122b...
なまえが目を覚ますとそこは既に彼女の知らない場所で、やわらかい間接照明のついたどこかのホテルの一室であるらしかった。すぐに記憶のページを手繰り寄せてみれば、偶然出会った憧れのシャロンと夢みたいに素敵な夜のドライブに繰り出していたことを思い出す。しかし、レモンスカッシュを飲みながら話をしているうちに気づけば眠ってしまったようで、いつの間にやら車からも降ろされて、こうしてベッドの上で呑気にも寝かされていたということらしかった。
ここはシャロンが滞在している部屋なのだろうか。それとも、誰か別の。そう思って覚醒したばかりの意識をぼんやりさせていると、突然、横たえた足元の方から明るい声がかかる。
「あら、目が覚めた?」
そう言われて驚き、反射的に上体を起こした。なにせ、その声には聞き覚えしかない。十二のときから一緒に暮らしてきた大好きな相手なのだから。
部屋に鏡台として置かれたデスクの前。そこに背中を預けるようにして立っていたのは、先日のマカデミー賞という大舞台にも臆さず堂々と夫の変装をして登壇していた工藤有希子。言わずものがななまえの母親である。
「気分はどう? お水でも飲む?」
「シャ、シャロン……?」
「あ。それ絶対言われると思ったけど、私は本物よ」
有希子は一瞬、心外と言わんばかりの顔つきをして眉を釣り上げ、まるで自身の存在を誇示するみたいに強く胸を叩いた。先ほどまで一緒にいたはずの変装の名手であるシャロンになら、実に子どもっぽい今の彼女の言動ですら簡単にコピーできてしまいそうだが、そう考えたところで今度は逆にシャロンがそんなことをする理由が見つからない。故に、目の前にいるのは本物の有希子であるとみなしてまず間違いないのだろう。
「本当に母さんなの……?」
「イエース!」
「どうして……」
さすがに弟の新一には劣るが、生粋のホームズフリークであるなまえの推理力ですらこの状況には太刀打ちできなくて、頭の中はとっ散らかったように混乱しきっていた。赤井が人殺しであるという事実が恐ろしくなって家から飛び出し、シャロンに拾われて彼女とドライブを始めた後、居眠りをしてしまったらなぜかアメリカにいるはずの母と再会、なんて。意味がわからないにもほどがある。それに、この部屋を見渡せば実に見晴らしのよい高層階のツインルームのようで、一緒に泊まっていると思われる優作の姿がないことも同時になまえには気にかかってしまう。少し前にはなるが、確か赤井の変装チェックももう大詰めだと言っていたような覚えがあるので、母だけがわざわざツインルームを取って来日している理由はどこにも見当たらない。
そんな娘の困惑を感じ取った有希子は察するように優しく頷くと、手始めに自身がここにいる理由について語り出す。
「実は優作に『緋色の捜査官』の逆輸入本の話が来ててね? 日本の出版社と打ち合わせがあるって言うから便乗してついてきたの。そしたらいきなり知らない番号から電話がかかってきて、その相手がシャロンなんだもん。びっくりしたわ! きっと彼女、私たち夫婦が来日してるって知ってたのね」
「……それで、シャロンは?」
「ここまでベルボーイの変装をしてあなたを運んだらすぐに帰ったわよ。何か用があるんだって」
「……そう」
なまえはとっさに目を伏せて、お節介にも心の中にいる神様に祈ってしまった。その用が何なのかは知らないが、これ以上シャロンの手が黒に染まりませんように、と。
「それで。どうして別れたの、あなたたち」
「え?」
「シュウちゃんとなまえちゃんのことよ! 今さらとぼけても無駄なんだからね。てっきりふたりは結婚秒読みだと思ってたのに」
あまりにも有希子が恨めしそうに言うから、なまえは二の句が継げなかった。会えば絶対に聞きたがられる質問だとと思っていただけに、あらかじめ返答を考えておくべきだったのかもしれない。だが、さすがにここで母に会うとはよもや思いもしておらず、当然ながら何の言葉の用意もなかったのであった。
そして、なまえは有希子の娘だからこそ彼女のことでよく知っていることがある。それは、こういうときの母は、想像通りしつこいのだということだ。

case122b. 話がしたいよ
空調機が風を吐き出す音以外に何も聞こえない部屋で、なまえはしばらく無言のままみっともなく狼狽していた。件の変装チェックのために彼と別れた翌日に工藤邸に来ていたはずの有希子ではあるが、結局、高熱のせいで会えずじまいとなり、その際に赤井からどのような話を聞かされたのかは計りかねたからである。
けれど、彼の口から語られない限りは、交際関係を解消したという話は誰も知り得ない事実であるということはそもそも理解できていた。先日の世良然り。彼女がその話を聞いたという蘭やコナン然り。その流れなら、おそらく園子も然り。もしかすると、彼女たち女子高生組が常連として通っているポアロの梓や安室にも既に周知された話だったのかもしれないと思うと途端に頭が痛くなる。できることならタイミング的にもそっとしておいて欲しい話題ではあるが、それが有希子に通用するとは思えない。
「で。どうして別れたの」
今度は語尾に疑問符もなく、再びそうして凄むように聞いてくる母にたじたじになりながら、なまえは未だにもごもごと口ごもっていた。世良や蘭ならともかく、母親である有希子に話すには些か内容が恥ずかしすぎる。それに、いい歳した成人済みの娘の恋愛にいちいち口を挟むのはいい加減やめていただきたい。
しかし、そんな思いもまるっきり通用しない有希子は、頑なに口を割らない娘にとうとうしびれを切らしたようで。叱責ではなくなぜか不敵にふっと笑うと、以前、アメリカのテレビ番組で優作の受け売りを盾に事件を解決してみせたときのように、得意げになって推理ショーを披露し始めるのであった。
「……やっぱり、あの安室って人のせいなんでしょう?」
「えっ」
「私の推理が正しければ、おそらくそれはシュウちゃんと付き合う前。あの安室って人にそそのかされていたなまえちゃんは、ベルツリー急行の一件で彼が組織の一員であると理解した……。しかァし! なまえちゃんを諦めきれなかった彼が再び接触を図ってこようとうちの家に来て、優作扮する昴くんに喧嘩をふっかけた……ってわけね?」
「え、えっと……?」
「新ちゃんの作戦でこてんぱんにやられちゃった彼だけど、なまえちゃんは彼が公安だとわかって文字通りの再熱。その熱でちょーっとくらくらしている隙にシュウちゃんと会って喧嘩になり、彼の方から別れを切り出された……ね、違う!?」
「……」
「でも、いい加減、早く目を覚ましなさい。なまえちゃんは彼にそそのかされているだけなんだから!」
「いや、覚めてるんですけど……」
まるで漫才のようなやりとりだ。頭が痛い。なまえは自分よりも数段若い考えをしている有希子に久しぶりに圧倒されながらも、彼女の推理をふまえて一度整理しながら考えてみることにした。
まず、当然ではあるがなまえは安室にそそのかされてなどいない。ちゃんとなまえの意思で彼のことを好きになったし、その後もきちんと考えて、赤井と交際することを選んだつもりだ。安室が公安の人間であり、降谷であると判明したときには体調不良もあってその場で倒れ込んでしまったが、その好意が再びぶり返すということは残念ながらなく、以前のように彼と想いを交し合いたいと願っているわけでもない。
ただ、なまえにとって降谷のことが好きだという事実は今さらながら当然すぎることで、容易に清算できる過去ではないということは明らかなのであった。それが恋愛か恋愛でないかは別にして。彼女にとって降谷零という人物は、諸伏景光と同様に生涯において唯一無二の親友なのだと。先日の一件でより強く痛感したことには違いない。
残りの推理に関しては概ねその通りで、故になまえの方もすべてを反論することはできそうになかった。そこに、なまえと降谷が高校時代の友人であったこと。たったそれだけのピースをひとつ加えさえすれば、その推理は完璧なものになるだろうと思う。
しかし、そんなことなど思いもしていないらしい有希子は、まるで飛び火でもしたようにぷりぷりと怒りながら珍しく夫の愚痴を言い始めるのである。
「優作も優作よ! シュウちゃんじゃなくて、何かとあの安室って人の肩を持つんだから。『六年前に俺のサイン会にいたアルバイトのスタッフだったから』とかなんとか言っちゃってさ。でも、普通アルバイトの顔まで覚えていられる? 絶対に怪しいわよね?」
「!」
その発言にはさすがのなまえも驚かされた。サイン会。スタッフ。六年前。そのワードから弾き出されるのは、彼女が知り得なかったあるひとつの仮説である。
優作がサイン会の末端のスタッフの顔まで覚えていた理由として頭をよぎったのは、もしかするとなまえの高校時代の写真をどこかで見て、そこで降谷の顔を覚えたのかもしれないということであった。娘の親友とわかっていれば親として忘れにくくもなるだろうし、律儀な父のことだからサイン会のスタッフにいた降谷に隙を見て挨拶しようと機会を見計らっていたということも十分に考えられる。
そして、何より降谷がその場にいた理由は、優作のサイン会のスタッフとして紛れ込んだ際に、イベント中、控え室で工藤邸の鍵を盗むためだったと考えるのが自然であった。それはもちろん、なまえから思い出の詰まったアルバムを盗むために。そう考えると、すべてのつじつまが合う。
「……零も馬鹿だな」
なまえはぼそりと呟いて、高校時代によく見た彼の得意げな表情を思い出し、少しだけ笑ってしまった。父さん相手に、そんなこと通用するわけないのに。でも、そこがなんとも彼らしくて。やっぱり嫌いにはなれないなと思う。本当に、降谷のことになると自分が甘くてどうしようもないくらいだ。
未だにぶつぶつと愚痴を言い続けている有希子に対して、なまえはようやく素直に腹を決めて口を開くことができた。降谷のことを見捨てられないと改めてわかったからこそ、赤井と別れた理由についての話を告げられる。そんな風に思ったからである。
「……安室さんのせいじゃないよ」
「え?」
「きっと秀一には愛想尽かされちゃったんだと思う。私がいつまでもこうして安室さんのことを見捨てられないから」
そうして秀一をずっと傷つけていたから。だから、今度は逆に私が彼に見捨てられてしまったんだ。なまえは悲しそうにそう言うと、流れそうになった涙を我慢するために目頭を押さえた。泣く資格はない。だって、一番悪いのは自分なのだから。
なまえは赤井に対して負い目しかなかった。利用すればいいと言われた言葉を真に受けて付き合い、結局、散々なほど傷つけるだけ傷つけた。そんな最低な女だったから、彼に嫌われるのも当然だったのだ。
何もかもが手遅れになってから気づいてしまった。いつの間にか、赤井のことがこんなにも好きだったということを。そして、その彼とはもう二度と想い合えないということを。
けれど、有希子は笑って、その言葉をきっぱり否定する。
「シュウちゃんは、なまえちゃんのこと見捨ててなんかいないわよ」
「え?」
「だって、私たちに『なまえとは別れました』って言った後の彼の背中、すごく寂しそうだったって新ちゃん言ってたもの。あれはきっと別れたくて別れたんじゃなくて、なまえちゃんの幸せを思って離れることを選んだんじゃないかって。にしては、方法がちょっと不器用すぎるけどね」
「……」
そう言われた瞬間、なまえの瞼には見てもいないのに映ってしまった。赤井の大きな背中がちっぽけに見えてしまうくらい、あまりにも小さくなった彼の寂しそうな姿が。
「でも、いいじゃない? 誰のことも見捨てられなくたって。シュウちゃんもなまえちゃんもその辺りに関しては本当に似た者同士だなって思うわ」
「母さん……」
「なまえちゃんが結局どっちを選んだって母さんたちは味方だけど。でも、そうね……同じ女としてひとつだけアドバイスするとしたら」
有希子はそう言うと、勝気な顔をして笑う。
「女は振り回すくらいがちょうどいいのよ! 特になまえちゃんの場合は今まで散々、運命に振り回されてきたんだから、こうなったら心底悩んで決めたっていいわ。大丈夫。神様もきっと許してくれるわよ」
まあ、私は最終的にシュウちゃんを選んでくれたら万々歳なんだけどね! と、そう言うと、有希子はウインクして屈託なく笑う。なまえは母のそういうところが昔から大好きだった。
「さ、今日はもう寝ちゃいなさい。明日のことは明日考えるに限るんだから」
「……」
「私はシャワーを浴びて来るわね。優作は編集者と会食だから夜は遅いと思うし、ホテルにはきっちりあなたの宿泊費も払ったから今日は気にせずゆっくり寝なさい」
おやすみ、とまるで子どものときのようにキスをされて、なまえは恥じらうように頬を押さえた。孤児院から工藤家に引き取られて来たときから始まったこの愛しい習慣が、孤独だった自分に「家族」を教えてくれた。そして大きくなるにつれて次第にその習慣もなくなり、親友に置いてけぼりにされて、一緒に暮らしていた新一が幼児化して再びひとりぼっちになった頃。そんな工藤邸で、なまえに初めておやすみのキスをしてくれたのは他の誰でもない、本気でなまえのことを愛してくれた赤井秀一だったのである。
有希子や優作が家族を教えてくれた存在なのだとしたら。赤井がなまえに教えてくれたことは、たぶん「愛」だろう。
母が浴室に行ってしまったことで一気に静かになった部屋ではあったが、なまえはしばらく寝つけそうにはなかった。代わりに流れる水音を聞きながら、手を伸ばすのは自身の携帯電話。いっそう晴れ晴れしいような穏やかな気持ちで、とある人物に電話をかけるのである。
この六年間、一度も繋がることのなかった番号へと。
「もしもし、零? 私だけど」
もう一度、話をしようよ。誰よりも光をくれたあなただから。