124b...
星が降りそうなほど美しい海辺から降谷の車で遅くに帰宅した後、なまえは徐々に近づいてきた我が家の思わぬ様子に一瞬にして深く息を飲み込んでしまうのであった。最近では自分が帰るまで誰の気配も感じさせないほどひっそりと寂しそうにしていた米花町随一の豪邸も、今日に限っては一階部分に灯りがついたままになっており、それを見た瞬間、彼女の心臓は反射的にどきりと激しく音を立てて跳ねてしまう。今朝、家を出る際に不注意にもつけっぱなしにしてしまったのだろうかと訝しんでみても、残念ながら普段から確認を怠らない彼女にそんな覚えはなく。また、合鍵を持つ蘭が家に来ているのかもしれないという可能性に賭けてみたところで、それにしては時間が遅すぎて逆に不自然だと思わせてならなかった。
よって、脳裏に浮かび上がる答えはただひとつ。一階の共有スペースに赤井がいる。珍しくも自身の存在を誇示するかのように、煌々とした灯りをつけて。
その事実に気づいたとき、なまえの体は微かに震え出していた。さざなみの打ち寄せる海辺で降谷に今しがた赤井への気持ちを正直に吐露したばかりだというのに、いざ会うとなると途端に彼と向き合うのが怖くなる。どうしてよりによって今日なの、と。まだ何の心の準備もできていないというのに、と。そんななまえの様子をさすがに察しのいい降谷はすぐに勘づき、工藤邸の門扉を少し過ぎたところで静かにライトを消して停車する。そして、あくまでも友人として神妙に彼女に尋ねるのである。
「なまえ。もしかして、あいつに会いたくないんじゃないのか?」
その質問に対してなまえは即座に否定しなければならない身であったはずなのに、わずかに一瞬、言葉に詰まってしまった。もちろん、目ざとい降谷がそれを見逃すはずはない。
「無理するなよ。何なら、このままずっと朝まで僕と一緒にいたって……!」
けれど、彼がそう言いかけた瞬間、後方に過ぎた工藤邸の立派な鉄扉から出てきたのは赤井が変装を施した姿である沖矢昴。どうやら彼はこんな夜更けに不要品の袋を数個、外に出す作業に勤しんでいるらしく、見た感じではとても忙しそうに見える。ただ、こちらを気にして視線を配るということはしてこなかったものの、降谷の車の気配に気づいて玄関から出てきたということはなんとなく察せられ、無言のままこちらを牽制しているような気がした。まるで、遅くに帰ってきたなまえを待ち構えているかのように。
しかし、なまえにはそれ以上に気づいてしまったことがあったのだった。そのきっかけとなったのは、彼の手に持たれた不要品の入ったゴミ袋。半透明のその中身は主に、彼の部屋で見かけたことのある私物ばかりのようだったのである。
それを契機として、なまえの記憶は瞬間的に数日前に遡っていった。降谷と喫茶ポアロで話をした後、景光の死に赤井が関係しているという話を確かめるために同居している彼の部屋をノックした際、そういえば確か、部屋にはかなりの数の段ボール箱があったはず。あのときは景光のことに必死で気に止めることはできなかったけれど、なまえはそれを思い出して、弾かれるようにRX-7の降車ドアに手をかけた。
「ごめん、零! また連絡する!」
なまえはそう言うと、急ぎ気味に彼の車を降り、慌てて沖矢が消えた自宅の門扉へと向かってしまうのであった。不要品と段ボール。それらから弾き出される答えは、自ずとしてひとつしかない。
赤井はなまえの前から去る準備をしているのではないだろうかと。そんな風に思えてならなかったのだ。
一方、残された降谷はなまえのその背を見て呆気にとられながら、ハンドルに額を預けてしばらく力なくうなだれる。
「……やっぱり思っていたより、苦しいな」
はっきりとした失恋を、今さら突きつけられたような気がして。不恰好にも胸が張り裂けそうになるほど心が切なかった。

case124b. それは明日のお楽しみ
息を弾ませながら玄関のドアを開けると、そこには案の定、ゴミ出しから戻ったばかりの沖矢がいてなまえはなんだか泣きそうな気持ちで彼のことを見つめてしまった。いつもは変装に使っている眼鏡の奥から優しそうな表情を覗かせている彼も、息を切らして帰ってきたなまえには想定外のようで。じっと見据えるように彼女のことを見つめ返すと、一呼吸置いてから普段通りを装って、変声機を用いずに深い赤井の声で悠長に挨拶をするのである。
「おかえり、なまえ」
「秀一……」
久しぶりに名前を呼びあったふたりの足元。工藤邸の玄関ホールには既に無数の段ボールがあって、やはりなまえの推理通り、彼がこの家を許可なく去ろうとしているのだということを証明するものになっているように感じる。
なまえが苦々しくそれらの箱に目線を落としていれば、それに気づいた赤井が取り繕うように笑った。
「散らかしてすまないな。今日は少しお前と話そうと思って、帰りを待っていたんだ。けれど、何もそんなに焦って帰ってこなくてもよかったのに」
彼に送ってもらったんだろう? と、赤井はとても余裕たっぷりに言葉を続けた。その「彼」とは言わずものがな降谷のことを指しているということは明白であり、なまえは思わず耐えるように唇を噛み締める。降谷とは何でもない。むしろ、告白を断る返事をしたばかりであったが、そんなことなど露ほども知らない赤井は完全に勘違いをしているようで、なまえと降谷が仲睦まじくどこかへ一緒に出かけていたと察しているようであった。
なまえの細い髪。そこから香るのがいつからか彼女がつけるようになったレモンの香水などではなく、潮の匂いであること。それだけで、ふたりのデート場所まで特定してしまう嗅覚のよさに赤井は自分で自分が憎たらしくなる。
「俺のことなど気を使わずに、彼の家に泊まってきてくれても構わなかったんだが」
「……零とは何でもないから」
なまえは半ば怒り気味に語気を強めてキッパリと彼にそう言った。けれど、その必死さが赤井には逆に同情されているようにも感じて。思わず彼女に向けて、何も入っていない空っぽのような頬笑みを見せてしまう。同情だけはされたくない。なぜなら途端に惨めになってしまうから。
赤井はそのまま踵を返し、先ほどまでなまえのことを待っていたキッチンへと足を向かわせた。そして彼女の顔も見ずに、最後の頼み事を口にするのである。
「レモンティーを入れてくれないか? 最後の、いい思い出にしたいんだ」
「思い出……?」
「ああ。とびきり甘酸っぱい思い出を、な」
最後。思い出。そんな縁起でもない言葉ばかりを並べていく赤井の背を、なまえはもどかしそうにじっと見つめていた。何をどう切り出して、どう言えばいいのか。どうすればまた心が重なるのか。もう二度と復縁はできないのか。彼の気持ちが一向に見えなくて、一体どうすればいいのか身動きが取れそうにない。
言われるがまま一緒に入ったキッチンで淡々と茶葉の入った缶を手渡され、普段通り湯を沸かすようにと命じられた。その間に高身長の彼がカップを取り出そうと戸棚を開けるところまで態度がまったく変わらなくて、これもいつか時が経てば、彼の言う「いい思い出」になっていくのだろうかと本気でなまえは思ってしまう。それもある意味では運命なのかな、なんて。容易く諦めかけてしまう自分もいて、カップに腕を伸ばす赤井の横顔に彼女は何も声をかけることができなかった。
けれど、その際、戸棚の奥に見えたのは。あんなに何度も彼と一緒に使用した食器であるユルリックマのペアプレート。うちの一枚だけしかそこにはなく、ぽつん、という音が似合うほど取り残されて、片割れを失ってひどいくらい寂しそうに見えた。
なまえにはそれがショックだった。まるでそのプレートと同じように、またも自分はひとりぼっちになってしまうのではないかと。そう思うと、なまえはやっぱり彼のことを諦められない。
「お察しの通りですまないが、明日、俺はこの家を出ることにしたよ」
「!」
「まあ、とは言っても。もちろんあの茶髪の彼女を組織の手から守ることが俺の仕事なのでな。この近隣に部屋を借りることになるだろうが、お前はもう俺に会っても話しかけなくていい。ただ、散々世話になったなまえに黙って家を出ることはしたくなかったんだ」
「そんな……」
「今までありがとう、なまえ」
赤井はそう言うと、なまえのやわらかい髪を愛しげに撫でた。その、撫でるという行為が一度や二度の往復で済まされなかったのは、いくら強がりを言ったところで、赤井自身が本当に名残惜しくて仕方がなかったからである。一度でもこの手を離してしまえば最後、もう二度と触れ合うことは許されない。そんな制約を彼自身が勝手に作り出していたのであった。
しかし、そんな彼にとうとう痺れを切らしたらしいなまえは、とっさにそのたくましい彼の腕を掴むと、何を思ったか乱雑にそれを払い落とした。あまりに彼女らしくない、違和感のある突然の行動に珍しく隙を突かれた赤井はバランスを崩し、彼女の方にわずかに体重が傾いてしまう。
事が起こったのは、その瞬間であった。あれだけ自ら「恥ずかしいから」と避け続けてきたキスを、なまえが初めて先に彼の唇に落としたのである。それは奇しくも以前、沖矢の正体を見破ろうと頬にキスを落としたのと同じようなシチュエーションで。赤井はそれを理解するのに、柄にもなく数秒も時間がかかってしまった。
「っ!」
安室との一騎打ちの前。来葉峠に向かう際に赤井が「餞別のキスを」とせがんだときですら、なまえは結局恥じらって頑なにしてくれなかったはずであった。なのに今になって、とても真剣な、それでいて泣きそうな顔で唇を重ねてくる彼女に赤井は混乱しきってしまう。こんなキス、勘違いしてしまいそうだ。悪い冗談なら期待してしまうだけ虚しいからやめて欲しい。
けれど、唇が離れた瞬間、そんな被害者意識は脆くも消え去ってしまったのだった。なまえの左の目尻からこぼれたのは一筋の涙。赤井はそれを見て、はっとするくらい美しいと思ってしまう。そして、手放したくない宝物を目の前にしたような気持ちで、あれだけもう触れてはならないと思っていたくせにその水滴に触れてしまったのだ。
「……行かないで」
「……」
「ずっと、ここにいて……っ」
そんな必死な彼女の声は、赤井の心に火をつけてしまうには十分すぎた。瞬間、仕返しのように後頭部を軽く打つまで彼女を壁に押しやり、余裕のない雄という性を全面に押し出して凄んでしまうのだ。
「お前。自分が何を言ってるかわかってるのか」
「……」
「お前には、安室がいるんだろう」
しかし、そんな脅迫めいた言葉もなまえは物ともしない。いつも通りの意志の強そうな目を向けて睨めつけるように赤井のことを見つめると、再びはっきりとした口調でこう言うのである。
「私の好きな人を、あなたが勝手に決めないで」
「!」
「私は秀一が好き。他の人じゃ嫌。この世界で誰よりも私はあなたのことが……んっ」
もう、限界だった。先ほどなまえに奪われた唇を奪い返すように赤井はそこに激しくキスを落とし、何倍にもして返すように深いところまで舌をねじこむ。すると、いつもなら必死に抵抗していたはずの、あの工藤なまえが、まるで赤井のことを受け入れるように舌を絡めて応戦し、ひときわ甘ったるい吐息を漏らすのである。それに欲情しない男がいないわけがない。
「んっ、ん、っふ……」
「可愛い」
「っ、ん、秀一っ、私、まだ話の途中でっ、んんっ」
「悪いな。でも、今は言葉は欲しくないんだ」
「んあっ」
「俺もお前が好きだ。愛してる。他の女じゃもう駄目なんだ。わかるだろう? 本当はあのときも、お前に『別れよう』だなんて言いたくはなかったさ」
赤井は自身の片膝をなまえの足を割るように乱暴にねじ込んで、甘くてとろけそうな大人のキスをしながら女性らしい体の曲線をなぞって彼女のお尻に触れる。それに反応するかのように顔を赤くして、身をよじらせる彼女が愛しくてたまらない。
やっと自分のものになったのだ。今まで随分と我慢を貫いてきた分、早く、身も心もひとつになりたい。
「ふぁ、っ、はっ……」
「もっと、その可愛い顔を俺に見せろ」
「ん、しゅ、う……ち、あっ……」
「全部、お前が俺のものだって証明してくれよ。なあ、なまえ?」
そう言って赤井がなまえの履いていたパンツのボタンに手をかけようとしたそのとき、そこでようやくなまえは何かを思い出したように彼の手を慌てて制止するのである。当然、情欲に駆り立てられた赤井は不服で、ライとして尖っていた若い時分のときのようにイラつきを隠さないぶっきらぼうな声を出してしまう。
「……あ?」
「えっ、あ、あ? って言われても……えっと、今日はその……ちょっと……無理というか……」
「なぜだ? お前、さっき言ったよな。俺のことが好きだって」
「言ったけど……それは……その……」
口ごもるなまえの顔を赤井はぐいと覗き込み、特徴的な隈のある瞳で彼女の顔を至近距離から見つめた。すると、先ほどの威勢はどこへやら。急にたじたじになりながら、なまえは赤井の手を制止させた思わぬ理由について口を割るのである。
「……今日は、私、世良さんとお揃いの下着だから」
「は?」
「だ、だから! 今日は世良さんとこの前一緒に買ったお揃いの下着なの……!」
次、彼女に会ったとき、思い出して顔まともに見れなくなったら困るし……それにいくら秀一だからって妹と同じ下着をつけてる女を見るのはなんとなく嫌でしょう? と、実に頓珍漢な理由を真顔で語り出すなまえに、赤井は本気で困惑してしまう。何を言ってるんだこの女、と。しかし、数秒経ってからじわじわとその理由があまりに意味不明であることがおかしくなってきて、ツボに入ってしまったかのように腹を抱えて笑い始めてしまうのであった。
「そ、そんなに笑わなくても……」
「いや、しかし。それ、今言わなくてもよくないか」
「だ、だって……!」
「まさか寸止めの理由が真純だとはな。訳もなくあいつをジークンドーで沈めたい気分だ」
「わ、それは世良さんに申し訳ない……」
なまえは真剣に世良への罪悪感に陥ってしまったようで、ここに彼女がいるわけでもないのにぶつぶつと謝罪をひとりごちているらしい。赤井にはその様子すらひどく愛しくて、やっぱりこの女が好きなのだと再確認してしまう。あともう少ししたら、お前らを本当の姉妹にしてやるよ、なんて。そんなことを内心で思って、またも隠さずに笑うのだ。
「明日の夜、空いてるか?」
「えっ?」
「意図せず引っ越す予定がなくなったものでな。食事にでも行こう。場所は……そうだな、以前行った『アルセーヌ』でどうだ? あのときお前に言った約束を果たしにいきたい」
それを聞いたなまえは「あのとき」を回想する。確か前回、アルセーヌへ行ったときに赤井から言われたのは……。
『この先、お前がどんな残酷なことを知っても。どんな真実を得ても。その上でお前が何を選び、何を捨てるのか。俺はこの目で見守っていきたいんだ。お前の一番、近くで』
『そして、そのときにもし俺を選んでくれるのなら』
『そのときは俺と、結婚して欲しい……という言葉を、改めて俺に言わせてくれ』
その会話の一部始終を思い出したとき、なまえは顔から火が出るのではないかと思うほど急激に熱くなってしまった。その様子を見て赤井はなおもにこにこと笑っているのだが、なまえはそんなことなど気づかない。
「そ、それってプロポ……」
「shhh……」
なまえが言いかけた言葉を、赤井が制止するように口の前で人差し指を立てた。
「それは明日のお楽しみだな」
まるで子どもみたいにそう言って笑う彼が、歳上なのにどこか可愛く見えて。なまえはきゅっと胸を疼かせながら思わず直視できずに目を伏せてしまった。秀一ってこんなだったっけ。以前、彼は「俺はこう見えて、結構甘い」と自信ありげに自称していたけれど、もしかすると本当に自分は世界で一番甘い恋人を得てしまったのかもしれないと若干、盲目気味にも思ってしまう。それも、時間を経て、二度も、だ。
けれど、その恥じらいもほんのわずかであった。甘酸っぱい思い出になりそこねたレモンティーで乾杯をする頃にはふたりは再び恋人同士としてスタートラインに立ったかのように仲睦まじく肩を寄せ合う。そして、互いに視線を合わせて心から笑い合えたのだった。