120b...
その後の降谷の話は、ほとんどなまえの耳には入ってこなかった。六年もの空白を埋める大事な話をしているはずなのに、いつまでも宙に浮いているような。ただ、頭にずっと赤井のことばかりがあって、まるで抜け殻のような体を引きずってポアロを出ることが今の彼女には精一杯だったのである。
なまえは泣きそうになりながら先ほど降谷から聞いた信じられない言葉を何度も繰り返し反すうさせていた。親友だった諸伏景光が、もうこの世にはいないこと。それは彼女自身の考えうる最悪のケースとして、なんとなくではあるが既に心の中で覚悟していた部分があったことには間違いない。けれど、その命を奪ったのが他の誰でもない赤井秀一であるという事実を刃のように突きつけられたとき、とてもじゃないが信じられなくて、上手く動揺を隠すことすらできずに思わず息が止まってしまいそうになった。そんなわけがない。何かの間違いだ、と。そう思って必死に自分を励まそうと試みても、それを証拠づけるかのような降谷の悲痛な表情がしつこくなまえの脳裏には焼きついて離れない。
そして、何よりも気になっているのは。あの日、来葉峠で赤井が降谷に言い放った、最後の一言。
『彼のことは、今でも悪かったと思っている』
もし、赤井の言う「彼」が景光のことを指しているのだとしたら。すべての謎が紐解かれたとき、物語はなまえが考えていた以上に最悪のシナリオで進んでいるような気がして恐ろしくなる。
だから、自分を避け続けている赤井を今すぐに捕まえてでも、一刻も早くその真実を確かめたくて。なまえはたった数分ほどの道のりを急いたようにバイクで飛ばしていくのであった。
間近に見えてきた工藤邸には、やはり明かりはついていなかった。あの日を境にして幸せだった頃とは縁遠いほど冷たい静けさを放つ自宅に、普段の彼女なら赤井はまだ帰っていないと早々に判断して顔を見合わせることすら諦めていただろう。そして彼の部屋の戸を叩くこともせず、一目散に自室に閉じこもってひとりを耐え忍ぶ孤独な生活。けれど、今日だけは違う。今日だけはなぜかなまえは半ば確信めいたように、気配を殺した彼が今もそこにいるという自信があったのだった。もしその自信が外れたとしても、赤井が帰るまでは彼の部屋の前で居座る覚悟すらできていたのである。
鉄扉を開けて定位置にバイクを停める。格好悪いことに、エンジンを止めた瞬間からその両手はわずかに震えていた。彼と向き合いたいと願う自分と、それが怖いと思っている自分とが混在していることを改めて思い知り、つい痛む頭を抱えてしまう。だからなまえは今一度、自分自身を鼓舞するために数歩後ずさって外から二階にある彼の部屋を見上げることにした。阿笠邸の監視が容易な外向きに面した窓のある部屋。初日に候補に挙げた数ある空き部屋の中から迷わずそこを選らんだ彼は、住み始めてから真っ先にその窓についたレースカーテンをわざわざ遮光性の高いものにつけ替えていた。それが組織の誰かに赤井秀一だとバレて外から探りを入れられることがないようにするためだという理由にはなまえも後から気づいたが、そのせいで一見しても部屋に明かりがついているかどうかは確かにわからない。
「秀一……」
なまえは彼の名を呼びながら、いつか、あの窓辺で赤井から深いキスをされたことを思い出していた。あれは確か「身も心も欲しい」と言って、甘い告白を受けたあの日のこと。それを一度は受け入れたこの身だから。だから、なまえは赤井にはっきりと彼自身の言葉で否定して欲しいのだ。
人殺しなんかじゃない、って。
case120b. ある人殺しの献身
自分の鼓動しか聞こえないような静寂の中。明かりもつけずに階段を上り、なまえは目的であった赤井の部屋の前に到着すると、緊張のせいかさっそく弱気が顔を覗かせて扉を叩く手が出ずにしばらくその場で立ち尽くしてしまった。月明かりに照らされた自分の影。それが廊下に落ちている以外はやはり誰の気配もなく、ドア一枚隔てた向こう側に彼がいるという確信が急激に失せていくのがわかる。できることなら、今すぐにでもここから逃げ出してしまいたい。そんな衝動にも駆られてポケットの中に震えた手を入れれば、ポアロで降谷に見せた高校時代の写真入りのパスケースに指先が触れて、思わず奮い立たせられるように改めてその意を決した。
コンコン、と扉を叩く高い音。自分で作り出した音のくせに、なまえが一番それにビクついているような感覚に陥る。そして、そのまま不恰好にも上ずった声で中にいるであろう彼におずおずと問いかけるのだ。
「秀一、いるの……?」
しかし、その問いかけも虚しく、しばらく待ってもその扉は頑なに閉ざされたままで、中から声がかかることはなかった。けれど、なまえはめげずにもう一度その扉をノックし、再び彼に問うのである。
「そこにいるんでしょう?」
目の奥が熱くなった。脆い心境的には今にも泣き崩れてしまいそうで。もしこのタイミングで会えないのなら、もう一生会えないのだろうと根拠もないことを思ってしまう。ここで自分たちの運命が重ならないのなら、二度とともに時間を重ねることもできない、なんて。そんな風にも思ってみたけれど、やはりその甲斐なく中からの返答は依然として一言もなかった。
なまえはもう諦めて、一度、自分の部屋に戻ろうとした。すると、それから遅れること数秒。まるで観念したようにその扉がうっすらと開き、その隙間から特徴的な隈のある目がギロリと鋭くこちらを見据える。その目は今までに見たことがないほどの異様な冷たさを放ち、どこか迷惑そうにも見えて、さすがのなまえも一瞬困惑した。恋人時代には一度も向けられたことのない冷淡すぎる赤井の目だったからだ。
けれど、今の彼女には赤井の顔が見られただけでも言葉で言い表せられないほど安堵すべきことであった。そして、離れようとしていたその足で踵を返し、すがるように彼に近づいて話しかける。その際、赤井の部屋の中に無数のダンボールがあることを若干不審に思ったが、その疑問を口に出すことがなかったのは昂った感情が勝ってしまったからだった。
「秀一、あのね……!」
「何だ」
その、あまりにそっけない口調に、なまえは思わずひるんでしまった。そして、馬鹿な彼女はとうとう悟ってしまう。赤井にはもう完全に嫌われてしまったのだ、と。それは愛想を尽かされて交際関係を解消されたのだから当たり前だったはずなのに、いざ突きつけられると途方もないショックで、今さらながら呆然と言葉を失くしてしまったのだった。
絶句しているなまえに、赤井はなおも冷たく言う。
「用がないのなら閉めるぞ」
そう言われ、彼女の返事も聞かずにそのドアが閉まりかける。けれど、さすがのなまえもそれは見過ごせなくて、とっさに隙間に足を入れて持てる範囲の力でドアをこじ開けた。
「秀一が、ヒロを……っ!」
「……」
「ヒロを殺したって、本当なの……?」
そんな彼女の質問を予想はしていたとはいえ、あまりに直球な言葉に今度は赤井の方が絶句する。涙を堪えたなまえの表情が今にも壊れてしまいそうだったから、余計に彼の心はいたたまれなかった。
「違うよね? 嘘だって、言って」
それはまるで懇願のようで。ベルツリー急行に乗っているときも、確か同じようなやりとりがあったことをふたりはまるでデジャビュのように同時に思い出していた。あのときの赤井なら、なまえをきつく抱き寄せて自身の腕の中に招くこともできたけれど。今の彼はそれをしない。いや、できないのだ。なぜなら、今から彼女に告げる言葉は、そのとき以上に残酷すぎる事実だとわかっていたから。
赤井はもはや耐えきれそうになかった。なまえがこうして接触を図ってきたということは、彼女が降谷零と接触したということ。友人だったという彼とどういう話になったのかは知らないが、なまえの発言からしてスコッチの死の真相を聞いたに違いない。そして、彼女のような女には親友を見殺しにしてしまった自分なんかより、よっぽど降谷の方がお似合いかもしれないと思えて。わざとそっけない態度をとって、嫌われるように仕向けているというのに。その信念が揺らぎそうになるから、いけない。
本心を言えば、今でも赤井はずるいくらいになまえが欲しかった。「嘘だよ」と無責任にもそう言って彼女を安心させてやりたいのだ。君が言うヒロという人物と俺との間には何の関係もないから、もう一度俺とやり直してくれないか、と。それから甘いキスでも交わして、このまま部屋に招き入れたい。セックスをしないという一度も破らなかったプラトニックな約束すらも破って、激しく打ちつけるように抱いてしまいたいのだ。そんな勝手な想像をしてしまうくらい、赤井はなまえのことを未だに深く愛している。
でも、感情だけでは何の解決にもならないとわかっているから。だから赤井は自分の気持ちを押し殺してでも、あえて彼女を突き放すしかなかった。
赤井はなまえの頬にそっと手を添える。やわらかくて、暖かい肌。相変わらず初めて触れたときから子どもみたいに体温が高くて、これこそが尊い命の温度なのだと思う。本当は気が狂いそうになるほど手放したくないけれど、自ら手を離さなくてはならない時が今なのだ。彼女が何の罪悪感もなく親友を選ぶためには、赤井が悪者になって背中を押すしかないのだから。
「……嘘じゃないさ」
「!」
「俺はお前が思っているような清廉な人間じゃない。この意味が、お前にならわかるよな」
そう言われた瞬間、なまえは全身が粟立つような恐怖心を覚えた。目の前に立っているのが人殺しであるということ。それがいとも簡単に証明されてしまったような感覚。信じたくなかった最悪があり得てしまったという現実感のなさに、吐き気さえ催す。
そんな彼女の複雑な表情を見た赤井は、こぼすようにふっと笑う。
「軽蔑しただろう? だからもう俺のことは忘れてくれて構わない」
赤井はそう言うと、頬に添えていた分厚い手を静かに離した。離した瞬間、一筋の涙が彼女の頬を伝って落ちるのを見送る。当然ながら、赤井はもうそれを拭うことができない。拭う資格もない。
なまえはこれ以上、彼に泣き顔を見られたくなかった。だからその場から逃げるように立ち去り、足がもつれそうになりながら階段を駆け下りる。そしてしばらくすると玄関の扉が乱暴に開閉する音が赤井の耳には聞こえてきて、なまえがこの家を出ていったことを彼は無言で悟っていた。
先ほどなまえに触れていた暖かな手で、赤井はため息交じりに頭を抱えていた。これで自分と彼女が結ばれる運命は完全に途絶えてしまったということになるのだろう。それは自分が望んでいた末路だったとはいえ、正直、死にそうなくらい切なく堪える。
思えば彼は今まで、恋愛に関しては一度も自分の意思を貫き通すことができないでいた。ジョディに対しても、宮野明美に対しても。自分の意思とは反するような、ずるい別れ方ばかり繰り返して。一度も、誰も幸せにすることができなかった。
今度こそ大切にしようと思っていた工藤なまえに関してもそうだ。結局、赤井は自分よりも幸せにしてやりたかった彼女のことも幸せにしてやることができなかった。でも。
「……これが俺たちの最適解なんだ」
赤井のその言葉は月夜にふやけるみたいに溶けてなくなった。それはまるで自分に必死で言い聞かせるような、頼りない呪文のような言葉であった。
無我夢中で家を飛び出したなまえは、呆然とした気持ちのままでふらふらと米花町を彷徨っていた。今の出来事は一体、何だったんだろう。これまでの幸せだった彼との生活は。愛しいやり取りは。温度のあるキスは。全部、彼という「人殺し」との思い出だったのかと思うと、未だに信じられない気持ちでいっぱいになる。
しかも、彼が殺した相手は親友である諸伏景光。そんな残酷な運命、神様が定めたのだとしたら相当ひどい神様だ。祈ってすがっていた自分が、惨めになるくらいには。
どういう感情であればいいかわからないくせに、ぼろぼろと涙だけがとめどなく流れていた。赤井を恨むこともできず、景光を取り戻すこともできず、降谷に会って助けることもできない。何もできない自分が本当に嫌になる。
「もう、消えてしまいたい」
そんな心境だったせいか、ほんの一瞬、なまえはふらりとよろめいて車道に足を踏み外してしまった。そこへ大きなクラクションを鳴らしながら猛スピードで差し迫っている車があることに、憔悴したなまえはまったく気がつかなかったのだった。