123b...
話をしようよ。そう言ったなまえを後日、医務院まで迎えに出た降谷が会話の場として選んだのは落ち着いたカフェや閉店後の喫茶ポアロなどではなく、彼がまだ安室透として、いつしか彼女を連れ出したことのあった静かな夜の海辺であった。赤井につけられた首筋のキスマークを隠すために「明るくないところ」と苦々しくなまえが指定した場所。そこなら、まるで世界中にふたりきりしかいないのではないかと錯覚を起こすほど人気はなく、大切な、秘密を含んだ話をするには実にもってこいの場だと思えたからである。そして、何よりも降谷はあのとき安室透だったからこそ言えなかった「好きだ」という言葉をとうとう正直になまえにぶつけるつもりでいた。
乗り合わせた車内では、不格好にもお互いの気まずさを露呈し合うみたいに会話はなかった。ただ、降谷が横目で盗み見たなまえの視線はまっすぐ前だけを見据えていて、彼は少しだけそれが怖くなる。あまりにも高貴で、聖なるもののようだったから。それは大袈裟に言ってしまえば彼女自身が神様の形をしているようにも思われて、降谷はつい畏怖の念から、ハンドルを握る手に力を込めてしまう。組織の一員であるベルモットにまで「嘘つき」だと辛辣に忠告されてしまうくらい、これまで散々なほど数多の嘘で彼女のことを傷つけてきたから。だから、嘘つきなこの手では、こんなにも気高い彼女に触れる資格すらないのではないかと。今さらそんなことを誰に言われるまでもなく、彼自身が一番よく思い知っていたのである。
無言のまま到着するなり、ふたりは靴紐を解いて裸足で浜辺に降り立ち、冷たい砂の上を踏みしめてしばらく並んで歩くことにした。汚さないように折り返したジーンズの裾。スニーカーの踵の部分を引っ掛けた指の先。寄せては返す潮騒と、冬の海に乗って流れる風が痛々しいほど頬を打って。なんとなく、すべてが以前に来たときよりも物悲しいものに変わってしまったように感じられた。
降谷は後悔していた。この浜辺で、かつて引力のように自然なキスを交わした、あのとき。自意識過剰なのかもしれないが、確かになまえと自分は互いに同じ想い寄せ合っていたと思う。「好きだ」というはっきりとした愛情の言葉がなくとも、抱きしめ合ったときの鼓動が代わりにすべてを証明してくれたような気がしていた。けれど、それはあくまで降谷零としてではなく、安室透としての話。本当の姿で告白したいというあのときのエゴが正しかったのかと今さら悔いるように問うてみても、残念ながら過去はもう誰の手にも巻き戻すことができない。
「零」
突然、今日会ってから初めてなまえが彼の名前を凛として呼んだ。波の音に紛れてしまうくらい微かな声だったけれど、驚くほどはっきりと耳に飛び込んで染み入るように鼓膜に馴染んだのは、高校時代の彼女と重なったせいだろう。
降谷は途端に我に返って、半ば驚きとともに彼女を見つめた。すると、はためく髪をかき上げながら月夜に照らされたなまえが悲しげに言う。
「どうして、今日は最初からずっと泣きそうな顔してるの」
その言葉にはっとして、降谷は一瞬、何も言い返すことができなかった。ただ目を伏せて、口をきゅっと真横に固く結ぶ。どうして、か。どうしてだろう。泣きそうな顔なんてしているつもりすらなかったが、彼女にそう指摘された途端、そうなのかもしれないと変に納得している自分がいた。
本当は「話をしようよ」となまえに言われたときから、薄々気がついていたのだ。その話が、降谷にとっては決して朗報ではないことを。そして、自らの咎としてその話をしっかりと受け止めなければならないということを。頭のどこかではきちんと理解していたのだと思う。
ただ、この積年の想いを吐き出しもせずに黙って飲み込むことだけは、身勝手ながらどうしてもできそうになくて。故に、依然として降谷はなまえに泣きそうだと形容された表情を保ったまま、彼女に向き直って言い放つのである。
「なまえの話を聞く前に、今日は僕の口からきちんと言っておきたいことがあるんだ」
海よりも深い、アイスブルーの瞳が揺れていた。そこに彼の意思の強さを感じ取って、なまえはただ息を飲み、無言で頷く。月光がふたりの輪郭を切り取って、きらきらと輝いている。その線はあまりにも美しく、今にも消えてしまいそうなほど儚げであった。
降谷は神様のような彼女の頬に、冷たい嘘つきな指先で触れた。そして、おもむろに口を開くのである。ずっと言いたくても言えなかった、本当のことを言うために。
「……好きだ」
降谷がそう口にした瞬間、海風が大きく吹いた。
「ずっと正直に言えなくてごめん。嘘ばかりついてごめん。でも、この想いだけは嘘なんかじゃない」
「……」
「好きなんだ、ずっと。高校のときから。僕は、ずっとなまえしか欲しくない」
言った傍から子どもっぽいことを言ってしまったのではないかと後悔した。まるでひとつの玩具を強請り続ける子どもみたいだと思えたからだ。けれど、それでも降谷は震えながら尚も語気を強めていく。好きだ、と何度も。懲りずに押し寄せる波のように、隠していた想いを溢れ出すように。
そんな縋るような告白に、なまえは一呼吸置いてから、自身の頬に乗った彼の手に手を添えた。そして包み込むように握って、言う。
「私も、零のことは好き」
「!」
「でも、一番辛いときに一緒にいてくれた彼のことを、私は裏切ることができない」
なまえが降谷にしたかった話とは、まったくその一言に尽きた。
裏切ることができない。そう言ったなまえの頭の中では、瞬間的に赤井との様々な思い出が明滅するように激しくフラッシュバックしていた。沖矢昴として始まった奇妙な同居生活。始めは戸惑いや齟齬も多々あったけれど、徐々に打ち解けて、いつの間にか掛け替えのない日々をふたりで送るようになっていた。彼の正体を明かされた後は、以前にも増して赤井はなまえのことを誰よりも大切に守ってくれるようになって。いつも暖かく、決して手を離さないでいてくれた。愛を教えてくれた。孤独ばかりを歩んできた彼女にとって、それがどれほど心強いものであったか。きっと自然と人を愛することができる彼は、当然すぎてそんな大それたことをしたなどとは思いもしていないのだろう。
もちろん、なまえは昔から降谷のことが大好きなことに変わりはなかった。景光と一緒になって、家族の次に光を与えてくれた人。それは確かに嘘偽りのない事実だけれど、それ以上に、気づけばなまえは赤井に心を奪われてしまったのだと思う。離れたくもないし、離したくもない。確証はないけれど、それがきっと「愛」というものなのだろうと本気で思えた。
重なった彼女の指先が小刻みに震えているのに気づいた降谷は、身につまされるほどの罪悪感と後悔を覚えていた。こうなることはわかっていた。この結末を招いたのはすべて自分で、当然の結果であると。そう思う反面、でも途方もなく切なくて。今まで感じたことのないくらい、胸が痛くて張り裂けそうになる。僕のものにならないのなら、このまま誰の手も届かないところで永遠に囲ってしまいたい。けれど、そんなことをしたってなまえの気持ちを知った今では、どう足掻いても彼女を傷つけることにしか繋がらないから。
だから、静かにこの想いを殺していくしかないのだろうと思った。これまでの贖罪として、猛烈な胸の痛みを抱えながら。
波の音を聞きながら、降谷は微かに震えた声で話し出す。それはまるで神に懺悔でもするような悲しみを帯びた口調であった。
「実はこの前、お前に話せなかったことがあるんだ」
「え?」
「ヒロは赤井秀一に殺されたわけじゃない。本当は……あいつの、自決だったんだ」
「!」
降谷はそう言うと、なまえに対して釈明のような言葉を続けた。赤井秀一に殺された。あのときは確かにそう言ったが、本当はそこに大きな語弊があった。組織の上層部への報告ではライが景光を殺したことになっているし、結果的にはそうなったことには違いないのだとは思う。けれど、死んだ景光が拳銃を握っていた手の親指。そこに付着しているはずの彼の血は綺麗なほどなく、それはつまり、景光自身がその引き金に指をかけていたことを示しており、彼の手で自らの死を招いたことを意味していた。NOCだとバレそうになったときは公安として互いにそうしようと決めていたルールに則って、彼は忠実にそれを守ったに過ぎなかったのだ。
降谷は思う。あの日。ポアロでこの事実を正直になまえに告げられなかったのは、一体、どうしてだったのだろうか。言えていたら、何かが違っていたのだろうか。そんな彼の後悔はいつまでも尽きない。
人生には葉脈のように無数の分岐があって、人は日々それをひとつずつ選んで生きている。どこかでひとつでも選択が違っていれば、結果は大きく変わるかもしれないのに。それに気がつくのは、いつだって何もかもが終わってからなのだ。
一方のなまえは降谷からその話を聞いて最初は驚いていたが、徐々にその言葉に信ぴょう性を感じて納得するようになっていた。「ヒロを殺したの?」という質問に赤井が答えた肯定はやはり嘘。その嘘の意味こそ、世良や有希子が言っていた通りなまえの幸せを思って離れるためだったのだと知る。
秀一も、馬鹿だな。私の幸せは今でもあなたが持ってるのに。
「悔しいけど、認めるよ。僕よりもあいつの方がなまえのことを幸せにできるって僕でもそう思う。心の底から、死ぬほど、悔しいけど」
「零……」
「なんて。ひどい負け惜しみだよな」
降谷はいっそ取り繕うように明るく自嘲すると、改めてなまえに向き直った。そして、再び言葉を続ける。
「負け惜しみついでに、もうひとつだけ格好悪いこと言ってもいいか?」
「?」
「……抱きしめても、いいか」
その悲痛な願いはさすがになまえの胸を打った。降谷の想いに寄り添えなかったことを、申し訳ないと思いながら彼女は小さく頷く。
それを皮切りに、ふたりの影は以前とまったく同じ場所で悲しくも最後にひとつに重なった。降谷の体温に触れることはもうこの先ないかもしれないけれど、彼の暖かさだけは忘れないようにしよう。この、光源のような暖かさを。永遠に。
「好きだ」
「……うん」
「すごく、すごく……大好きだった……」
「……うん、ありがとう」
なまえのために必死に想いを過去形にしようとしている降谷の優しさが、じわじわと彼の体温から伝わってきていた。なまえはその想いを真摯に汲み取りながら、ぎゅっと彼の背に手を回す。降谷もそれに甘えるように、また、最後の名残を惜しむように。彼女を抱き止める腕に力を込めた。
やがてお互いに同じタイミングでそっと離れると、降谷は照れたように頭を掻いて、気まずさからか目も合わせてくれなかった。なまえにはそれがまるで高校時代の彼のように思えて、少しだけ笑ってしまう。すると、彼の方も同じく笑うので、自然と気まずさは一気に和らいでしまった。笑うなよ、とすぐに小突き合いまでできるようになるのだから、それが彼らの結束の強さを物語っている。
「悪かったな。随分、困らせたろ?」
「ううん」
「こんなことお前に言うのは、未練たらしく聞こえるのかもしれないけど。これからも、できれば僕とは友達でいて欲しい」
降谷零でいられる場所が、なまえしかいないから。彼のその言葉に、再びなまえはくすくすと笑った。友達でいて欲しいだなんて、今さらすぎる申し出だったからだ。
この十年以上にもなる長い間、一度たりとも彼のことを友達じゃないなんて思ったことないのに。
「そんなの、当たり前じゃない」
なまえは首を傾げて、降谷の顔を覗き込むようにそう言った。その表情に、まるで癖のように愛しい想いが芽吹いてしまう降谷は若干たじたじになる。これが惚れた者の弱みというものなのだろう。忘れるにはまだかなり時間がかかりそうだけれど、着実に違う想いへと昇華していかなくてはならない。
それにしても「友達でいて欲しい」だなんて。本音を言えばただの強がりだった。それでも、なまえを傷つけた十字架として一生この痛みを背負いながら生きていくことにするよ。降谷は、月下の海辺を歩き出したなまえの背中に向けてそんな言葉を心の中で投げかける。
いつの間にか彼の表情は緊迫した泣きそうな顔から、一気に晴れ晴れしい表情へと変化していた。それは恋から友情へと徐々に移り変わるサインになりうる兆しなのかもしれない。
すると何の前触れもなく、くるりと無邪気になまえが振り返る。
「今度、ヒロの最期の場所に……ヒロに会いに連れて行ってよ。ね、零?」
降谷はそれに大きく頷いた。潮騒の中に景光の声が聞こえた気がした。
case123b. 星が降る夜の海辺で