119b...
「今日は朝からずっといいお天気でしたねーっ!」
後日。所変わってここは喫茶ポアロ。閉店時間のためにいつも通りの片づけ作業に勤しむ梓は、テーブルを拭きながらすっかり暗くなったガラス窓の向こうの夜空を見つめていた。米花町は割にネオンが多く、しかもここは特に交通量の多い道路に面しているため街灯も眩しい。しかし、それでも見上げた空にはちらほらと輝く星が見え、月は陰りを知らずににっこりと微笑んでいる。
鶴山のおばあちゃまのお家が雨漏りをしているらしいので、雨っていう予報を見るとドキドキしてしまうんですよね、と。続けざま、そんなことを言う梓に対し、キッチンで洗い物をしていた安室はくすりと笑いながらこう思う。
苦しくなるほど平和だな、ここは。先日、あんなことがあったとは到底思えない。
彼が思うあんなこととはもちろん、先日、工藤邸で起こった一連の出来事を指していた。沖矢昴という限りなく怪しい大学院生が赤井秀一の世を忍ぶ仮の姿であると半ば確信的に思い、まるで勇ましく狩猟でもするかのごとく、鋭く奴を追い詰めた。自分の命よりも大切で、かけがえのないなまえを再びこの手に取り戻すという意味合いも込めて。
けれど、その作戦は結論から言えば失敗に終わってしまったのだった。どこか腑に落ちないとは言え、沖矢昴と赤井秀一はそもそもまったくの別人であり、それはつまりなまえと赤井との間には何の関係性もなかったと結論づけていいだろう。ベルツリー急行で見た彼らの幻影は、絶対にそんなことあって欲しくないというあまりに余裕のない自分の心が作り出した本当の幻影だったのかもしれない。
それにしても、雨、か。安室はそう思いながら、まるで梓を真似るようにキッチンカウンターから星以外何も降りそうにもない快晴の夜空を苦々しく見上げた。大雨の日、工藤なまえはバイクには乗らない。そんな話を毛利蘭から聞きつけ、わざわざなまえを尾行してまでその事実を確かめたことがある安室は、内心で自分はその雨の日を未だに待っているのかもしれないと思う。雨ならまた彼女に会ってもいい、と。むしろ雨の日にしか会えない、と。そんな風に思って、まだ未練がましく彼女に恋をしているのだ。沖矢昴が赤井秀一でないなら、もう不容易に彼女を追いかけることなどできないというのに。
「……理由がないと会えないのは、昔からだな」
梓には決して聞こえないようにそうひとりごちた安室は、傷だらけだった幼い頃の自分を回想していた。彼にとって初めての恋の相手でもあった忘れもしないあの女医のことを思い浮かべて、喧嘩して怪我をする度に彼女に優しく手当てしてもらえるのが嬉しかったな、と少し笑う。容姿のことでからかわれ、名誉の負傷を負う度に小さな町医者に通った、あの愛しい日々のこと。
工藤邸での一件があったすぐ後。わざわざこのポアロまで江戸川コナンが出向いてきて、安室に対し「嘘つき」と言いに来たことがあった。すぐに「君に言われたくはないさ」というジョークのような返答をしたものの、その際、安室は欲に負けてなまえがどのくらい自分の事情を知り得ているのかコナンに尋ねてしまったのである。そのとき、小さな彼はまるで遥かな高みから見物するかのように「ボクと同じくらいだよ」と言って。さらに安室への呼称をわざとらしく「ゼロの兄ちゃん」としたのだった。たったそれだけの事実だが、察しのいい安室に事情を悟らせるには十分過ぎるものだった。なまえはもう、彼がゼロであること。降谷零という過去の友人であることに気づいていると思って、まず間違いない。
だから、なおさら些細な理由でもないと安室はもう愛しい彼女には二度と会えないような気がしていたのだった。たとえそれが天候という神様にしか左右できないものだとしても、今の彼はそれにすがることしかできなかったのである。
「そういえば、大雨だったらなまえさんは」
突然、梓から出たその名前に驚いて。安室は握っていたはずの皿を、ガシャン、と大きな音を立てて指の先から滑らせてしまった。シンクの中でバラバラになったそれは見るも無残で、人前でらしくもないヘマをやってしまったと彼は頭が痛い気持ちになる。しかも、割ったのはコーヒーカップとセットになったソーサーの中の一枚で、これではカップがひとつだけ余ってしまう。まるでひとりぼっちになるように。
それが何か予兆めいたものにも思えて、彼は人知れずその光景に絶句してしまったのだった。バイバイだね、零くん。まるで、あの人にそう言われたときのような衝撃が、大袈裟ながら頭を過って。
「だ、大丈夫ですか!?」
しかし、そんな彼の珍しい失敗を驚いたように声をかけてきた梓のおかげで、安室は即座に我に返ることができた。すぐに努めて安室透らしい笑顔を作ると、自らの失態を自嘲気味に笑う。
「すみません。ソーサーを一枚、割ってしまったようです」
「怪我はないですか?」
「はい。それよりも」
「?」
「……なまえさんが、何か?」
いや、何を聞いてるんだ、僕は。そう思ったときにはもう、口から質問が出ていた後で、梓はぽかんとした様子でその発言を聞いていた。これじゃまるで、なまえの名前を聞くだけで皿を割ってしまったと自ら言っているようなものだ。そう思うと、些か分が悪くなる気持ちもあるが、出てしまったものはもうどうしようもない。第一、相手は梓だ。今さら変に飾る必要性もないだろう。
しかし、安室のそうした照れをよそに、逆に梓の方がなぜかすまなさそうな表情をしたのであった。
本当のことを言えば、今日は梓の方がなまえの話をずっとしたくてたまらなかった。なぜなら彼女は数日前に、この店の常連である蘭と園子から「沖矢となまえが別れた」という話を聞いていたからである。蘭たちはもちろん伊豆高原のテニス場で聞いた通りに安室の片想いを知ってはいたが、別れたばかりのなまえが混乱するといけないからと言って、一応、その場に居合わせた梓には口止めをしていたのであった。でも、そんなニュースを意図せず聞いてしまった彼女はどうしても同僚である安室にそのことを伝えたくて。先ほど言いかけたのだって、本当は天気の話にちなんでなまえが大雨の日にはバイクに乗らないという話を前置きに本題を切り出そうという梓なりの配慮だったのである。
「本当は、蘭さんたちから口止めされてるんですけど」
「え?」
けれど、信じられないようなことが起こったのは、ちょうど彼女が何かを言いかけた、そのときのことであった。既に店じまいをしてCLOSEの札をかけられたポアロの扉を、誰かがコンコンと叩く音。ふたりが同時にそちらを振り向くと、そこにいたのは。
「なまえ……!?」
ドア一枚隔てた向こう側で、緊張した面持ちで中の様子を見つめていたのは紛れもなく噂をしていた工藤なまえ。自らが背負った運命と立ち向かうために、彼女はガラス戸をノックしていたのである。
case119b. 苦しくなるほどの平和が続くこと
安室となまえの間にただならぬ空気を感じた梓は、結局、彼女があの大学院生と別れたことを安室に告げる間もなく立ち去り、閉店後のポアロは早々にかつての旧友同士であるふたりだけの空間となった。彼は対面できるテーブル席に彼女を誘導して座らせ、単なる店員を装うかのように平然と暖かいコーヒーを提供する。けれど、その内心は当然、落ち着いていることなどまったくできず。片づけがまだ残っているから、とぶっきらぼうになまえを待たせて、まずは不恰好にも自分の心の準備のために時間稼ぎをするしかできなかったのだった。
これじゃ雨の日をただ待っていたのと同じだな、と安室改め、降谷はそう思う。自分では解決策が見つけられないから、ただひたすら時間が過ぎるのを待っているだけ。思えば、臆病にも自分の気持ちを伝えることができずに、高校時代からずっと彼女ときちんと向き合えたことなど一度もなかった。一向にはっきりとしない煮え切らない態度のまま接してきて。それが今まで、どれほどなまえを泣かせてきただろうかと思うと胸が張り裂けそうになる。
彼女がここに来たということは、先日のコナンが言った通り、安室透という男が降谷零であることを完全にわかっているからに違いなかった。そんななまえと対峙して、今さら何を話せばいいというのか。嘘ついてごめん? 今までのことは水に流してくれ? 今さらそんな都合のいいこと、言えるわけがない。
特に、降谷が気にかけているのは他の誰でもない景光のことであった。あの江戸川コナンが「ボクと同じくらいだよ」と言った真相の中に、もうひとりの親友の死の真相が含まれているのか。その有無だけがわからずに、彼女にどこまで話を切り込めばいいかわからなくなる。これだけ散々傷つけておきながら思うことではないのかもしれないが、無闇になまえを傷つける真似だけはもうしたくない。
言い訳のように皿を洗いながら、降谷はなまえを盗み見る。目を伏せて審判を下されるのを今か今かと待つかのような不安げな彼女の表情を作り出しているのが自分であるという事実が、彼にはとてつもなく身につまされた。
一方。なまえの方も同じく、まるで間合いを取るかのように安室が片づけを終えるまでは一言も言葉を発することができないでいた。ただ、虚ろな目でコーヒーの湯気をぼんやりとその視界に映すように見つめている。ほんの少しだけ口づけたその味は、長年慣れ親しんだポアロのマスターの淹れたコーヒーと遜色がないほど美味しくて、なぜだかこの完璧さが、まだ直接、彼に本当のことを尋ねたわけでもないくせに降谷零だという証拠のひとつであるような気がしていた。
ともあれ、安室の悪あがきのような時間稼ぎも永遠ではない。洗い物を終えた彼は蛇口を閉めて、ようやく自分の分のコーヒーを片手になまえの前に座る。それが会話を始めるタイミングとなり、彼女は途端に遠慮なく降谷のことを強く一瞥して、はっきりとその名を呼ぶのだ。
「零」
「……っ」
「零、なんだよね?」
彼はいたたまれず、アイスブルーの瞳を伏せた。この生活を始めてからは、なかなか本名で、しかも下の名で呼ばれることなどない。故に、自分の名前なのになぜか自分のじゃないような気もして。変に緊張しながら、彼は黙って視線を合わせないまま頷いた。
今のなまえになら、何を言われてもいいと思った。罵詈雑言の類でも。「嫌いだ」というこの世で最も彼女から聞きたくない言葉でも。むしろ、責め立てられるような言葉をぶつけられた方がよっぽどマシだ。謝罪も口にできない情けない男を、親友だった彼女にきつく叱責して欲しい。
けれど、なまえは彼の微動のような頷きに対して、安堵したような表情を見せる。そして、あろうとこか、薄く微笑みながらこう言うのであった。
「無事でよかった……」
そう言われたとき、降谷はハッとした。そして、瞬間的に過去の記憶を繰ったように思い出す。
工藤なまえとは、こういう人物だった、と。
しかし、その優しさが同時に降谷の罪悪感を余計に駆り立てることになるとも知らず。彼女は穏やかな口調で話を続けるのである。
「留学中に堂々とアルバムを盗むくらいだからふたりは忘れて欲しかったのかもしれないけど、この六年間、私は零とヒロのことを忘れたことなんてなかった。ずっとふたりのことが頭にあって、何度も夢にまで見て。ただひたすら、あなたたちが恋しかった」
「……」
それを聞いても、降谷は何も言えなかった。すると、彼女は鞄からパスケースのようなものを取り出し、おもむろに二枚の写真を取り出す。
一枚目は学園祭のときのもの。そして、もう一枚は卒業式の日に撮られた、三人の後ろ姿の写真。
「こっちの学祭の写真が、私がアメリカに持って行ってた唯一の写真。そして、こっちがこの前、長野でヒロのお兄さんに会ったときに譲ってもらった一枚」
久しぶりに見たその写真があまりに眩しくて、降谷は堪らずくらくらするほど目眩がした。そして、六年前に実行したなまえから思い出を盗むための計画が、きちんと果たされていなかったのだとそこで初めて知る。消息を断つ前に、工藤優作氏から鍵を入手した降谷に代わって、景光がアメリカにいるなまえに「自分たちの写真を持って行っていないか」と尋ねる趣旨の連絡を入れていた。だが、どうやらそのとき、彼女はとっさに何かを察して嘘で答えていたのだろう。持ってない、と。だから自分たちは安心して工藤邸に入り、思い出という名の写真をすべて盗んだ気になっていた。
それに、なまえがわざわざ景光の兄に会いに長野へ行っていたとは、さすがの降谷も予想外であった。景光の死後、弾丸が撃ち込まれた親友の形見でもある携帯電話を、降谷は警察学校時代に同じ教場であった伊達を経由して高明に届くように封書で送っていた。東都大首席合格で今も現役の刑事なら、その携帯電話に刻んだ「H」の文字と弾丸の痕についた血で弟の死を伝えられると思ったからである。親友が慕っていた兄へ、せめてもの弔いとして。
けれど、不思議なことになまえは長野での高明とのやり取りを話すばかりで、一切、景光の死のことを語りはしなかった。降谷はそれに違和感を抱き、そしてすぐに合点する。
彼女はわざと景光の話題を避けているのだ、と。そして、それがどういう意味を示しているのかはふた通りの可能性が考えられた。ひとつ目は、高明もしくはコナンから景光の死を聞き、その事実に触れたくなくてわざと忌避しているから。ふたつ目は、伊達経由で渡っていると思われた封書が彼の死に起因して高明にまだ渡っておらず、彼女どころか降谷以外は本当に誰も真実を知らないからか。
そのどちらのカードを引くか。彼は鎌をかけるようになまえに尋ねる。
「聞かないんだな。ヒロのこと」
鋭く突き刺すように降谷にそう言われると、なまえは急に押し黙ってしまった。実際、彼女は何も知らない。けれど、本当はなんとなく察しているところもあるのだ。四年前から景光の電話回線自体が不通になってしまったことから察せられるのは、一番考えたくない最悪のケース。それが本当かどうか知りたい。でも知りたくない。そんな複雑な気持ちが彼女をそうさせていたのである。
そんな彼女を見て降谷は自嘲気味にふっと笑う。そして、黙ってしまったなまえの様子を見て彼が引いたカードは、間違いである前者の一枚。つまり、彼女が既に何もかも知っているが故に、その話題には触れないのだと彼は思ったのだ。
それがとっておきのジョーカーであるとも知らずに。
「それとも、もう知ってるのか? ヒロが赤井秀一に殺されたってことを」
「……え?」
突然、聞き慣れた名前が飛び出してきたことに驚いて、なまえは思わず聞き返してしまう。しかし、その反応を見た降谷は、さらに彼女が赤井秀一なる人物のことを本当に知らないのだと勘違いをし、親友を殺した男の説明を改めてその口で補足するのである。
「赤井秀一。数年前まで組織に潜入していた、FBI捜査官の男の名前だよ。四年前に組織から裏切り者だとバレたヒロを、とある廃ビルの屋上で殺した。奴自身もFBIからのNOCだったくせに、組織でより高みに行くためにヒロの死を利用したんだ」
「……」
「悪魔のような、男だよ」
鬼気迫るほどの修羅の顔をして怒りを滲ませる彼の悲痛さが、なまえに伝わらないわけがなかった。そしてそれが土台、嘘でないことは瞭然たる事実だったのである。