発言に相槌を打ちながら、監察医としての癖で、つい余計なことを考え込んでしまう。一体、彼女は誰からお小遣いをもらったのだろうか、と。言葉の響きから真っ先に考えられるのは世良の両親だが、それはつまり赤井の親ということでもあり、彼の口から両親の話を聞いたことはそう言えば今まで一度たりともなかった。世良が持ち家ではなくホテル暮らしということを考慮して、なまえは彼女が単身で親元を離れて住んでいるものだと勝手に思い込んでいたが、もしかしてご両親も一緒だったりしてと思う。もしそれが想像などではなく本当のことだとしたら、赤井と同居しているとはさすがに言えないまでも、年の離れた世良の友人のような存在として、きちんとした挨拶をするために手土産のひとつでも持ってくればよかったかもしれないな、と律儀な彼女はそんなことを思っていたのである。

 しかし、そうしてなまえが悶々と考え込んでいるうちに、世良は今日ここに彼女を呼び出した理由のうちひとつをけろりと話し出す。


「それより、蘭くんとコナンくんから聞いたよ。例の大学院生とは別れたって」
「……」
「だから、元気ないんじゃないかと思って心配でさ。どうしても気になって呼び出してみたら、やっぱり予想通りって感じだな。今のなまえさん、全然ボクの好きな顔してないし」


 その無邪気な発言があまりにも刺さって、なまえは思わず口ごもってしまった。世良の好きな顔って、どんな顔だったのだろう。そして、自分は今、どんなみっともない顔を彼女に晒しているというのだろうか。そう思うと、なまえは自分のことが途端に情けなくなってしまう。

 一方、その様子を見ていた世良は眉間にしわを寄せて、いかにも少女らしいむすっとした顔をした。それは何も、今のなまえの暗い顔が本当に気に入らないからというわけではない。まるで姉のように慕っている彼女の表情を、こんなにも曇らせる原因を作ったあの男が単純に許せないだけなのである。


「一応聞くけど、本当にあの昴って人が大学で好きな女の子でもできたってオチじゃないよな?」


 世良はあろうことかなまえを振ったという不届き千万な沖矢昴に対する怒りを寸分も隠さずに、何とも不満そうにそう尋ねた。しかし、その発言はあまりにも的外れで、なまえは少しだけ笑ってしまう。薄笑いながらも、笑える元気がまだ自分の中にあったのかと思うほどに。


「ううん、違うよ。私が……」
「え?」
「私が、あまりにどっちつかずだったから……」


 そう言ったなまえの声は激しく胸を穿つような悲痛さを孕んで、最後はもう消え入りそうなほど小さくなっていた。そう、あまりにどっちつかずで。思えばずっと曖昧な態度を取り続けていたのだと思う。赤井に対しても、降谷に対しても。

 だからこうして孤独を感じていることは彼らを傷つけたことに対する当然の報いであって、悲しいと感じる資格はないのだと彼女はそう思っていた。今後はこの孤独と喪失の中に身を置いて、誰も傷つけないようにひとりきりで生きていくべきなのだろう。赤井にも、降谷にも会わずに。ずっと、このままで。

 そんななまえを見た世良は、思っていたよりも彼女が深刻に憔悴していることを感じ取り、少し戸惑っているような様子であった。しかし、なまえの方もこれ以上暗い顔をして、世良に余計な気を使わせてしまうのが嫌で。ならいっそ、身勝手ながら正直に話せる範囲のことは吐き出すように話してしまった方が楽になれるだろうと思い立つ。今日、彼女がここに誘ってくれたこともある意味では運命のように思いながら、なまえは当事者の妹に対してそのことを伏せつつ、静かな口調で語り始めるのである。


「ねえ、世良さん。よかったら、少しだけ聞いてくれる? 私の昔話」


 艶めかしい天然木のテーブル。その上に控えめに置かれたろうそくの灯りが、ほのかにちらちらと揺れていた。なまえがそうして話し始めるのは彼女が世良と同じくらいの年齢だった頃の話。高校時代に出会った、降谷と景光のことであった。




 しかし、そうは言っても、深く話せるような内容ではないことは百も承知であった。話せたのは精々、音信不通になっていた高校時代の同級生のうちのひとりと、最近になって再会したこと。沖矢と交際中も、その人物のことをずっと忘れられなかったこと。そしてそのせいで、彼に愛想を尽かされたということ。以前、コナンが誘拐されたときは暗がりの中で別々の事情聴取だったということもあり、降谷と世良がまだ顔見知りではないことを前提として、なまえは不容易に「安室透」という彼の通名も口に出すのは避けた。当然、言うまでもないが、世良が死んだと思っている実兄の赤井秀一が沖矢昴と同一人物であるということも便宜上、同様に隠し通したのである。

 ただ、赤井から言われた別れの言葉や経緯などについて、話せると判断したものに限っては割と赤裸々に曝け出すことができた。おそらく話の最中は、なまえ自身が沖矢と赤井は別人であると作為的に強く意識していたせいだろう。それはもしも世良が「沖矢=赤井」という方程式が成り立つことを知ったら、さすがに引かれてしまうだろうなと思うほどのカミングアウトで。なまえは彼女に対してわずかな罪悪感を覚えながら、努めて淡々と話せるだけの真実を述べた。


「なるほど。そんなことがあったのか」


 最後まで冷静に聞き終えた世良は、感慨深そうにそう言って数回ほど頷いた。


「それで、なまえさんは付き合うのか? その同級生と」
「……それはさすがにないと思うけど。でも、彼のことはこの先もずっと放ってはおけないと思う」


 大切な「光」をくれた人だから、と。なまえはそう言いながら、頭の中でぼんやりと降谷のことを思い浮かべていた。今頃、彼は何をしているだろう。弟のいる毛利探偵事務所の下階、喫茶ポアロでアルバイトをしながら私立探偵として情報収集をする安室透なのか。それとも、闇の世界で暗躍する組織一の探り屋、バーボンとして行動しているのか。

 でも、それらのどの顔も、結局は「降谷零」というひとりの人物に帰結するのだ。たとえ彼に百の顔があろうとも、なまえは絶対に降谷を見捨てられない。


「なあ。……ボク、蘭くんや園子くんみたいに恋愛のことはよくわからないんだけどさ」
「え?」


 世良は珍しくそう前置きをして、言葉を続けた。


「ただ、今の話を聞いていたら。あの昴って人、ああ見えてなかなかいい奴なんだなって思ったよ。正直、何者なのか掴めないし、胡散臭くてちょっと苦手だったんだけど。なんか見直したっていうか」
「……」
「なまえさんがどういう選択をしても受け入れる覚悟があるからこそ、彼はそうやって自分から別れを切り出せたんじゃないのか? もちろん、自分のことを選んでくれるのが一番嬉しいけど、なまえさんが別の人を選んで幸せになるのならそれも運命だって。人によっては臆病者みたいに捉えられるだろうけど、ボクには長い間ずっと音信不通にして傷つけていたその同級生よりも、あの昴って人の方がよっぽどなまえさんのことを一番に考えてくれているように見えるよ」


 それは、本当にそうかもしれない。なまえは赤井に愛想を尽かされたと思って孤独を悲観してばかりいたが、実のところ、赤井の思惑は今の世良が話した通り。すべて真実を掴んだなまえを一度手放して、彼女自身に自由な選択を与えてやるためだったのである。


「でもま、そこまでなまえさんが暗い顔するなら、このタイミングで絶対に会った方がいいと思うけどな。その同級生に。せっかく与えられた時間があるなら逃げずに話してから決めればいいんじゃないか?」
「……そうだね」
「にしても、なんだか」
「え?」
「いや、やっぱいいや! それより何か食べよう! さっきからあそこにいるウエイターが注文聞きたそうにずっとボクたちのこと見てるみたいだからさ」


 そう言って、なぜか急に話を誤魔化す世良をわざわざ深追いはせず。さらに、ウエイターがこちらを見つめているのは自分たちの雰囲気が周囲とは圧倒的に浮いているせいだということも、なまえは同じく空気とともに飲み込んでおいた。

 恋愛のことがよくわからないと言いながらも、世良の客観的なアドバイスは実に的確なものであった。そして、そんな彼女に背中を押された気がして。なまえは半ば踏ん切りがついたような気持ちで思うのだ。

 せっかく赤井が与えてくれた機会なのだから。やっぱりきちんと向き合って話をすることが必要なのだ。降谷と。この、六年もの空白を埋めるために。


「……」


 しかし、一方の世良には、口には出さないまでも、その胸のうちではわずかに引っかかる部分が別にあったのだった。それは今しがた聞いた、沖矢昴の言動について。

 今までなまえに最もお似合いなのは、死んでしまったとは言え、自分の一番上の兄のように頼り甲斐のある男だと世良は信じて止まなかった。故に、なまえよりも年下で、何を考えているかさっぱりわからない沖矢昴などという人物との仲を、蘭や園子のように嬉々として推すことができないでいたのである。けれど、なぜか今の話を聞いていたら、堪らず彼のことを応援したいような気持ちに駆られてしまったのだ。それはたぶん、沖矢がなまえのことを大切に思っているという共通認識が伝わったからこそなのだろうが、なんだだかそれがとてつもなく悔しくて。だから世良は、まるで負け惜しみみたいに心の中だけでこう呟くのである。

 もしも彼の立場に秀兄がいても、きっと同じことをすると思うけどな、と。

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