122a...

 降谷の話は、実に深夜まで及んだ。彼が話をしている間、なまえは一度も相槌を打つこともなく、遮ることもなく。まるで静かに流れる川のようにただ耳を傾け続け、そして聞き終えると、ようやく長い悪夢から覚めたような物悲しい気持ちになる。しかし聞き終えたところで、その話の中で何か疑問を感じたり、疑ったりして、なまえが彼に質問を返したりすることもなかった。もはやこの話を彼女にするために、降谷が頭の中で何度もシミュレーションしていたのではないかと疑うほど、その話に含まれている言葉たちは完全な事実でしか構成されていないのだということはわかった。

 部屋には重苦しいほどの沈黙が漂い、部屋の隅で丸まって眠っているハロの寝息だけが異様に平和に感じられた。降谷は一貫して淡々とその事実だけを語り続け、景光の亡骸を発見したときの状況を説明するときでさえ、その目から涙ひとつこぼさなかったのである。そんな彼の様子を見て、なまえはもう取り戻すことのできない過去を追いかけたくなる衝動に駆られた。もし自分がそのとき、降谷の傍にいたら。そうしたら、親友を亡くすという想像を絶する喪失感を彼とともに分かち合うこともできたのかもしれない、と。けれど、その痛みを必死に抱え込むようにひたむきに胸の中にしまいながら、たったひとりきりで降谷がここまで生きてきたのだとわかったら、やはり今のなまえには彼にかけてやるべき言葉がそうやすやすとは見つけられなかった。

 何かを降谷に言いたいとは思いながらも、なまえは結局黙ったまま、今も家にいるであろう赤井のことを考えていた。先日の、工藤邸で起こった一件。安室のただならぬ気迫から赤井と彼の間に何か大きな確執があるのだということは理解していたが、それがまさか景光に関することだとは思っていなかった。いや。しかし、考えてみれば度々その予兆はあったのかもしれない。来葉峠で赤井が降谷に対して口にした謝罪。そして、その前に彼がなまえに言い放った「今から俺が話すことをよく聞いておけ」という言葉。それはなまえに対して「安室=降谷」を暴露することが目的だったわけではなく、暗に、彼女の知らないところで赤井が景光のことを知り得て、自ら見殺しにしてしまった彼への後ろめたさを指していたのではないだろうかと、今さらそんな風に思えたのである。

 おそらく彼がなまえに対して「別れよう」と口にしたのだって、確かに降谷への思いをいつまでもぐずぐずと断ち切れないことを見かねての意味も含んでいたのかもしれない。だが、もし赤井が景光のことを知り、そして降谷となまえにとって大切なもうひとりの友人であったことをどこかで知ったとすれば、赤井が自責の念から唐突な別れを切り出したとしてもおかしくはなかった。

 淡々と事実を語っていた降谷も、景光の自決を止められなかった赤井に言われた一言だけはさすがに声を詰まらせていたことになまえも気づいていた。そのくらい強く、彼は赤井のことを恨んでおり、それを寸分も隠さずに「殺してやる」とまではっきりと彼女にその憎しみを口にしたのである。しかし、降谷だってその話をする際に、景光が自決したことを正直に告げずに赤井が直接手を下したのだと言えば、事実をよく知らないなまえの心象をもっと悪くすることもできたはず。なのに、降谷はもう二度と彼女に嘘をつきたくないからと、その口ではきちんとした事実しか語らなかったのであった。そして、当然ながらそのことはなまえの方も十分すぎるほど感じ取っていたのである。

 側面的な話しか聞いていないなまえも、後に組織の目を欺いて自分の死亡を偽装できるくらいの頭脳を持ち合わせている赤井なら、確かに降谷が言うように景光のことも救ってやれたのではないかと思う。そうすれば、誰もこんなに悲しい想いをせずに済んだのかもしれない、と。しかし、なまえは降谷の赤裸々な話を聞いて、別の角度から、こうも思った。

 もし、降谷が急いで階段を駆け上がる音を、余裕のなかった景光が他の組織の仲間の足音だと勘違いしたとしたら。もう逃げ場がないと感じて赤井の隙を突き、その引き金に親指をかけたと考えてもおかしくはない。でも、そんな仮説はもう何の意味もなさないということはわかっていた。なぜなら、悪いのは景光を追い詰めた組織そのものであり、降谷でも赤井でもないということはわかっていたから。


「意外だな」
「え?」
「もっと、泣くかと思ってたよ」


 降谷はそう言うと悲しげに笑い、泣かずに乾いているなまえの頬を愛しそうに目を細めて撫でた。シャワーを浴びたばかりと比べるとその体温はすっかり冷めきってしまっていたが、確かに彼女は今、降谷の目の前で生きている。彼にとって、それだけが救いだった。景光の死後、さらに伊達まで死んで。本当の降谷零を知る人物はこの世界から絶滅し、とうとうひとりぼっちになってしまったという感覚が彼の背後には延々とつきまとっていた。しかし、もう関わり合いを持つこともないと思っていたなまえにこうして再び出会ってしまったことで、自分の宿命を悟ったのだ。

 降谷は、ベルツリー急行の乗車中に聞いた、耳を疑うようなベルモットの話を思い出す。組織のことをなまえがどれほど知っているのかは知らないが、なぜかベルモットは彼女のことを随分前から既知していたようで、さらには「殺し損ねた」とまではっきりとのたまったのだ。そのとき、降谷は猛烈に頭に血が上るのを感じた。なまえまでも死神に取られてしまうところだったのかと思うと愕然とし、今まで自分は何をやっていたのだろうかと後悔すらした。誇り高き公安警察となって、この愛すべき日本を守っていくその前に、自分はたった数名の命すらも守れなかった。そう思うと、毎日ひどいくらい自分を責めて、地獄のような苦しみを味わい続けていた。むしろその生活が、誰も救えなかった自分自身への報いだとすら思って、なまえにも去られることを納得していたのだ。だけど、やっぱり。

 目の前のこの暖かな命だけは、何があっても絶対に諦められない。

 一方のなまえは、降谷に指摘されるまで自分が泣いていないということに気がついていなかった。確かに景光の死を受けて、その心は引き裂かれそうになるほど痛んでいる。だが不思議なことに、話をしている最中の降谷と同じく、彼女の目からは一切涙が出てこなかったのだ。それは決して、彼女が薄情だからというわけでもなく、もう涙が枯れ果てて尽きてしまったからというわけでもない。じゃあ、何なのかと問われても、上手く説明ができなくて。泣いていないことを自ら責めるような気持ちにもなった。

 なまえはその理由について目を伏せて、じっと考え込む。そして、応えることができないことをもどかしく思いながら苦し紛れに降谷の顔を見たとき、ようやく悟った。その理由は、彼にあったのだ。


「本当は、壊れるくらい泣きたいけど」


 そう言いながら、なまえは自分の頬に触れる降谷の手に手を重ねた。そしてぎゅっと抱きしめるみたいに握って、ひときわ綺麗に笑う。

 その表情には「光」が見えた。


「私よりも泣きたいのは、零の方でしょう?」


 彼女のその発言に、降谷は心底驚いてしまった。

 萩原や松田の死を聞いても。伊達が死んだことを聞いても。そして、景光の亡骸を目の前にしても。思えば降谷はこれまで一度たりとも、涙を流したりはしなかった。それが自分にとっての強さだと思っていた。けれど、今、なまえに言われてようやくわかったのだ。それがただの、強がりだったことを。

 高二の終業式の日、自分たちに「光」を与えたいと言って笑ったなまえ。それから十二年もの歳月が流れた今、ひとりぼっちで生きていた降谷に確かな「光」を与えたのだ。それが彼にとってどれだけ心強いものになったかは計り知れない。塞き止めていた感情が、時間が、色彩が、彼の中でようやく色づいて流れ出したように感じられて。それを吐露する方法をようやく知ったように思えた。それは恥ずかしいことだし、できれば避けたいところだったが、今はもうその感情を彼自身ですら遮ることができない。

 降谷はなまえの頬から手を離すと、彼女に向かってこう言った。いつも通りの、愛想のなさで。


「肩」
「え?」
「ちょっとだけ借りる」


 そう言ったかと思うと、降谷はなまえの肩に自分の額を預けて、絶対に顔を見せないようにじっとそのままうなだれた。その後すぐに、彼に借りた衣服に染み入る暖かな水滴を感じたとき、なまえは堪らずに震える降谷の背中をさすってやる。

 彼は声もなく泣いていた。その様子が、なんとも意地っ張りな彼らしくて。泣かないと思っていたなまえも、堪え切れず静かに泣き出してしまうのだった。

 今まで散々長い話を聞いても泣かなかったのに、降谷が泣いていると思うとつられて泣き始めてしまう自分がなんだか情けないなとなまえは思っていた。でも、今だけは本当の彼を知る一番の友人として、できる限りのことをしてあげたい。それくらいしか、できることがないから。

 そのまま彼らは頭を寄せ合って、泣きながら眠った。外では、明け方まで涙のような雨が降り続いていた。


case122a. 涙と光


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