121b...
クラクションを鳴らしながら猛スピードで突っ込んでくる車の存在に気づいたときにはもう遅く、なまえの体は完全に避ける気力を失ってその場で頑なに硬直しきってしまっていた。もう消えてしまいたい。そんな願いを叶えるときだけはやけに素早く従順であるらしい彼女の神様は、もしかすると死を招く方だったのかもしれない。煌々と照らされたライトがその目を一気に眩ませた後、真っ白になった視界の中で走馬灯のようにふと過ぎったのは、亡くなった景光が高校時代からよく見せてくれた満面の笑みだった。
思わず車道に尻餅をついて倒れこんでしまったなまえは、自分の死を覚悟して痛いくらいきつく目を閉じる。しかし、その車は彼女にぶつかる寸前のところで急ブレーキをかけて、まるでアクション映画さながら豪快に停止したのであった。運転席から真っ先に飛び降りてきた人物の顔はライトの逆光になってすぐには見えなかったが、シルエット的には女。それも、テレビや雑誌以外ではなかなかお目にかかることができないほどのスタイルの持ち主であるらしい。
「どんな仔猫ちゃんかと思えば」
彼女はなまえを見下ろしながら呆れた口調でそう言った。次第に月が晴れて光が差し、透き通るような黄金色の豊かな髪と整った顔立ちが露わになる。
紅いリップが艶めかしく弧を描いたとき、なまえはその人物に息を飲んだ。
「もう少しで轢くところだったわよ、私の女神様?」
「……シャロン!?」
なまえは驚きとともに彼女の名前を呼んで、立ち上がるために差し出された手を迷わず取った。確かあれは花見のとき。変装した安室と連れ立って帰った妊婦役の女性はおそらく彼女だったはずだが、それを除けば、きちんとしたシャロンとの再会はベルツリー急行以来になる。一年前のニューヨークにて、一度は命を狙われた相手だったとはいえ、なまえはあの列車での出来事から彼女への憧れを再熱させており、もらったレモンの香水も勲章のように大事にして、休日はたまにつけたり、カッティングの美しい香水瓶を眺めて過ごしたりしていた。世界中の誰よりも黄金の林檎が贈られるにふさわしいシャロンに、できればもう一度会いたいと願いながら。
その思いは、実はシャロンの方も同じであった。けれど、さすがになまえとこんなところで偶然出会えるとは思いもしておらず、やはり神様が引き合わせてくれた運命の存在を彼女の方も色濃く感じてしまう。しかし、何よりも気になったのは、どうしてなまえがこんなところで亡霊のように彷徨っていたのかということだ。
シャロンはあえてそれをなまえには尋ねなかった。なぜなら、彼女は「女は秘密を着飾って美しくなる」と知っているからである。
「ここで会ったのも何かの縁。どう、ちょっと乗っていかない?」
「え……?」
「女ふたりでハイウェイを飛ばしてみるのも案外楽しそうでしょう?」
シャロンはそう言うと、再びにっこりと笑う。それが彼女なりの励まし方であった。
case121b. レモンイエローの女神
偶然の出会いを機に宛てのないナイト・ドライブをしようということになり、たやすく助手席に招かれたはいいが、なまえの気持ちは依然として宙に浮いたまま、なんとなく落ち着くことができないでいた。それはもちろん隣にいるのが憧れの大女優、シャロン・ヴィンヤードであるということも確かに一理としてはある。だが、それ以上にシャロンがベルモットとして組織にいる関係上、今のなまえの悩みの原因でもある安室も赤井も、そしておそらく景光のことまで彼女は知っているということの方が、この緊張感を作り出している要因としては大きいだろう。彼らの話がもしここで展開されれば、そのときこそなまえはどのような反応を彼女に返せばいいのかわからない。
けれど、そんなことなど露知らず。素敵なドライブにはまず何か飲み物が必要よね、とシャロンは悠長に言ったかと思うと、堂々と路肩に車を停めてなまえの分まで飲み物を買ってきてくれた。帰って来たときには、お酒じゃなくて残念、という冗談まで一緒に与えてくれたから下戸のなまえも少しだけ頬笑みを返す。渡されたのは偶然にも、懐かしくて大好きなレモンスカッシュであった。
「これ……」
「どうせ好きでしょう? なんだかレモンを見ると無条件であなたのことを思い出すのよね」
「……」
「本当だったらお洒落なバーでレモンベースのカクテルでも一緒に楽しみたいところだけど、今日は私もこれで我慢するわ。日本警察のつまらない検問に引っかかるのも嫌だし」
シャロンはそう言うと、さっそくなまえとお揃いにしたらしいレモンスカッシュのプルタブを開けた。その瞬間、プシュッという炭酸飲料特有の爽快な音が車内に響いたかと思うと、女優らしい悠然とした笑みとともにすぐさま出発の乾杯を交わそうとしてくる。しかし、先になまえの缶がまだ未開封であったことに気づいたシャロンは「あら、まだ開けてなかったの?」と半ば呆れたようにそう言って。それからはまるで母親みたいにテキパキと、甲斐甲斐しく開いていない缶と自分の缶を交換するのである。
たったそれだけのことなのに、なまえは同性ながら既にくらくらとしてしまった。そして、目の前にいる彼女が、やはり憧れの女性であることを改めて強く思い知らされたような気持ちになったのである。
せっかく手入れされたネイルも厭わずに、シャロンは再び指を立てて缶のプルタブを開けた。そして、お揃いのレモンスカッシュを味見するようにすぐさま口をつけている。肝心の味はどうやらお気に召したらしく、美味しいわね、と彼女が微笑むのを見つめながらなまえも続けてひとくち飲んだ。
口内に広がるのは、やっぱり懐かしくて、大好きな味。大事な大事な、なまえのふるさと。
「今日はちょっと車が必要でね。前に私が変装していたナントカって先生が乗っていた車と同じものをレンタルしたんだけど、こんなに素敵な夜のドライブにあなたと繰り出すってわかっていたら、とびきりスピードの出るスポーツカーにでもすればよかったわ」
残念そうにそんなことを言うシャロンは手慣れたようにホルダーに缶を置いて、言葉とは裏腹に、実に穏やかに車を発進させた。それは彼女が自分の女神様を大切にしている証拠でもあり、なまえの方もその運転には一気に安心感を抱く。
確かにこの車は彼女には不釣り合いな、量産型である日本車のプリウス。車が必要だった理由を聞くのは野暮な気がして聞けなかったが、なまえは彼女の話からそれとはまったく別のことを考えていた。
シャロンの言うそのナントカという先生とは、蘭たちの通っている帝丹高校の校医でもある新出智明先生であるということはすぐに察しがついた。一時期、彼は変装したベルモットの身代わりとして彼女から命を狙われ、FBIの管理下において保護されていた過去がある。そんな新出のことを、もう名前すらも忘れたと簡単に言い放ってしまうのだから、なまえはシャロンが犯罪者であるということを画して強く感じざるを得ない。
それにしても犯罪者、か。月夜に切り取られた美しいシャロンの輪郭を見つめながら、なまえはその言葉とともに、先ほど自宅で話をした赤井の顔をぐるぐると思い巡らせていた。赤井もシャロンと同様に人殺しである、と。それも親友を殺した忌むべき犯罪者なのだ、と。そう思った瞬間、大声で泣き出したくなるくらい悲しくなる。やはりなまえはまだその事実を、きちんと受け入れることができていない。
「……そんなに見つめられると、照れるわね」
「あっ、ご、ごめん……」
「冗談よ。見られるのは慣れっこ。女優なんだから」
車は寸分も迷わずに高速道路に入っていった。同時にシャロンはカーステレオを器用に片手で切り替えて、車内にはジャズのスタンダードナンバーが流れ始める。奇しくもそれは以前、安室の車で移動中に聞いていたものと同じで。それを契機として、運転者である彼女はなまえに対して一番気になっていることを尋ねるのである。
「そういえば。あなた、随分とバーボンには執着されているようだけど、まさか彼とは恋人関係だなんて言わないわよね」
一瞬ながら、なまえはその質問に対して露骨なくらい言葉を詰まらせてしまった。それは安室に抱いていた好意を見透かされてしまったからというよりは、彼の話題がやはりここで出てしまったかという諦めのような感情に起因する。
「……彼とはそういうのじゃないから」
なんと返せば動揺が悟られないか。それをよく吟味して考えた末に、なまえは精一杯の言葉でそう返した。しかし、その長考に対して、シャロンは気にも留めない。ただ、ふっと優しく笑ったのである。
「へえ、そう。安心した」
「え……」
「それで? 恋人じゃないなら、バーボンとあなたはどういう関係なの?」
矢継ぎ早にきた第二の質問に答える前に、なまえはシャロンがやけに引き下がるのが早いように思えてならなかった。それは恋人ではないという事実を早々に見抜いていたからなのか。それとも本当にどうでもいいことだったからなのか。どちらか二択であるだろう。ともあれ、シャロンが何を考えているのかはわからないが、同僚としてよく行動をともにしているらしい安室との仲が気になるのは当然であるとも思う。
しかし、そんな深読みも虚しくシャロンは素直に安心していたのだ。嘘つきなバーボンとなまえが恋人ではないことを。
組織に属している彼女が願うのもおかしいことなのかもしれないが、シャロンはできるだけなまえにはこちら側に近づいて欲しくないと思っていたのである。それは彼女が工藤新一の姉である以上は不可能に近いだろうが、できれば彼のガールフレンドである毛利蘭と同じように、陽の当たる場所で、何も知らずに生き続けて欲しいと思う。そのためには、できればバーボンとは何の関係性も持たないで欲しかったのだ。
一方のなまえはシャロンの質問に適切な正答で返すため、いろいろと考えを巡らせていた。安室との関係は、一言で言ってしまえば高校時代の同級生。唯一無二の親友で、眩しいほどの「光」をくれた大切な存在でもある。もう失いたくないし、離れたくもない。だけど、それをシャロンに告げることは安室が正義側の人間であると言ってしまうようなもので、たとえ相手が彼女であったとしてもその関係性をたやすく口にはできなかった。
故に、なまえはこう返す。一年前のファントムシアターで、開演前に彼女から渡された例のメモにちなんでの言葉を。
「……It's a secret」
その言葉は若干の緊張が含まれていた。なまえにとっては単なるユーモアでも、もしかするとシャロンを怒らせてしまうかもしれないと思ったからである。
だが、当の彼女はわずかに一呼吸置き、自身が過去に書いたメモのことを思い出して運転席で大笑いするのであった。
「なかなか粋な返答ね、気に入ったわ」
「あ、ありがとう……ところで、シャロンはバーボンと一緒に行動することが多いんでしょう?」
「ええ、そうね。この前もFBIの仔猫ちゃんから重要な情報を引き出すためだとか言って散々こき使わされた挙句、結局はバーボンの勘違いだったなんてことがあってね。『もうこういうのはナシにしてよ』って、お灸を据えたところよ」
「!」
「ほら、なまえも覚えているわよね? 一年前のニューヨークであなたのことを助けたFBI捜査官。赤井秀一のこと。ジンの作戦で来葉峠に呼び出して、拳銃で頭を撃ち抜き、業火に焼かれて死んだ……その赤井が生きているだなんて突拍子もないことをバーボンが言い出して……」
その話題に、なまえはまたも言葉が出なかった。バーボンこと安室に赤井が生きていると悟られたという話を弟の新一から聞かされたとき、その裏で手助けしていたのはやはり変装の名手であるシャロンだったのである。そして、彼女の今の話しぶりからして、組織では未だに赤井が死んでいることになっているらしいとわかる。それは、来葉峠で起こったFBIと公安のカーチェイスの真相を安室が組織に報告していないということと同義であり、つまり彼が正義側の人間であるということを指し示していた。
「もしかしたらシルバーブレットから聞いてあなたも知っているのかもしれないけど。あの赤井って男は以前、組織のスパイとして潜入していたひとりでね。シェリーの姉との交際を利用して組織入りを果たしたのはいいけど、その数年後には別のFBI捜査官のヘマでNOCだとバレて永久追放。だから私があなたを利用して、一年前のニューヨークで彼の命を狙ったってわけ。赤井が組織にいるときに入手した犯罪者の顔写真入りリストの中から通り魔を繰り返していた男を選んで、その人物になりすましてね」
シャロンのその話の中には、なまえの知っていることと知らないことが混在していた。シェリーの姉。つまりそれは、灰原の姉であった宮野明美のことである。新一から彼女が関わった十億円の強盗事件について話を聞いたことのあったなまえは、その名を聞いた途端、ずきりと心臓をえぐられたような気がした。宮野明美と赤井が交際していたという事実は初耳であり、その彼女が死んだということを赤井はもちろん既知しているのだろうと思う。そんな彼の心境を思うとさすがにいたたまれないが、同時になまえの心の中も複雑な感情でぐちゃぐちゃだった。
今さらながら思えば、なまえは赤井のことを何も知らないままであった。先日、世良の言葉尻から感じ取った彼の両親のことも。今の宮野明美のことも。ジョディと交際していたかどうかについてもわからないままなのだ。だけど。だけど……。
なまえが赤井のことを本気で好きだったということだけは、確かに揺るぎない事実であったのだった。自分以上に大切にしてくれる赤井のことを、なまえの方も自分以上に大切にしたいと思っていた。それはもちろん、許されることなら今も。
動揺を隠すために、なまえは渡されたレモンスカッシュをひっきりなしに飲んでいた。酒ではないはずだが、なんとなく先ほどから飲む度に頭がぼんやりとする気がする。別にそれでもいいか。このまま何も考えられなくなればいい。そう思いながら缶を頻繁に傾け、等間隔の街灯と心地よい揺れにまどろみ始めていた。
一方のシャロンはそんななまえに気づくこともなく、あっけなく赤井の話を終わらせてしまう。
「まあ、死んだ男の話なんてもうどうでもいいわ」
「……」
「でもね、なまえ。これだけは言っておきたいの」
そうして神妙に口を開くシャロンの方は一切見ず、なまえはなぜか急激に重くなった瞼を素直に閉じる。
「私はバーボンよりはよっぽど、赤井みたいな男の方があなたにはお似合いだと思うのよ。笑っちゃうでしょう? どうしてかしらね」
「……」
「……って、もう寝ちゃったか」
シャロンはそう言うと、カーステレオの音を小さくした。少しでも、彼女の安眠を妨げないように。
結論から言えば、シャロンのその発言はひとりごとになってしまった。なまえの手から缶がこぼれてしまう前にひょいと軽く持ち上げると、残りわずかな中身を窓からいたずらにこぼして捨てる。
実は缶を交換した際、わずかな隙を見て睡眠薬を溶かし入れていたのであった。でないと、思いつめた彼女をこのまま何もせずに手放せば、本物の亡霊になってしまうような気がして。せめて束の間だけでも何も考えることができないよう、穏やかな安息を彼女に与えてやりたかったのである。
シャロンは次に自身の携帯電話を取り出して、とある番号に電話をかけた。その人物は予定的にもしかすると出ないかもしれないと思ったが、割に早く着信を取ってくれて安堵する。
自分のような汚れた手では、どう足掻いたってなまえの涙をすくう母親にはなれないから。
「Hi. 久しぶりね。さっそくだけど、これからあなたの部屋に大切な宝物をお届けにあがるわ。……ええ、そう。大事な大事な、レモンイエローの女神様よ」