125b...

 翌日のなまえは若干の恥じらいと葛藤は抱きつつも、意を決してとびきり気合いを入れた服装で赤井との食事に挑むことにした。女性として、おそらく一生に一度きりになるであろうプロポーズを受ける日。何も別段、彼の口からはっきりとそれを告知されているわけではないのだが、約束を果たすという宣言めいた発言と、場所があの「アルセーヌ」ということで、やはりそれを意識せずにはいられない。どういう文言が彼から飛び出すのか。返事は何と言えばいいのか。気が早くて本当に申し訳ないが、昨夜はあまりに考えすぎて笑えるくらい眠れなかった。

 久しぶりに袖を通した緋色のワンピース。胸元につけるのはもちろん、以前、ドライブデートに出かけた際に彼から贈られたハートのペンダントであった。それから、灰原に伝授してもらった通り、ゆるく髪を巻いてハーフアップにすると、姿見に映った自分は赤井と並んでも引けを取らないほど途端に大人っぽくなったように思えて誇らしくなる。そのまま浮かれて下階に降りれば、コーヒーの香ばしい匂いが部屋いっぱいに充満した愛しのキッチンで、世界で一番大好きな赤井に会った。


「おはよう、秀一!」
「おはよう、なまえ。今日も一段と可愛いな」
「ありがとう。でも、せっかくだから今日は美人だって言って欲しいな。どう、大人っぽく見える?」
「見えるさ。そうやって、俺の前でくるりと回ってみせるところなんか、特に『大人』っぽくて可愛らしいよ」


 赤井はまるでからかい気味にそう言って、くすりとこぼすみたいに笑う。テンションの高さが露呈した挙動が、逆に子どもっぽく見られてしまったことに今さらながら気づいたなまえは一気にしぼむみたいに恥ずかしくなって、気まずそうにおとなしく自分のコーヒーを入れた。

 けれど、そんな機嫌もまたすぐにふわふわと浮かれてしまうのは、やはりいつも通りの彼との生活を再び手にすることができたからなのだろう。一緒に食事をしたり談笑したりすることは、心のゆとりに繋がっていく。それが好きな相手なのだからなおさら、その思いは何よりもひとしおだった。


「今朝はスープを作ってみたんだ。食べるだろう?」
「うん!」
「そこのプレートを取ってくれ」


 そう言われて指さされたのは、当然、ご存知ユルリックマのペアプレート。カウンターの上で二枚ともぴたりと重なって、まるで昨日のことなんて何事もなかったみたいに仲良しだ。


「どうした、そんなにこにこして」


 何かいいことでもあったのか? と、白々しくそんなことを聞いてくる彼に、なまえは美しい歯列を見せて答える。


「ちょっとね」


 その表情があまりにも可愛くて。赤井はつい、朝なのに彼女の細い腰を抱き寄せて思わずこめかみにキスを落としてしまう。そして、その内心ではらしくもなく神様にこんなことを祈るのだ。どうか。



case125b. 今宵のディナーが成功しますように


 けれど、その夜。なまえはすっかり肩透かしを食らってしまうのである。

 七時に医務院まで迎えに来た沖矢の車で、以前と同じ道を辿って米花センタービルに行き、展望レストラン「アルセーヌ」で彼の偽名ながら予約の名前を告げる。その時点で既になまえの心臓はばくばくと最高潮に高鳴っており、いつ、そのフレーズが彼の口から飛び出すのかと思うと、正直、料理の味もよくわからなかった。前菜、スープ、メインの魚料理と肉料理。それからデザートと、順序よく工程が終わっていく中で、最後に舌の上で紅茶を転がしながらついぞそのときがきたかと身構えたけれど、彼はメイン料理の隠し味について忙しなく考えを巡らせているようで、先ほどから話題はそればかりなのである。しかし、こちらから催促するようにその話題を引き出そうとしたところで、変に自分だけが意識して勘違いしているのではないかと思うとそれもまた憚られてしまう。そもそも隠し味について意見を聞かれたところで、食事中は意識がまったく違う方に向いていた自分にそんなことわかるわけがない。


「どうかしたか?」
「えっ」
「今夜はえらく難しい顔をしているな。もしかして何か期待でもしていたのか?」
「き、期待……? 何のこと?」
「いや、別に」


 目に見えて焦り気味にしらばくれたなまえとは対照的に、彼は変装に使っている眼鏡をつるを上げて余裕たっぷりに笑っている。くそう。これじゃなんだか、ころころと手のひらで転がされているようだ。なまえは悔しくてむすっとしたまま、ずっと大切にとっておいたデザートプレートのレモンタルトの最後のひとくちを無駄にするみたいにとても素気なく食べた。

 結局、本当に何事も起こらないまま食欲だけが満たされて、ふたりは静かに自宅への帰路につくことになった。期待して馬鹿みたいだ、と朝から精一杯めかしこんでいたなまえはとてもがっかりしていたが、その実本当は、赤井に恨み節を言いたい気持ちでいっぱいだったのである。昨日、散々こちらの気を持ち上げるだけ持ち上げて、急にくるりと手を返されてしまったようで。でも、声に出して彼を責めることができないでいたのは、今まで降谷のことを気にかけすぎていたなまえにも非があるからなのだろうと思えて。獣耳があったら垂れているだろうと思うほど、切なくしょげるまで反省せざるを得なかった。

 工藤邸に帰るなり、なまえはひとまずこの降下しきった気分を一新しようと「風呂に入る」と言った。だが、それはなぜだかすぐに赤井に静止されてしまう。なんでも、肌に張りついているマスクが摩擦を起こしているので、先に変装を解くために洗面所を使いたいのだと言う。その理由は至極まっとうなので、なまえは納得して彼に風呂場を譲り、リビングでおとなしくテレビでも見ながら彼を待っていることにした。

 待っている間、暇なので。なまえは気を効かせてキッチンから彼の好物であるバーボンウイスキーを持ってくることにした。約束のアルセーヌへは車で出向いたために彼はまだ素面で、おそらくナイトキャップに軽く飲むだろうと思ったためである。だから、久しぶりに一杯お酌でもしようかと甲斐甲斐しく氷やグラスまで用意周到に準備をしていれば、すっかり変装を落として素顔になった赤井がなまえのいるリビングに顔をのぞかせた。


「バーボンか。気が効くな」
「ありがとう、飲みたいかと思って」
「そうだな。でも、まだ注いでくれなくていい」
「え?」 
「酒を飲んでしまう前に、先に素面のままでなまえに言いたいことがあるんだ」


 それはやけにはっきりと、真剣すぎる声色であった。思わず面食らって静止してしまうなまえの隣に、有無を言わさず彼が腰掛ける。やわらかいクッション性のあるソファが軋んで、体格のいい赤井の体重を支えるのと同時に、ぐいとその顔が遠慮もなく近づいた。


「なまえ」
「は、はい……」
「……そうかしこまるなよ。こっちが緊張する」
「だ、だって……」
「未だに夢でも見ているみたいなんだ。お前が俺のものになっただなんて」
「ん……」


 そう言うと、彼は自身のたくましい腕の中になまえを招き、ぎゅっと強く抱きしめた。いつもは自信たっぷりの彼が、柄にもなくまるでその存在を確かめるみたいに不安そうな抱擁だったから、そのギャップで余計に彼女の心臓はドキドキして。「でも、夢じゃないんだよな」と何度も髪に触れながら確認してくる彼の大きな背に、おずおずとなまえも手を回す。


「夢じゃないよ」
「……」
「私は、これからもずっとあなたの傍にいます」


 彼を深く安心させるために、なまえはできるだけ落ち着いた声で、嘘偽りのない本心を言った。なぜか緊張しすぎて初めて赤井と会ったときみたいに敬語になってしまったけれど、それを後悔するのではなく、なんだかこれはこれで自分たちの関係を表しているみたいで、らしくていいなと思う。それよりも、今の彼女はおとなしく赤井の匂いにじっと包まれていたい。


「なまえ」
「はい」


 再び彼が名前を呼んだ。鼻先が触れ合う距離で、キスされるのかと思わず身構えたけれど、実際はそうじゃない。ふっと笑って、彼がひときわ優しく言うのである。


「……Will you marry me?」


 ドキドキしすぎて、息が止まるかと思った。

 昨夜は眠れないほどいろいろとその文句を想像していたはずなのに、英語という選択肢を考えたことは残念ながら一度たりともなかった。だけど、思い返してみれば。なまえと赤井が初めて出会ったメリーランドのガンクラブで「いい腕だな」と声をかけられたときはお互いの人種さえも知らず、交わしたのは共通語の英語だったはず。そう考えれば、彼がプロポーズの言葉として選択したのが英語であって、しかるべきなのだとも思う。

 とはいえ、そんな伝統的な王道とも言えるプロポーズの言葉がくるとはよもや思いもしておらず、途端に頭が真っ白になって、何をどう返せばいいのかまったくもってわからなくなってしまった。ただずっと顔が熱くて。鼓動が早くて。何も考えられなくなる。嬉しいはずなのになぜか泣きそうで。言われることを期待していたくせに、予想外、というか。決めていた返事も様々な感情がせめぎ合って声を出すことすら彼女の小さな体は忘れてしまったようであった。

 けれど、赤井はそんなせっかくの甘い空気を、まるでぶち壊しにするかのように思わぬ言葉を続けるのである。


「……と、言いたいところなんだがな」
「へ?」


 思わず耳を疑いながら、なまえは彼の胸を押し返して目を瞬かせた。


「悪いが、俺はこう見えて公には死んでいる身なのでな。しかも解剖したのは他の誰でもない、お前だ。我ながら数奇な運命を歩んでいるとは思うが、いくら監察医とは言え、冷たい死体と結婚するコープス・ブライドになりたいとは思わないだろう?」
「そんな言い方……」
「だから、結婚は組織が壊滅するまでとっておこうじゃないかと思ってな。そうすれば俺は現世に蘇り、ようやく生身の人間となる。堂々と外でお前に触れられるし、ラブロマンスのようなお前の両親になぞらえてあの展望レストランできちんと結婚も申し込めるだろう。沖矢昴なんていう仮の姿じゃなくて、本当の、赤井秀一として」


 そう言われた瞬間、ぴんときた。つまり彼は、アルセーヌでプロポーズをしようとは最初から思っていなかったのだ。なぜなら、そのときの彼は外出用の世を忍ぶ仮の姿。沖矢昴だったのだから。


「そっか、だからアルセーヌでは言ってくれなかったんだね」
「正解。相変わらず利口な女だな」
「……私、昴くんと結婚してもよかったのに」
「…………お前は随分と赤井秀一を妬かせるのが好きなようだな」
「ふふ」


 そのやりとりはなんだか妙に笑えてしまった。それも仲良くふたりして。

 なまえは弧を描く口元を軽く押さえながら、なりそこなった歪な形のプロポーズに返事をするために心臓を静めながら口を開く。答えはもちろん、昨夜から考えていた通り。ひとまず了承の返答である。


「いいよ、それで」
「っ」
「本当のこと言うと、実はすごく期待してたけど……でも、もし今日、結婚を申し込まれたら秀一のご両親やご弟妹に、きちんと挨拶ができないまま入籍になっちゃうのかな? ってちょっと不安だったし」
「……お前、そういうところ変に律儀だな」
「当たり前でしょう? 家族になるんだから」


 家族。それはもちろん工藤優作、有希子。それから新一になまえは教わったものだけれど。やはり好きな人と家庭を作るなんて当然初めてのことだから、そういうところはきちんとしておくべきなのだということはずっと彼女なりに大切に思っていたのである。

 そんななまえの健気な姿を見て、隣にいた赤井は優しい気持ちで目を細めた。家族、か。孤児院出身の彼女が何よりも大切にしてきたその存在に自分のような男を選んで、夫婦になろうとしてくれていることをまずもって彼は光栄に思う。そして、赤井の方も。恒久的な伴侶としてなまえを選んだことに間違いはなかった。そんなことを再確認していた。


「……まあ、結婚すればすぐにふたりきりではいられなくなりそうだしな」
「? どういう意味?」
「わからないのなら気にしなくていい。つまり、しばらくはふたりきりで甘い恋人生活を目一杯楽しもうということだ。そう解釈してくれ」
「うん。でも、改めて恋人って言われても具体的には何をすればいいんだろうね」
「何でもいいさ。お前が幸せだと思うことをしよう」
「私は秀一が幸せだと思うことをしたいな」


 そんな言葉を即答で返してくる彼女があまりにも可愛すぎて。赤井は悔しくて、思わず舌を巻いてしまう。一体、どれだけこちらを喜ばせれば気が済むというのか。何もせずとも一緒にいられるだけであまりに幸福すぎて、怖いくらいだというのに。

 にしても、幸せだと思うこと、か。赤井はわずかに思案するだけで、あるひとつの提案にたどり着く。

 それは以前、彼女にうやむやにされて上手く断られてしまったこと。


「そうだな、じゃあとりあえず」


 そう言うと赤井はすっと立ち上がり、座っていたなまえを軽々と持ち上げて横抱きにしてしまう。当然、なまえは困惑してばたばたと色気もなく暴れてしまったが、抜群の安定感を誇る彼の腕っ節の強さにあまりにドキドキしてすぐに借りてきた猫のようにおとなしくなってしまうのであった。赤井はそれを見逃さず、得意げになって笑う。


「手始めに、寝室を一緒にするとしよう。そうすれば、朝起きて、夜眠るまでずっと一緒だ」


 俺も生活に張り合いが出る。いかに危険な任務があったとしても、是が非でもお前と眠るために、たとえ地球の裏側にいたって帰ってくるだろうからな。と、そんな冗談めかした彼の言葉に、なまえはつい呆れたように笑ってしまった。以前は恥ずかしすぎて失礼ながら即答気味に否定した提案だったが、彼女にはもう断る理由がない。

 むしろ、なまえだって今ではきちんと赤井のことが好きだと胸を張って言えるから。一緒にいる時間をもっと増やしたいという願いは、恥ずかしながら、実はちょっとだけ通ずるところがあったのだった。


「悪くないね」
「だろう」


 ふたりはそう言って笑い合い、溶けていく氷やバーボンをそのままに、さっそく赤井の部屋に移動する。そして、じゃれ合いのように互いに触れ合っているうちに、とびきり熱い夜を過ごすことになるのだが。それはまた別の話として。

 翌朝、彼女が起きたとき。ペンダントと同じブランドの婚約指輪が左手の薬指にはめられているだなんて。このときのなまえはまだ知る由もない。


2020.1.31 -fin!-

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