118b...
結局、世良がもらったお小遣いに合わせて注文できそうだったのは軽食のサンドウィッチとオレンジジュースという夕食にしてはとても軽いもので、なまえは「せっかくだしお金は出すからいいものを食べよう」と彼女に提案したが、その発言は生憎はっきりと断られてしまった。先日、一緒に買い物に行ったときも休憩先のカフェでコーヒーをご馳走になっていたし、これ以上、大好きななまえに借りを作ってしまうのが申し訳ないと思ったからなのだろう。だから、なまえも無理してせがむことはせず、それならと、まるで世良と足並みを揃えるようにまったく同じメニューを注文することにした。周囲に圧倒されるような高級感から相変わらず店の居心地はよくなかったが、ほの灯りの中で談笑しながら食べるサンドウィッチは、まるで異空間でのピクニックのようで、それはそれでとても楽しいひと時になった。
にしても、サンドウィッチか。それを見つめながらなまえが思うのは、当然、世良のおかげでようやく会う決心のついた、初恋の相手でもある安室透のことであった。確か、あれは東都水族館に行った帰り道。立ち寄ったファミレスで、思い出のレモンスカッシュとともに味気ないハムサンドをふたりして食べた後、彼はなまえにこう言ったのである。「今度は近いうちにポアロまで僕の作ったサンドウィッチを食べに来てください。ここのよりずっと美味しいハムサンドをご馳走しますよ」と。けれど残念ながら、それから彼自慢のハムサンドを食べることはなかった。ベルツリー急行の一件以来、安室が組織に属していることがわかって疎遠になってしまったからだ。
思えば、あのときの「安室さん」も降谷だったのだと思うと、なまえは途端に胸を鷲掴みにされるくらい複雑な気持ちになる。降谷だったから。だから彼はあのとき、即答気味にレモンスカッシュを選んだのだ。偶然だと思いたかったけど、やっぱり偶然なんかじゃなかった。
じゃあ、なまえが彼のことを好きになったのは?
「なまえさん?」
「えっ?」
「ぼーっとしてたけど、大丈夫か?」
サンドウィッチを片手に、神妙に思い詰めていたなまえに対し、ボクでよかったらいくらでもまだ話は聞くけど、と。そんな可愛いことを本物の妹みたく言ってくれる世良は、相変わらずとても心配そうな顔をしている。しかし、なまえの心境はもう世良に話を聞いてもらわずとも、既に決まっていたのであった。
「大丈夫。もう決めたから」
「?」
「運命からは逃げない、って」
そう言い切ったなまえの勝気な表情に、世良は同性ながら少しどきりとしてしまう。なぜなら彼女のその顔こそ、まさしく世良の好きな顔だったからだ。
case118b. 雨の日のジンクス
世良と別れたなまえはバイクを停めていたホテルの地下駐車場に到着すると、すぐに乗ることはせずに、力なく愛車に体重を預けて今一度じっくりと向き合うように考え事をすることにした。その内容とはもちろん、数日前から避けられ続けている赤井のこと。それから近々改めて会いに行くことを決意した旧友の降谷のことである。
もう誰も傷つけたくはないし、傷つきたくもない。そうして殻に閉じこもるように孤独の中に身を置き、臆病にもなまえは頑なにふたりには会わないでいようと決めていた。けれど、そんな自分の意思がここまで百八十度変わったのは、言わずものがな無邪気な世良がそっと背中を押してくれたからだろう。せっかく赤井が降谷に会うチャンスを与えてくれたのだから、みすみすその機会を逃すことはしなくてもいい、と。素直に運命を受け入れるがの如く、自分らしく前に進んでいけばいいのだ、と。そんな風に前向きに捉えられるようになったのは、話を聞いてくれた彼女が他の誰でもない赤井の妹だったからこそなのかもしれない。
そう、運命からは逃げない。世良に言い放ったその言葉は、奇しくもかつてベルツリー急行に乗る前になまえが赤井に言ったこととまったく同じであった。一年前のニューヨーク。一度は憧れを抱いた女優のシャロン・ヴィンヤードに利用されて殺されかけたときから、なまえは彼女に会うのが怖くて。でも、自分の中であの事件との区切りをつけるためには、あのとき、やはりどうしても運命の列車に乗ることが必要だったのである。
そのときの、赤井と言えば。誰にも見せたことのない傷を曝け出し、ガタガタと震えるなまえを力一杯その腕で抱きしめて、まるで誓いを立てるように「守る」と強く約束してくれたのだった。まさかその過去の事件の際も、自分を守ってくれたFBI捜査官が赤井本人だったということは思いもしなかったけれど。そんな両親さえも知らない辛い過去を赤井とだけ共有したという事実が、彼との絆を深める所以にもなったのだと思う。
思えばいつだって。彼は誰よりもなまえの幸せを一番に考えてくれて、孤児として長く暮らした彼女に惜しみない愛情を与えてくれた。だから別れを切り出したのだって、きっと。
「……」
なまえはようやくヘルメットを被り、バイクの鍵についた降谷とお揃いと思われるお守りを一度ぎゅっと握りしめる。そんな赤井と、どんな形であれまた再び笑って話ができるように。今は一日でも早く、降谷に会わなくてはならないという気持ちが焦りのように募っていく。
なんとなく、ではあるが。おまじないのような意味合いも込めて、なまえが降谷に会いに行くのは絶対に晴れの日にしようと決めていた。それは以前のように「雨」という理由がないと会えないというジンクスを彼女なりに払拭したかったからである。「また迎えに行きますよ。雨の強い日にね」と、以前、安室はそう言ってくれたが、今のなまえにはその日をうかうかと待っていることなどできそうにない。
だって、もう理由がなくても降谷にはいつでも会えるって証明したいから。
「待っててね、零」
どっちつかずの私だけど。なまえはそう思いながら愛車であるタイガーにまたがり、エンジンをかける。耳が痛いほど音のないふたり住まいの家に帰宅するために。
一方、ホテル・ハイド・プライドの高層階ラウンジでなまえと別れた後。ホテルの自室に戻って来た世良は、堅苦しかったラウンジの雰囲気から気を抜くための大あくびをかましながら、怠そうに扉を開錠して室内へと入った。そこには既に先に戻っていたらしい母親のメアリーの姿があり、世良は彼女を見つけるや否や、一目散に今日の感想について尋ねる。
「どうだった? なまえさん、可愛かったろ!?」
そう。その発言こそ、世良がなまえをわざわざこのホテルに呼び出した、本当の理由。雰囲気のある格式高いラウンジに行きたかったからというのは単なる口実にしか過ぎず、本当は自分のお気に入りであるなまえを、一目でもメアリーに会わせたかったのである。これは当然、幼児化した母が気安く外出できないことをわかっての采配であり、ついでになまえと沖矢の別れ話の経緯が聞けて、実に世良的には得な展開であったと言ってもいいだろう。
しかし、そうしてなまえの感想をわくわくしながら待っている娘に対し、もともとそこまで興味があるわけではなかったメアリーは無駄にテレビをザッピングしながら、割とどうでもよさそうに返事をするのである。
「お前がよく秀一とお似合いだと言うから、どうかと思っていたが。想像違わぬ見目麗しい女だったよ。あの子には勿体ないぐらいじゃないか?」
「そんなことないって! ボクが気に入るくらいなんだからさー」
「お前に気に入られたところで、秀一に気に入られるとは限らないがな」
「まあ、そうだけど……」
世良はメアリーのあまりに釣れない発言に対して、面白くなさそうに口を尖らせている。とは言え、心から慕っていた兄である赤井秀一はもう死んでしまったのだ。なまえのことを、気に入るも気に入らないもない。
「にしても、彼女があのときのボウヤの姉、か。十年前の海水浴場では見かけなかったから、彼はひとりっ子だとばかり思っていたよ」
「ボクも友達から聞くまではずっとそう思ってたよ。何でも留学してたんだって。しかも、アメリカ! 秀兄とすれ違ったことあったりしてなーっ!?」
「フンッ。もしそんなことがあれば、それこそ『運命』などと呼んで認めてやってもいいが」
メアリーはそう言いながら、ようやく薄く笑う。しかし、本当はすれ違うどころか、赤井となまえはアメリカで会話までしたことがある。それも、一度ならず二度までも。さらには米花町という彼女らの滞在しているホテルの目と鼻の先で、沖矢昴という偽名ながら同居や交際まで果たしている事実を知れば、さすがのふたりも卒倒どころでは済まされないだろう。これを運命と呼ばずして、一体、何と呼ぶというのか。
けれど、そんなことなど当然知らない世良は、先ほどの勝気ななまえの表情を回想しながら彼女への思いを馳せていた。「運命からは逃げない」と、そう言った彼女の心意はつまり、話に出た同級生と会うということを指し示しているのだろう。沖矢に与えられた時間を有意義に使うためには世良自身も推奨したようにそうした方がいいとはもちろん思うが、しかし、会ってしまえば最後。なまえがその同級生になびいてしまうのではないかと思えたのである。彼女のことを音信不通にして散々傷つけていた相手でも、なまえにとっては大事な友人のようだったから。
と、そこまで思って世良は、やっと我に返るように自嘲する。自分は一体、誰の味方なのかと。これでは相当、なまえの話を聞いて沖矢のことを応援する偏見が混ざっているようにも思われて。ふっと笑いながら、まるでひとりごとを言うみたいにメアリーに言うのだ。
「でも、今日のなまえさん。ボクが思ってたよりも神妙な顔してたし、音信不通になってた同級生に会いに行くつもりみたいだったから……。もし、秀兄が生きていて彼女のことを気に入ったとしても、取り入るのはもう無理だろうな」
しかし、その発言を今度はメアリーが見過ごせない。
「真純」
「え?」
「お前は、秀一にできないことがあると思うのか?」
メアリーはギロリとした視線を向けて、威圧的にそう言う。その目は母親ながらも冷酷さを感じさせるもので、世良は一瞬にして肝が冷えた。
「我が息子ながら、あの子は実に執念深い男だぞ」
まあそれは、我が家の男連中はもれなく全員だがな。そう言うと、小さな彼女はとあるニュース番組でチャンネルを回す手をようやく止める。女性アナウンサーが話すトピックは無論、将棋。先日、山梨県にある温泉旅館で行われた名人戦に勝利し、歴代ふたり目の七冠王を手にした太閤名人に焦点を当てた放送内容であった。