121a...
しかし、彼らのその思惑はいくら年月をかけても完成することはなかった。なまえはやはり景光が危惧していた通りに親友たちに置いていけぼりにされてしまったことをトラウマとして胸に抱えながら、逆に彼らを強く求めるようになり、監察医になるという夢を着実に形にしながらも、その心をまるで亡霊のように殺し続けていたのである。その証拠に、ふたりの携帯電話にはまるでその身を必死に案じるかのように彼女からの着信が入り続け、それは何年経っても切なくすがるみたいに頻繁に継続されることになったのであった。
いずれその連絡が来なくなったときが、彼女が自分たちのことを完全に忘れ去ってしまったときだということは十分理解していた。しかし、彼らはそのときが早く来て欲しいと思いながらも、次第に、永遠に来ないままでいいという身勝手な考えまで持ち合わせ始めてしまう。特に、降谷のなまえに対する恋慕の感情は期待していたよりも小さくなることはなく、むしろ笑えるくらい全然捨て切れずに、その胸のうちでずっと燻り続けていたのであった。
公安に所属してからしばらくが経った頃。まるで漆黒に濡れるのカラスのような「黒」を基調とした組織に捜査の一環から潜入することになった景光と降谷は、そこで幹部の証ともされる酒の名にまつわるコードネームをそれぞれ与えられるまでに頭角を現していた。彼らは組織での顔と公安の顔を上手く使い分け、二重の生活を送りながらも、その両方からの信頼を徐々に厚く勝ち取っていったのである。そうしてふたりは親友であったなまえのことをあの日からずっと心残りに置き去りにしたまま、息つく暇もないほど忙しない日々を過ごしていた。気づけば、二十五歳になっていた。
「驚いたな。ライに妹がいたなんて」
降谷はホームに景光とふたりきりになったことを注意深く確認してから、声を潜めて彼にそう言った。その瞳には、夕暮れに浮かび上がるように大小ふたつの影が並ぶ、何とも平和的な反対側のホームの風景が映し出されている。長年会っていなかった兄を追いかけて思わず背後をつけてきたのだという、そんな可愛げのある実妹を律儀に電車が来るまで見送りに行ってしまった仲間のライ。その姿を見つめて、血の通っていなさそうな奴も所詮は人の子だったんだなと思い知っていた。降谷がそこまでライのことを忌々しく思う理由は、もともと普段からすべてを見透かしているみたいに、高みの見物でもしている物言いで話すライのことが嫌いだったからだ。
ライは組織潜入中に出会った男であったが、その高い洞察力と判断力はあのジンにも匹敵し、組織内でも彼と人望を二分するように一目を置いている構成員も多かった。しかもライの武器はその頭脳だけに止まらず、狙撃の腕は組織内でも群を抜いてのピカイチで、頭脳派の探り屋として働いていた降谷と、そして同じく狙撃手として組織に潜入していた景光とともに、三人ひとくくりにして同じ任務に駆り出されることが多かったのである。後にそのライも、FBIからやってきた組織に噛みつこうとしている犬・赤井秀一だとバレたことで追放されることになるのだが、皮肉にも頻繁に同じ任務に就いていた三人全員がNOCと呼ばれる裏切り者だったということは、このとき、まだ誰も知らない。
ちなみに、ここでの降谷は「バーボン」。景光は「スコッチ」という名前を各々与えられていた。そこに「ライ」を加えた三人でひとつにまとめられていた理由は、裏切り者だということを勘づかれていたからというよりは、それぞれのコードネーム自体がウイスキーであるという共通点に、ある種、上層部は粋な計らいとしていたつもりだったのかも知れないと降谷は未だに思っている。
話を戻そう。そんな降谷の嫌悪した横顔を眺めていた景光は、逆にライに妹がいたことをなぜか嬉しそうにしている様子であった。それはおそらく、兄弟のいない降谷と違って、彼に兄がいたせいだろう。公安に配属される前に会ったきりだという、長野県警で勤める彼の兄・高明。その兄にもなまえと同様に、もう二度と会えないのだということを景光は以前嘆いていたが「偶然はあるかもしれない」という降谷の励ましも、今の彼にはあながち方便ではないのだと思えていた。先にその偶然はライの方にあったわけではあるが、今しがた目の前で起こったような出来事が本当にあるのだということを証明してくれたような気がして。景光は、ボーイッシュな名も知らぬライの妹に確かに励まされていたのである。
「ああ。なかなか筋がよくて、いい子だったぞ」
筋がいい、というのは、ライフルケースのカモフラージュとしてケースの中にしまっていたベースを取り出し、短時間ながら彼女にドレミの弾き方を教えてあげたことに由来していた。降谷は遠くからその様子をしばらく眺めていたが、兄に叱られて今にも泣きそうだったライの妹がベースをしている間だけはしきりに楽しそうな表情をしていたことを思い出し、そして景光の不用心な行動を改めてジト目で睨むのである。
「だとしても、不容易にケース開けるなよ」
「子どもだし、わかんないって」
「……ったく」
けろっと悪びれずに笑いながらベースを片づけている景光の行動は、降谷の目から見ると度々危なっかしいところがあった。それは今の、ライの妹に関してだけではなく、組織内での立ち回り方が、という話だ。しかし、景光はその性格の裏にある博愛性や優しさを、たとえこんな腐った組織の中にいても殺せていないようで。もっと用心深い態度を取っておいてもらわないと、見ているこっちがひやひやすると降谷はわざとらしく大げさなため息をつく。
もし自分たちがNOCだとバレた場合に取る行動は。互いの命をかばうために「自決」しかないのだから。
するとそのとき、ポケットに入れていた景光の携帯電話が何の前触れもなく大きな音で鳴り始めた。彼は空色の、少し薄汚れたパーカーのフードを目深にかぶって、わずかに張り詰めた面持ちでその相手を確認する。しかし、それが誰なのかわかった途端、優しく目を細め、その顔に貼りつけていた緊張をほぐした。
「なまえだ」
彼が液晶画面をこちらに向けた通り、電話の相手は工藤なまえだった。彼女は今でもこうして、まるで突然思い出したかのようなタイミングでアメリカからふたりに電話をかけてくる。順番は決まって景光、降谷の順だったが、鉄壁の降谷よりも心優しい景光の方が良心に訴えかけて出てくれる可能性が高いとでも思っているのだろう。しかし、甘いな。景光も降谷も、当然その着信には出ることはない。なぜなら、それがあの日に彼らが立てた誓いだからだ。
もう二年になるのか、と景光は落とすみたいにひとりごちた。心は多少痛むものの、もちろん応答はせず。その電話が切れるのをひたすらに待つ。
降谷は自身の携帯電話を取り出すと、消音にしていた着信音がわざわざ鳴るようにスイッチを操作していた。実は、彼はなまえからの電話だけ、着信音を他の人たちとは変えていたのである。その音を聞いているとどうしようもなく安心するから。だから、周りに気を使わなくていいときは、こうしてわざと着信音に耳を傾けることにしていたのだった。
「番号を変えるっていう手もあるけど」
降谷は自分でも一切しようとも思ってもいない代替案を軽々しく口にする。しかし、それを聞いた景光は、弾けるように笑って即答した。
「したくないよな!」
「ああ。なんだか電話がかかってくる度に安心しないか? 僕たちのことなんて忘れてくれた方があいつは幸せだろうし、こっちにも都合がいいはずなのに。今でも忘れられてないんだなって」
そして、それは僕たちの方も。そう言うと、景光も一度大きく頷く。
人は二度死ぬとはよく言ったものだ。一度目は肉体的な死。そして二度目は忘却による死だ。その存在を完全に忘れ去られてしまったとき、再び人は死ぬ。自分たちは肉体的な死を迎えてはいないが、彼女の中で忘却の死が訪れることを密かに願っていた、はずだった。けれどなぜだろう。今はそれが訪れることが、もはや彼らにとっては肉体的な死をも通り越して最も畏怖すべきことになってしまっている。
「なあ、ヒロ」
「今はスコッチだよ」
景光は笑ってそう言う。降谷も同じように笑ったが、お互いそんな大層なコードネームを与えられているような悪人の顔はしていない。
いや。むしろ、幼少時代から彼らふたりの笑顔は何ひとつとして変わっていないのかもしれなかった。そう考えると、あの頃からまったく成長していないなと思えて。降谷は自分のことなのに、夕暮れを見上げてちょっとだけ呆れてしまう。ずっと自分は何を悩んでいたのだろうかと、馬鹿げて笑ってしまうくらいに。
実は彼にはここ最近、景光に告げるかどうかをひたすらに迷っていたことがあったのだった。しかし、先ほど親友が見せた太陽みたいな笑顔がようやくその背中を押したのである。
それはもちろん、もうひとりの親友であるなまえに関すること。彼女と、自分たちとの、光のような未来についてだった。
「来年、なまえが向こうの大学を卒業する」
「!」
それは、降谷が秘密裏に調べて判明していたことであった。警察学校を卒業してからここまで頑なに音信不通にしてきたが、彼はなまえの行動を気にかけて、その探り屋という気質から彼女の動向を探っていたのである。その成績が大変優秀であることも。そして、長い年月をかけた留学を終えて、予定通り来年に帰国するということも。降谷にはすべてお見通しだった。
愛しい音が鳴り出した。それは景光に引き続き、なまえから降谷の携帯電話にかかってきたことを知らせるための音だった。その着信音を皮切りに、彼は相棒に言うのである。
「もういいんじゃないか、僕たち」
告げる言葉は、それだけで十分だった。なまえだけには正直に話そう。アルバムも返そう。そういう未来があってもいいじゃないか。たとえ自分たちが公安だとわかっても、その仕事のために冷酷な裏の顔があっても、彼女ならきっとわかってくれる。危険な目にも合わせやしない。降谷だけでなく、景光も一緒にいれば、絶対になまえひとりの命は誰の手からも守ってやれる。そう信じて。
景光はそんな降谷の思いをきちんと感じ取っていた。そして、ふとこぼすみたいに笑って、こう返す。
「帰国日、ちゃんと調べておいてくれよな」
その返答には降谷も笑った。まったく、誰に向かって言ってるんだ? と。
「帰国日どころか。どの便のどの席かまで詳しく調べておくさ。こう見えて、違法捜査は得意なんでね」
しかし、このとき、彼らは思いもしていなかった。三人で迎えられるその日が、永久に来ないことを。
case121a. 未だ愛しい着信音は鳴り続ける
警察学校卒業後、すぐに同じ教場だった萩原が死んだ。卒業後の彼は、幼馴染の松田とともに警備部機動隊の爆弾処理班へと配属され、とあるマンションに仕掛けられた爆弾の起爆スイッチが急に入ったことで逃げ遅れて亡くなった。弱冠、二十二歳という若さだった。
その四年後、今度は松田が後を追うように死んだ。彼は萩原の死後、仇を取るために爆弾事件を取り扱う特殊犯係に異動願いを出したが、その血の気の多さから聞き入れられず。意にそぐわない強行犯係となってもその爆弾魔をひとりで追いかけ続けていた。そして、転属されてわずか一週間後。その爆弾魔が仕掛けた爆弾によって、彼もまた命を落とすことになったのである。
あの分解魔が解体できない爆弾なんてあるものかと信じたくはなかったけれど、話を聞けば、起爆の数秒前に別の爆弾に関するヒントが提示されるようになっていたらしく、彼はそのヒントをきちんと得てから殉職したそうだ。まったく、どこまでいっても本当に馬鹿な奴だと思う。助かる見込みが少しでもあったのならそうしろ、と。けれど、もし降谷も松田の立場だったなら、彼とまったく同じことをしていただろうということは心から思えて。そう考えると、松田は警察という組織自体のことを「クソ喰らえ」と言うほどに嫌ってはいたが、彼こそ根っからの素質があったのかもしれないと、何かと衝突を繰り返していた降谷には今さらそんな風に思えた。
降谷と景光は、同じ教場だった萩原や松田の葬儀には残念ながら参列することができなかった。それは、彼らが公安になったことを知らない顔見知りの人物たちに極力会うことを避けたかったからということもあったが、ちょうどその頃、組織が内部にネズミが紛れ込んでいることを掴み、あぶり出そうとしている張り詰めた空気があって。そんな中、友人とはいえ、警察官の葬儀にのこのこと出向くことは叶わなかったのである。
まさかその後、景光からも思わぬ連絡があるとも知らずに。
「悪い、降谷。奴らに、オレが公安だとバレた」
降谷が景光からそのような連絡を受けたのは、深夜、本当に突然のことであった。組織の人間に追い詰められ、今まさにとある廃ビルに逃げ込んだところなのだという。まるで弾かれるように降谷はその場へと急行し、その最中も気が狂いそうになるほど親友の身を案じ続けていた。
降谷にとって、景光とは唯一無二の存在だった。人一倍日本人であることを誇りに思っているのに、この目立つ容姿のことでからかわれ、喧嘩に明け暮れていた幼少期。その頃からずっと彼だけは傍にいてくれて。高校の卒業式の日なんて、景光は自分たちの腐れ縁をまるでからかうように「もしかして死ぬときまで一緒だったりして」と言って笑ったのだ。その顔は今でもはっきりと思い出せるのに、あのとき、降谷は自分が彼に返した言葉がまるで煙がかかったかのように思い出せない。なあ、ヒロ。僕はお前に何て言ったっけ。思い出すために頭の中をぐちゃぐちゃになるまでひっくり返してみたが、結局どこにあるのかわからなくて。どうしようもないくらい焦って、本当に気が気ではなくなってしまう。
もし自分たちがNOCだとバレた場合に取る行動は、自決しかないと互いにわかっていた。だからこそ、心配だったのだ。追い詰められた景光が取る行動が、降谷には手に取るようにわかっていたから。
その日は、とても寒い夜だった。
廃ビルの階段を駆け上る自分の足音が、静寂すぎる夜気の中で吐き気がするほど大げさに聞こえていた。未だ降谷の中に、景光を助ける方法があったわけではない。だが、彼の自決だけは何とかして食い止めなければならないと思うことは当然だった。だって、それができるのは、彼の親友でもある降谷しかいないのだから。
その命に間に合えば。間に合いさえすれば、まだ考えられる手立てもあった。生きてさえすれば、たとえもう二度と会えなくなってもいい。僕の知らないところで、幸せに生きていればそれだけでいいから。だから。
だから、頼むからもうこれ以上、僕から友人を奪わないでくれ。今の降谷はそんなひどい気持ちで、まるで親友の命を掴むために懸命に手を伸ばすかのように強くそう思い続けていた。心がばらばらに切り裂かれ、身から剥がれ落ちていくような痛みを伴う感覚に襲われる。後に、それが堪え難い「恐怖」であるということに気がついたとき、怖いものなんて何もないと思っていたのに、それは傍に友人がいたからだったんだと激しく打ちのめされるほど思い知らされた。
だが、運命は待ってくれなかった。もうすぐ屋上に上り切るといったタイミングで、命ごと冷えきってしまうような劈く銃声が彼の耳には飛び込んできたのだった。嘘だろ、と。そんなわけないよな? と。そう自分で必死に否定しながら息を切らせて屋上に出ると、降谷はついにそこで見てしまう。
血塗れでぐったりとうなだれて座り込む景光と、拳銃を手にこちらを振り返る、返り血で濡れたライの姿を。
「おい! スコッチ! クソッ!」
降谷はとっさに景光に駆け寄って、激しく揺さぶりながら心臓の音を聞いた。けれど、その様子を見ていたライが背後から無情な声をかける。無駄だ、と。その声色には、まるで子どもの駄々だと決めつけて諦めさせるような冷酷さを孕んでいた。
「心臓の鼓動を聞いても無駄だ。死んでるよ。拳銃で心臓をぶち抜いてやったからな」
「ライ! 貴様……っ!」
「聞いてないのか? そいつは日本の公安の犬だぞ」
それは、ライがバーボンのことを未だにNOCだとは疑わずに仲間であると信じ切っているような発言だった。つまり、景光は追い詰められてもなお、降谷が裏切り者であるとは一切漏らさずに、その秘密ごと彼を守って静かに死んだということを意味していた。それはどこまでも博愛的な、諸伏景光という人物らしい行為だった。
しかし、そんな彼について。ライはまるでどうでもいいというような態度で、仲間のバーボンに吐き捨てるみたいにこう告げる。
「残念なのは奴の胸のポケットに入った携帯ごとぶち抜いてしまったこと。おかげでそいつの身元はわからずじまい。幽霊を殺したようで気味が悪いぜ」
その言葉を残して去っていく彼の背を、降谷はぐらぐらと揺れた瞳で睨み続けていた。
絶対に許さない。お前だけは。たとえ神様が許しても、僕だけは絶対に許さない。殺してやる。いつか、この手で。絶対に殺してやる。絶対に。
血が滲むほど堅く握りしめた手が、ぎりぎりと音を立てていた。怒っているのか、悲しいのか、自分の感情がよくわからなくて。ただ安らかな顔をして死んでいる友人を、しばらく涙もこぼさずに見つめていた。いつまでも震えが止まらなかった。
景光の亡骸を見たときから、本当は降谷にはわかっていたのだ。彼の右手は血に濡れていたのに、その親指には一切血がついていない。それは本当はライが景光の胸を撃ち抜いて殺したわけではなく、景光が拳銃に親指をかけて自決したということを意味していた。しかし、だからと言って降谷がライのことを許すはずもなかった。彼が言い放った人の命を命とも思わない冷淡な発言が、それまで持っていた嫌悪以上の激しい「殺意」という火をその胸に灯したのだ。
その後、ライ自身もFBIからのNOCであったことが判明したことで、降谷の胸の中に燃え盛る怒りは、余計に火に油を注ぐ事態となった。あれほど頭の切れる赤井秀一という男なら、景光ひとりを自決させない道も選べただろう。なのに、彼にはそれができなかった。それはもはや景光を殺したも同義だった。
だから。だから、だ。
『彼のことは今でも悪かったと思っている』
来葉峠で放たれた赤井からのその一言を聞いたところで、自分の中でもう折り合いがつけられないことはわかっているんだ。