16…
「随分と勉強が得意になってきましたね」
水曜日。いつも通り高明先生に先日返却されてきたテスト結果を数枚見せていれば、彼は一枚一枚丁寧に見つめつつ、しみじみと感慨深そうにそう呟いた。浅はかな私はもう一度言って欲しくて、たまにお母さん相手に使っている“忍法 聞こえないふりの術“で平然と聞き返してみたけれど、さすがはスパルタ、一度しか言ってくれず。お前の思考回路なんてお見通しだと言わんばかりに口元だけが緩く頬笑んでいるからつい恨めしくなる。ちぇ、ちょっとくらい褒めてくれてもいいじゃん。
「なまえ」
「はい?」
「今日はもうノートをしまってください」
「え」
もしかして私、免許皆伝した? 忍術繋がりでついそんな小ボケが出そうになるのを抑えていれば、その前に高明くんが黙って机の上をすべて片し始める。とりあえず私も、何が何だかよくわからないまま言われた通りに問題の途中でノートを閉じた。
「どうしたの? もしかして早く帰らないといけない用事とか?」
「いえ。最近よく頑張っている君にご褒美をやらなければと」
「ごほうび……?」
「ちょっと遊びに行きましょう。たまには息抜きも必要でしょうから」
まさか彼の口からそんな言葉が出ると思っていなかった私は、驚きと嬉しさで思わず破裂するように顔がにやけてしまった。きっと高明くんは何とも思っていないんだろうけれど、私からすれば所謂デートというものにあたるのではと要らぬ妄想で心臓がバクバクと駆け足になる。落ち着け、私。たぶん、本当に高明くんは私のことなんて弟の友達の石ころくらいにしか思っていないんだから。
いや、石ころはいくら何でも景光に失礼かな。せめてカボチャ……? って、あーもう、さっきから何考えてるんだ私は! 脳内で騒がしく会議をし始める私の中の天使と悪魔を押さえつけて、私はさっさと置いていかれないように帰り支度を急いだ。
その間、一切高明くんの顔は見れない。だって、すっごく今、緩んでだらしない顔してるんだから。
ご褒美と言われて連れられて来たのは、長野で最も有名な寺にある仲見世通り。通称、食べ歩きロードだった。長野にずっと住んでいるが、逆にあまり行くことがないのでちょっとワクワク。それにお腹も空いていたし、そんなに高価でなければいくつか奢ってあげると言われたので、私は遠慮なくキョロキョロと辺りを物色する。まず絶対外せないのがおやきでしょ。それからコロッケでしょ。磯部焼きのお餅が串に刺さったやつに、海苔巻き焼きおにぎり。あと普通にお醤油味のお煎餅とか、濡れおかきも捨てがたい。でも全部は食べられないしなあと思いつつ、高明くんに伺いを立てようと彼を見やれば、当の彼はなぜか静かにお腹を抱えて笑っていた。
「え、何」
「いや、君はたぶん大きくなったらお酒に気をつけた方がいいかと」
「え」
「さっきから列挙しているものが、しょっぱいものばかりなので」
しまった。私はまた赤面しつつ、両手のひらを頬に当てて熱を逃そうとする。可愛いアイスとかパフェとかクレープとか、そういうものを語尾にハートマークを付けつつ言えばよかったのに。
「しかし、僕も甘いものに付き合うよりは気が楽です。大人になったらぜひ飲みに行きましょう」
「高明くんはビールとかよりもワインとかが似合いそう。洋酒? っていうのかな」
「君に指南できるように鍛えておきます」
そういうのも教えてくれるんだ。私は大人っぽい会話に既に酔いそうになりながら、高明くんの未来の中に当たり前のように私がいること前提で話が進むことの方がこの上ない幸せだった。
まず、私たちは長野県民として最もポピュラーな野沢菜のおやきを半分こして食べることにした。信州味噌で味付けされた野沢菜がシャキシャキしてて美味しい。半分くらいならと男の子らしく一口で食べてしまう高明くんに対し、小さな口で熱くて食べるのに時間がかかる私。時間がかかってごめんねと眉根を寄せて謝れば、そのしわを伸ばすように高明くんの大きな指が私の眉間を一瞬なぞる。
「杞憂です。どうぞ、ゆっくり食べなさい」
「は、はい……」
彼の手が大きくて一瞬視界が遮られたことにびっくりしたけれど、それよりもその後に見えた表情がとびきり優しいことにもびっくりして上手く言葉が出てこなかった。
その後も私のお願いする通りに買い食いして、その度に仲良く半分わけあった。その方がたくさん食べられるからと私は言い訳したけれど、本当は彼とできるだけたくさん同じものを共有したかったのだと思う。途中、「以前のレストランでも思いましたが小学生にしては結構大食いですよね」とまたからかい気味に指摘されたけれど、今度はそんなの何のその。むしろいっぱい食べて余計にその嘲笑を吹き飛ばした。でも、さすがにもう晩ご飯食べられないかもしれない。
途中で飲み物を買いに行くという高明くんを見送って、私は彼を待ちながらお店の前で道行く人たちを眺めていた。すれ違った学生が五角形のかたちをした合格守りを持っていて、それを何となく見送る。高明くんが東都大を受ける頃、私は六年生だ。その頃ならひとりで外出して、ここまでバスに乗って買いに来られるかもしれない。きっとお守りなんてなくても大丈夫だと思うけれど、心の拠り所としての安心材料は、ないよりある方がいい。そんなことを勝手に思ってしまう。
それと同時に、私は気が付いてしまった。私が中学生になったとき、東京へ進学した高明くんはもうこの街にいないんだということを。東都大から警察官ならエリートコースを歩んで本庁の刑事さんになり、そのままこんな田舎には帰ってこないかも、なんて。景光と同じ東京に住まいを置くことは彼らにとってはとてもいいことで、背中を押してあげなくちゃいけない。けれど。
私はまた、ひとりぼっちになっちゃうんだろうな。
「また考え事ですか」
そう声をかけられて思わず振り向いた。いつの間にか涙が目に溜まっていて、こぼれ落ちそうになるのをどうにか気をつける。
「どうしたんですか。そんな迷子のような顔をして」
「え、へへへ……大丈夫」
「そうは見えませんけど」
「本当! 目にゴミが」
そう言って目を擦ると、人差し指の節に小さな水滴がついた。私はそれを風に流して、口角を上げて取り繕う。高明くんはきっと気付いているけれど、無理矢理その理由を問いただしたりはしない。私はそれが彼なりの優しさだということを知っている。
「もう十分食べてお腹いっぱいでしょうけど」
これを、と差し出されたものに私は驚いてしまった。それは久しぶりに見たあの棒付きキャンディで、あの遠足の日以来、買うのを控えていたものだった。
「土産物店で偶然売っていて、思わず買ってしまいました」
これを見ると君を思い出すんですよね。そう言って笑う彼に、必死で涙を引っ込めた迷子の私はまたも泣きそうになる。私も同じだ。私もその飴を見るだけでどうしようもなく高明くんのことを思い出す。それだけで、私はもうひとりぼっちじゃないんだって強く、強く、気付かされた。
「高明くん」
「はい」
「私、これからも勉強頑張るね」
同じ東都大には行けないかもしれないけれど。せめて同じ警察官になって、同じ景色が見たい。たぶん私はずっと高明くんのことが好きだろうから。
Phase.16 ずっと追いかけ続けたい
最後のデザートとしてもらった飴を舐めながら、私は帰りのバスの中で高明くんに可愛くお願いする。これからも勉強を頑張る。それもすっごく、ものすっごく頑張るから。
「だからときどき、こういうご褒美欲しいなあー」
「調子に乗ると足元掬われますよ」