10…
なぜか時計も見ていないくせに今がとっさに夕食の時間だということはわかったが、明らかにここは私の家ではなかった。誰の家だろうと不思議に思っているうちに、ああ、これは夢だなとまるでマジックの種を知ってしまったときのように冷めた事情がわかってしまう。図書館で夢に纏わる本を借りて読んだ、いわゆる「メイセキム」という奴なのだろうか。私の予知夢の中には稀にそういうことができるような夢があって、その場合の私はいつもとはうってかわって勇気を出し、大胆な行動に出ることもあった。
それにしても、ここは一体どこなのだろう。何となく、見たことがある場所のような気もするんだけど……。
何か手がかりを探ろうと辺りを見渡せば、ひとまずここは誰かの寝室であるらしいことがわかった。横並びに置かれたシングルサイズのベッドがふたつと、部屋の端にスリットのある木目調のクローゼットがある以外はほとんど何もなく整然としている。枕元のサイドテーブルにはミモザの芳香剤が飾られているが、嗅覚が上手く働かず、何も匂いを感じられないところに夢らしさが際立つ。きっと綺麗好きな大人の部屋に違いない、そんな落ち着いた印象を受けた。
部屋の様子を遠慮もなくまじまじと見渡して調べていると、急に別の部屋から激しく言い争う物音と男性の断末魔のような悲鳴が聞こえてきた。私は驚いてとっさに開け放たれていた部屋のドアから飛び出し、灯りがついているのに仄暗い感じのする廊下を見つめる。
あれ? この廊下、見覚えがあるような。そう思った瞬間、すぐにひとりの女性が血相を変えて、小さな男の子を抱えて視界に飛び込んできた。
その男の子には確実な見覚えがあった。彼こそ間違いなく、私の親友である諸伏景光。そして、ここは以前、高明くんによって通された諸伏家の中であるらしかった。
「ヒロ! どうしたの!?」
景光を抱えている女性は彼のお母さんなのだろう。彼女は私の呼びかけや視線には一瞥もくれず、大慌てでさっきまで私がいた寝室に入っていく。開け放たれたままのドアからその中を見ていれば、彼女は何を思ったのかクローゼットの中に抵抗する息子を押し込めていた。
「しばらくここに隠れてなさい! 私が『いい』って言うまで出てきちゃダメよ!」
「怖いよ、お母さん!」
「大丈夫。後でまた迎えに来るから!」
そう言って、彼女は息子の半泣きになった声も一緒に閉ざしてしまうかのようにクローゼットの扉をピシャリと閉めた。そして、覚悟を決めたようにもう一度、仄暗い廊下へと出ていってしまう。私の姿は目にも入っていないらしく、何の反応もない。
「ヒロ、どうしたの!」
その、あまりにおかしな様子に、私は彼の入れられたクローゼットのスリットから中を覗いて叫ぶように声をかけた。しかし、親友はそこでひとりぶるぶると震えているだけでこちらには一切気付く様子がない。軽くノックをしてみるもまるで雲を叩くように軽く、私は混乱とともにクローゼットを開けようとした。
けれど、その手は虚しく宙を掻き、まるでそこに存在していないかのように触れることもできなかったのだ。
「なんで」
そのとき、私は仮説ながらすべてを悟った。
おそらく今ここに存在していないのは私の方だった。まるで幽霊にでもなって、彼ら一家に起こっている出来事を追体験しているのだ。いや、ひょっとすると本当に一番先に殺されてしまったのかもしれない。だから、誰にも姿は見えないし声も届かないのだ、と。
自分がなぜそうなっているかもわからないまま、今度は廊下の向こう、おそらく玄関の方向から女性と男性が言い争う激しい声が聞こえて再び思わずびくついた。きっと女性の方が景光の母で、男性の方は不法侵入してきた「誰か」なのだろう。断末魔の男性とは声が違ったし、諸伏先生はこんな声じゃない。
しかし、それもすぐに女性の短い悲鳴と共に止み、沈黙が苦しくなるくらい一気に家中がしんと静まり返ってしまう。そして、誰かがこちらに近づいてくる足音と共に、なぜか歌うように楽しげな声が聞こえてきたのだ。
「もういいかい、まーだだよ、もういいかい……」
気味が悪かった。まるで誰かと本気でかくれんぼでもしているような、そういう気の狂った声。
声は次第に大きくなり、もうすぐこの寝室にやって来る。足音が近づいている。このままでは有里ちゃんと同じく、クローゼットの向こうでひとりで震えている景光を私はまた救えずに見殺しにしてしまう。
『もっと、と君がそう思うのであれば、次はそれにいち早く気付ける人になれるよう努力するしかない』
そうだ、あのとき高明くんがそう言ってくれたから。だから私は一刻も早く、この狂気じみた幽霊の夢から目覚めなければならなかった。例えこの夢が本当に夢で現実でなかったとしても、単なる趣味の悪い悪夢だったとしても。もう友達を失くすのは絶対に耐えられないから。
「起きて、お願い。起きて!」
私はクローゼットの前で、強く目を閉じながら自分自身にそう絶叫する。早く起きて、私。お願いだから!
Phase.10 そこで世界は暗転する