extra...
長年想いを寄せ続けてきたなまえと降谷が交際を始めてから、既に数週間が経とうとしていた。その関係はすこぶる良好で、友人というアドバンテージがあるからこそ、お互い一緒にいても気飾ることがなく、特に降谷の方は「降谷零」という素のままの自分でいられる数少ない相手として、輪をかけて恋人のことを大切にしているようである。一方のなまえも、最初は友人としての垣根を越えるのがどうしても恥ずかしかったらしいのだが、徐々に異性としての彼に惹かれ、軽いキスくらいなら容易に許すようにもなっていた。日毎に進展していくふたりの関係性に、降谷はしみじみとした幸せを噛み締めつつ。件のクリスマスシーズン以降はとても充実した日々を送っていたのである。
が、しかし。
人間とは実に欲深い生き物である、と彼は思う。ひとつを手中に収めれば、次はもうひとつ先が欲しくなる。そして、その欲は永遠に止まることを知らない。
ようするに、降谷はなまえに嫌われたくないという思いを抱えながらも、本心では彼女に触れたくて堪らなかったのだった。抱きしめ合ったり、キスをしたりするぐらいじゃもう物足りない。むしろ余計にその欲を煽ってしまうだけ。
本当はもっと、その先が欲しい。できることなら彼女のすべてが。
「そろそろ行こっか、零」
そう言って食後のティーカップを置くなまえに、我に返った降谷は少しビクリとした。自分が考えていたことが急にやましいことのように思えて後ろめたい気分にもなるが、それは結局、恋人という関係である以上、自然の摂理なのだと誰に向けるでもない正当性を訴える内なる自分もいる。しかし、そんな降谷の脳内に天使と悪魔がうろついていることなど知りもしないなまえは、怪訝そうな顔つきで彼の調子が悪いのではないかと心配しながら尋ねるのであった。
「どうかしたの?」
「いや……」
「?」
「……なまえ、あのさ」
「うん?」
「……」
駄目だ、こちらを覗き込むその表情ですらあまりにも可愛すぎる。そう思った降谷は一瞬くじけそうになりながらもとうとう腹を決めて、ずっと言い出せなかった言葉をようやく口にするのである。
「……この後、家に来ないか」
その誘い文句を告げるとき、降谷は自身の下心が絶対に悟られないよう入念に気を配り、表情筋や声のトーンなどの細部に至るまで完璧に自分をコントロールするように努めた。ある意味、その行為はバーボンや安室透などという通名を名乗っているとき以上の緊張感を持ち、まるでひとつの任務を堅く成し遂げる勇ましい兵士のようでもあっただろう。そのくらい、彼はこの小っ恥ずかしい誘いにある意味で勝負をかけていたのである。
降谷がそう告げた場所は、今しがた夕食をとったばかりのお洒落なイタリアンレストラン『Asuka』の中だった。普段から激務である彼らふたりはデートとなると、まずは降谷がなまえの職場に迎えに出向き、一緒に夕食を食べて、そのまま工藤邸に彼女を送るというルートが定番である。けれど、明日は珍しく降谷の方が休み。なまえは仕事らしいので、彼女さえよければ明日の朝、出勤時間に合わせて車で送っていくことができるのではと考えたのであった。つまり、それは暗に「泊まっていかないか」という意味を孕んでおり、恋人であればその意図もさすがに理解できただろうと降谷は思う。
しかし、その提案を聞いたなまえはわずかに息を飲んだ後。パッと花が咲いたような表情を見せて食い気味に身を乗り出すのである。
「えっ、いいの!?」
その、予想外なほど嬉しそうな彼女の反応にはさすがの降谷も一瞬、面食らってしまうのであった。しかし、なまえが矢継ぎ早に告げる第二の発言で、彼は逆にその意を理解するのである。
「ハロちゃん、いるよね!?」
「え……? ああ、まあ……」
「やった!会いたかったんだ!」
なまえはそう言うと、急にスマホで近場のペットショップを検索して営業時間を調べているようだった。もちろん、時間的に開店している店舗はもうないが、彼女はどうしてもハロにお土産を買いたいらしく、コンビニに何かいいものがあるだろうかと甲斐甲斐しく思案している。その様子に降谷は絶句しつつ、そういえばここのところ順調すぎて忘れかけていたが、恋愛面においてなまえは極度の鈍さを誇るという事実をようやくそこで思い出すのであった。
「にしても、また飼い犬に嫉妬か……」
「え?」
「いや、何でもない。それじゃ、とにかく行こう」
なまえが気の変わらないうちに。と、なぜか得意げにそう言う降谷に、今度はなまえの方がぽかんとして。無言のまま立ち上がって上着を羽織る彼に遅れを取ること約数秒、追いつくようにいそいそと彼女も椅子にかけていた上着を身につけるのである。
彼女が何とも思っていないうちはいい。ただ、この下心を理解してしまえばきっと断られてしまうだろうから。降谷はそう思いながら伝票を持って、くすりと微笑み混じりに会計へと向かった。
悪いけど、こうなったら今日は絶対に帰してやらないからな。

case.extra 僕らのペースで
しかし、そんな誓いもたやすく撃ち壊してしまうのが、彼の恋人である工藤なまえなのである。
「ハロちゃーん!」
「アンッ!」
「……」
まるで感動の再会のように玄関で抱き合う恋人と飼い犬を交互に見つめ、家主であるはずの降谷はなぜか何とも言えないような疎外感を感じていた。結局、立ち寄ったコンビニで適当な飲食物を買い込んではいたが、大半はハロのためなどと言って犬も好んで食べられそうな味気ない食品の類である。
さっそくハロをよしよしと撫でてだっこしたなまえは、赤ん坊でもあやすように小さな彼のことをぎゅっと優しく抱きしめていた。その母性溢れる姿に、つい将来のことを見据えてしまう降谷ではあったが、ハロが彼女にキスするみたく、唇を舐めたのがいただけなくて。前回同様、思わずひょいと持ち上げて無慈悲にも彼らの仲を引き離そうとする。しかし、今回はなまえがそれを許さない。
「この前は初対面だったし、あんまりハロちゃんと遊んであげられなかったから」
「あのときは仕方ないだろ。まだ僕らも付き合ってなかったんだし」
「うん。だから、今日はいっぱい遊んであげたいな」
その口調はまるでおねだりでもしているようで。確かに可愛い以外の何物でもないが、はっきり言って降谷はまったく面白くなかった。映画でも流し見ながら甘い空気に持ち込み、そのまま一夜を明かしたい。そして、できることならその先へ……なんて。そんなことを思っていた淡い作戦が、早くも通用しそうになかったからである。
確かにハロとなまえの組み合わせは可愛さの破壊力的には凄まじいものがある。だが、今日を逃せば、次はいつ彼女をこの部屋に呼べるのかわからない。勘のいいなまえになら下心を悟られてもおかしくはないし、いくらここがセーフハウスとはいえ頻繁に呼ぶのは避けるべきだろう。
それに、薄々ながら降谷は気がついていた。部屋に来た途端、なまえの態度がなんとなくよそよそしいことに。そしてその理由はきっと、意識し始めているからなのだろうと思う。恋人の部屋に足を踏み入れたという重大な意味を。
「好きにしろ……」
そんなそっけない言葉をかけて、降谷はさっさとひとりで部屋の奥へと進んでいった。これじゃまるで高校時代の二の舞だ。そうは思っても、なかなか素直じゃない自分を止めることができない。
いや、本当は高校時代からずっと成長できていないのだ。素直に欲しいと言えば手に入るかもしれないとわかっているのに。大好きな彼女に否定されるのが怖くて。

結局、お互いに指一本触れぬまま無情にも時間は流れ、気づけば一時間ほどが経過しようとしていた。ハロと散々遊び尽くしたなまえもさすがに遊び疲れてしまったようで、先ほどから大きく伸びをしたり、頻繁に目を擦ったりしている。時刻は既に二十三時、少し前。日中は仕事で疲れ、一緒に食事をしてお腹はいっぱいなのだから眠くなるのも当然だろう。
降谷は「好きにしろ」という発言通り、なまえに一切構うことなく無言でテレビを見つめていた。彼女が眠そうだということには横目で見て気づいていたが、泊まっていけとも帰れとも言わない。言ったら何かに負ける気がする。そんな意地を張り続けている彼を、今度はようやくなまえの方が気にし始めるのである。
なまえも本当はわかっていたのだった。ハロにかまけている自分に対して、降谷が怒っていることを。けれど、何と声をかけるべきなのかわからず、ただ気まずそうにちらりと腕時計を見つめるだけ。一緒に暮らしている赤井が心配してしまうので、そろそろ先に彼に連絡を入れておくか、それとも帰るべきかの二択ではあるが、今さら降谷に「送って欲しい」などという可愛い発言はできそうになかった。
だから、顔色を伺うように恐る恐ると。まるでひとりごとのように声をかけるのである。
「そ、そろそろ帰ろうかな……?」
「……」
「あー……、確か駅はここから南の方に……」
なまえは降谷の目も見ずに、おもむろに上着を持って立ち上がろうとした。すると、急に何を思ったか。彼はその細腕をとっさに掴み、ぶすくれたような声色で言うのである。
「お前な」
「えっ」
「これで普通に『はい、そうですか』って、帰すわけないだろ」
そう言うと、降谷は座ったまま強引に自分の腕の中に招き入れ、絶対に逃さないようにきつく彼女を抱きしめた。その瞬間、なまえがつけているレモンの香水が鼻腔をくすぐって、それが余計に彼の心に住む内なる悪魔を駆り立てていく。今まで散々なまえに遊んでもらっていたハロも、飼い主の豹変ぶりに驚いておどおどしながら足元にまとわりついてくるが、生憎、今の降谷はそれに構ってやれる余裕などない。
「れ、零……? あの……」
「本当はわかってるんだろ?」
「え?」
「僕の部屋に来る意味」
それを聞いた瞬間、なまえは少しビクついてつい後ずさってしまった。しかし、散々お預けを食らっていた降谷がそうやすやすと彼女を逃すわけもなく。待たされ続けていた待望のキスを甘く交しながら、ゆっくりと押し倒すようにベッドサイドにその華奢な背中を押しつけていく。なまえの恋人は自分だ。なのになぜか余裕がない。いつも。そんな、必死に繋ぎ止めておきたい気持ちをぶつけるかのように彼女の右手に指を絡めれば、唇も手も、何もかも体温が高くて。その熱に、早くも浮かされてしまいそうだった。
そもそもなまえは鈍いから、隙が多くて心配なんだ。家に帰れば忌々しいあの男もいることだし、ずっと気も休まらなくて。本当は今すぐにでも奴との同居を解消させて、どこかへ囲ってしまうみたいに自分と同棲して欲しいと思っている。高校の卒業式で彼女がご所望していた素敵な家で、ハロを飼いながら。そして、もしそんな日がくるとしたら、一生この赤い糸がほどけてしまわないように「降谷」という名字を彼女に与えてやりたい。
依然として手は繋いだまま。もう片方の手をなまえの顎の下に添えて、形のいい唇を喰むようなキスを何度も楽しんだ。角度を変える度に「んっ」という吐息のような甘ったるい声が耳に飛び込んでくるから、なし崩し的にこのまま彼女を抱きたくて堪らなくなる。薄眼を開けて見たなまえの目はぎゅっと閉じていて、一生懸命ついてこようとしているようで愛おしい。
名残惜しくも一旦、離した熱い唇を割るように降谷は自身の親指を押し当てて軽く噛ませると、自覚のない彼女の淫らな表情に一気に加虐心が沸いた。デート中のキスは、まるで暗黙のルールのようにいつも軽いものばかり。だけど、今日だけはそんなルール守れそうにない。
「そのまま。口、開けたままでいられるよな」
「んっ!?」
「いいな、その顔」
すごく、そそる。そう言うと降谷は、まるでご褒美のように舌をねじ込んで、いつもは気を使って避けている一段深いキスをなまえに与え始めた。最初はもがいて抵抗していたなまえも、徐々に口内を犯されていくうちにふにゃりと力をなくしていくのが何ともぞくぞくと降谷の支配欲をくすぐってしまう。酸素を奪うくらい激しく舌同士を絡めて唾液を交換し合い、わざと立てられたぴちゃぴちゃといういやらしい水音がお互いの鼓膜にふしだらにこびりついて。同時にスレンダーな彼女の曲線のラインに手を這わせると、少し強張るのがいじらしい。
でも、まだ駄目だ。こんなのじゃ全然足りない。もっと、もっと。なまえの全部が欲しい。
「ん、ふっ、うう……」
「可愛い」
「んっ!?」
「このまま抱かせてくれるよな」
降谷はまるで少年のように子どもっぽく笑ってそう言うと、反して今度は大人びた腕力を見せつけるように軽々となまえを横抱きにして自身のベッドの上で組み伏せた。先ほどまでなまえの口内で暴れていた舌が、ご馳走を目の前にしているかのようにわずかにその唇を割って舌なめずりをする。その表情があまりにも扇情的で、なまえは思わず硬直しきってしまう。
こんな降谷を彼女は知らない。
「あっ、零、いやっ」
「嫌じゃない」
「お願い、恥ずかしいからもうっ」
まるで処女のように拒み続けるなまえの言葉にはまったく聞く耳も持たず。降谷は組み敷いた彼女の膝を立ててその間に割って入り、誘うような視線とともにタイツの上から足のラインをいやらしく唇でなぞり始めた。最初はその目線もきちんとふたりで合わせられていたのだが、恥ずかしくてすぐに顔を覆ってしまういじらしい彼女の手首を掴んで意地悪でもするみたいにその表情を露わにする。
「もっと見せて。なまえの恥ずかしがる顔」
「えっ? ちょ、ちょっとっ……!」
そう言うと、次はなまえが着ていたニットの裾から手を入れて、強引にもたくし上げた。純白のレースの下着に合う白い肌が露わになって、その清廉さにぐっとくる。暖かくて、やわらかくて、いい匂いがして。くらくらする。もっと見たい。もっと。
これから彼女を抱くのだと思うと、履いているジーンズの中で自身の性器が痛いくらい主張しているのがわかった。生活が忙しくて最近ではひとりでさえもしていないが、夢の中では何度も繰り返しなまえを抱いた。それは今まで単なる想像にしかすぎなかったけれど、目下で頬を染めて高揚しているなまえは想像の何倍も綺麗で。もう絶対に、誰にも渡さないと誓う。
降谷が思うに、なまえはあの沖矢昴との交際中に、何度も彼に抱かれているはずであった。あんな男がなまえを好きなように鳴かせて抱いていたかと思うだけでやはり殺したいほど虫酸が走るが、それも今や過去の話。もう二度と他の男とできないように散々快楽を覚えさせて。上書きして。降谷以外に何も欲しがらない体にしてしまいたい。
それに、初キスだって。思えば、高校時代のいつかは知らないが幼馴染の景光に取られてしまったんだから。自分の素直じゃない性格のせいで「最初の男」というレッテルは全部他の男に持っていかれてしまった降谷は、是が非でも彼女の「最後の男」という称号が欲しかった。
しかし、そんな彼のガツガツとした態度に、初心ななまえは当然ついていけるわけもなく。頭で処理できる許容範囲ははるかに超えて軽いパニック状態にあった。なぜなら、かつて交際していた赤井とはセックスもしたことがない。この歳でと言えば笑われてしまうかもしれないが、まだ経験もないのだから、ついていけないのも当然である。
ただ、今さら降谷に赤井と同じように「待て」という条件を出すことはできそうになかった。というよりも、言ったところで簡単に聞き入れてくれないと思うし、なまえ自身も、こんなに早急だとは思わなかったが、一応、彼との交際を決めた段階でその覚悟はできている。
実は、あまりの恥ずかしさからレストランではハロに会えることを喜んでいるように装ってしまっていたが、本当はなまえも降谷の言葉の意味をきちんと最初から理解できていたのであった。そういう行為に及ぶかもしれないということも、承知の上でここにきた、つもりだったのである。
けれど、あまりにも余裕のない降谷の愛撫が少し怖くて。なまえは半ば自分の気持ちが折れそうになって、泣きそうになりながら一旦、この行為を止めてもらうために降谷の肩を強めに押さえた。
「こわいよ、零……!」
その言葉で我に返った降谷はハッとした。上気したなまえの頬。泣きそうな目に、己を恥じた。こんなの、合意でも何でもない。恋人という関係を盾に迫った最低な男だ、と。ようやく気がついたのであった。
「悪い、怖かったよな……」
「……」
「みっともないって思われるかもしれないけど、沖矢とこういうことしたんだろうなと思うと余裕なくて」
降谷はそう言うと、彼女の隣で転がるように横たわって、苦々しく言葉をこもらせた。自分の嫉妬深さでここまで傷つけてしまったことがただただ申し訳ない。あれだけ嫌われるのが怖いと思いながら、自分は何をしていたのだろうかと疑ってしまう。
けれど、なまえの口から次に聞かされた言葉は、降谷にとって寝耳に水の話だったのである。
「……してないよ」
「え?」
「昴くんとはこういうことしてないから」
キスは何回か、したけど……と、そう言って相変わらず恥ずかしそうにしているなまえを降谷はぽかんとした表情で見つめた。その事実が信じられない。だが、人一倍に嘘が嫌いな彼女のことだ。それが偽りだとは思えない。
しかし、なまえはそんな降谷の思いも知らず、今の発言を上回る驚きの事実をなおも彼に語り出すのである。
「でも。キスも、零が初めてだし……」
「…………は?」
「ほら、覚えてないの? 学園祭の準備中、椅子から落ちた私を零が助けてくれたときに……」
「嘘だろ……?」
降谷はとっさに高校時代のあのときの出来事を回想した。一瞬のことだったし、当時は怒りと唇が裂けた痛みしかなくて。当たったのは彼女の頭かどこかだろうと思っていたが、そう言われると急に、あのとき切れた唇がカッと熱くなった気がした。
だが、それ以上に気になったのは、揚げ足を取るようではあるものの先ほど彼女が言った言葉の一部分である。
「それより、なまえ。今、『キス"も"零が初めて』って言ったよな」
「えっ、うん……?」
やはり彼女に自覚はないらしい。降谷は確信を得るように、鋭くそこを突く。
「じゃあ、そういうこと"も"僕が初めてでいいんだよな?」
「!」
降谷にそう言われたとき、なまえは自分の発言を一気に恥じた。しかし、改めてつけてしまった火はもう消せやしない。ベッドの上で優しく彼女の顔にかかる髪を手櫛で梳き、降谷はいっそう甘くて低い声で告げる。そのアイスブルー色の瞳は高校時代からずっと変わらずに美しかった。
「じゃあ、ここから先はゆっくり大人の時間にしよう。痛かったり嫌だったらすぐに言ってくれ。僕らのペースでいいんだから」
そう言うと、降谷は「おいで」と言って再びなまえを抱き寄せる。けれどそれは決してひとりよがりなものではなくて。なまえも覚悟を決めながら、おずおずと恋人らしくその胸に飛び込むのであった。降谷の匂いがいっぱいして安心するような、緊張するような。なんだか急に頭がぼんやりとしてしまう。
今から彼と一線を超えてしまうのかと思うと、無性に恥ずかしいけれど。でも、やっぱりなまえの初めては、すべて降谷じゃなきゃ駄目なのだ。
お互い目を見合わせると、なんだか無性に笑えてきた。ふたりしてくすくすと戯れに笑いながら鼻先を擦るように触れ合わせる。そして暖かい吐息を混ぜながら、先ほどよりも格段に甘いキスをどちらからともなく交わした。
それが彼らなりの、初めての合図だった。