17…
夢を見て飛び起きたのは久しぶりだった。時刻は朝の八時半。少し寝坊気味だけれど、休みの日で特に予定もない日だったのでこのくらいの時間ならお母さんに怒られる心配はないだろう。夢の中の出来事が何時だったかなと思い出しながら私は窓を開けて、雲ひとつない眩しい空を見上げた。
飛び起きた理由は悪い夢を見たからじゃない。むしろその反対で、あまりにもいい夢で早く現実でも起こって欲しかったからだった。私ははやる気持ちを抑えながらとりあえず自室を出て、いつも通り顔を洗って、歯を磨いて、着替えをする。そしてかかってきた電話にお母さんが出そうになるのを静止して、代わりに軽く喉の調子を整えるために二、三回咳払いをしてから応答した。
「もしもし、みょうじですけど」
「もしもし。諸伏……景光ですけど」
「ヒロ!」
「なまえちゃん? 久しぶり!」
そう、今日見た夢は景光から電話がかかってくる夢。電話口から元気に聞こえてきたのは、懐かしさで胸がいっぱいになるくらい私を幸せな気分にしてくれる大好きな親友の声だったのだ。
電話口ですぐ景光は笑って、改まって話すとちょっと緊張するねと言ってくれた。私はそれを肯定し、景光の声が聞かぬ間にちょっとだけ大人っぽくなったと指摘する。それは決して彼が早めに声変わりしたというわけではなく、久しぶりの会話で、かつ電話を通してスピーカーで聞いているから余計にそう思うのだろうと推測した。遠く離れた東京の地にいる彼にとっても、なんら変わっていないはずの私の声はちょっと違って聞こえているらしい。
「声が出ないとき、ずっと優しく話しかけてきてくれてありがとう。そのこと、直接自分の口でお礼が言いたかったんだ」
「いいよ、そんなの。当たり前のことだし」
「全然当たり前なんかじゃないよ。あのときの僕にとって兄さんとなまえちゃんだけが頼りだった」
「ヒロ……」
私は景光の言う「あのとき」を深く詮索しなかった。高明くんに控えるように頼まれていたからだったけれど、たぶん頼まれなくてもそうしたと思う。彼が負った心の傷は一生かかっても癒えることはないということはわかっていたし、私も未だにどういう風に触れていいものかわからない。ただ、彼が話を聞いて欲しくなったときが来たら、そっと肩を抱いて気の済むまで耳を傾けよう。そんな心の準備だけは既にずっと前からできていた。
「手紙もありがとう。こっちで何回も読んでるんだ。いつも短い文でごめんね」
「ううん、私も短くて。長く書いても短く書いても切手代は同じなのにね」
「あはは! 僕も同じこと思って、同じことゼロに言われたよ」
景光の口から出てきたその名前に自然な親しみが込められていて、私にはそれがとても羨ましく感じた。新しい友達ができていないことを度々高明くんに指摘される私は、そのことをずっと景光には隠している。こうして、せっかく前を向こうとしている親友に余計な心配をかけたくない。ゆえに、手紙の話題がなくて、つい高明くんのことばかりになっちゃうんだけど、と心の中だけで苦笑いを浮かべておいた。
「噂のゼロくんか。会ってみたいな」
「うん。いつか絶対紹介する。いい奴なんだ」
「わかるよ。ヒロの手紙、読んだらわかる」
「うん、そうでしょ」
得意げになる景光が可愛くて、私はくすくす笑った。ゼロくんもいい人なんだろうけれど、やっぱり私は景光のそういう明るいところが大好きらしい。
「兄さんのこともありがとう。なまえちゃんのことだから、僕がいなくて寂しくならないように勉強教えてって頼んだんじゃない?」
「すごい、図星だ。でも、高明くんには言わないでね」
「もちろん。兄さん、弟の代わりに妹ができたって喜んでたよ。いつも兄さんからの手紙はなまえちゃんのことばっかり」
まあなまえちゃんからの手紙も同じくらい兄さんのことばっかりだけどね、と笑われたが、私はそれを聞いて顔が一瞬で熱くなった。好きな人に話題にされて嬉しくないわけがないからだ。
「ち、ちなみに高明くん、私のこと何て書いてるの?」
「そうだなあ……。成績が上がってきたからお前も頑張れとか、自分の勉強が終わった後は本を読んで待っていてくれるだとか。あっ、あとこの前、食べ歩きしたんでしょう? よく食べるって書いてあった!」
「よく食べる……」
「食べないよりはいいじゃん。僕、いっぱい食べる女の子好きだよ」
励ましのつもりで言ってくれる景光の言葉が胸に沁みる。私は今後、ちょっとだけ高明くんの前では食べるのを控えめにしようと神に誓った。でも、美味しそうな食べ物が目の前にあったら果たして我慢ができるだろうか。うーん。
そうして景光そっちのけでウンウン唸っていれば、電話の向こうで微笑んでいたらしい彼が恐る恐る私に尋ねてきた。
「ねえ、なまえちゃん。あのね、兄さんから聞いたんだけど……」
「うん?」
「その…… なまえちゃんも警察官を目指してるって聞いて……」
景光は私が高明くんから言われた一部始終の話を知っているようだった。つまり「向いていない」だとか「反対」だとか、そういう内容のことを彼から聞いたと言う。でも、私はもう決めて走り出しているんだから。たとえ景光も同じ考えだったとしても、それだけはもう譲れないんだ。
「うん。なるよ」
「っ!」
「ミッちゃんと三人で言ってたじゃない。ヒーローになろうって」
虫取りの帰り道に高明くんとした約束のことを景光が知っているのかはわからないから、私はミッちゃんの名前を出して彼にそう言ったやった。仮面ヤイバーにはあまり興味がなくてきちんと見たことはないけど、掛け声やキメのフレーズならさすがに知っている。私はおどけてそれを真似しながら、強くて格好いいヒーローになりたいんだ、と笑った。景光には決して、自分達のせいで私を巻き込んだと感じて欲しくなかったから。
けれど、彼から返ってきたのは以前のようなヒーローを目指すという子どもらしい言葉ではなかった。
「僕も……僕もこっちで目指すよ。警察官」
「!」
「そしたら、所属が違っても僕らは同期だ」
同期。その言葉が何だか格好良くて。私たちは互いを励まし合いながら、その日はしばらく身の上話に花を咲かせたのだった。
Phase.17 意趣返し
「どうしたんですか。何かいいことでもありましたか」
景光から電話があって以来、初めての勉強会の日。私は高明くんの顔を見るなり笑みがこぼれ、冷たい自習室の机に頬をつけてへらへらとその熱を冷ましていた。すると、すぐに高明くんには気味悪がられたらしく、やや引きながら彼は私に質問を投げかける。もちろんへらへらしている理由は景光から電話があったからだが、本当はそれだけじゃない。
私は知っているのだ。実は高明くんが景光に送る手紙に私のことばかり書いているということも。この勉強会自体を、本当は高明くんも喜んでいるということも。湾曲した解釈かもしれないが、私を妹のように可愛がっているということも。
今さら変な子と思われたところでもう何ら支障はないので、私はそのままもったいつけてしばらくにやにやと笑っていた。だが、高明くんが自分の自習に集中できないと言うので、私はようやく彼の質問に答えるべく頭を上げる。
「実はね、この前、ヒロから電話がかかってきて」
「……」
「高明くんが、私のことをヒロに『妹ができた』って喜んでたって聞いたから、嬉しくなっちゃって。それだけ私が可愛いから仕方ないよねーなんて、えへへ」
あまりに直球で言うのは恥ずかしいから冗談を言うみたいに茶化してそう言って、再び頬を机につけてひんやりした温度を味わう。もちろん、目線は彼の方を見たままで、にやにやは相変わらず止まない。
高明くんはしばらくこちらを見つめていた。しかし、すぐに興味を失ったように持っていたプリントの束の角をとんとんと机の上でまとめ始めた途端、視線が合わなくなる。なーんだと拍子抜けして見守っていれば、彼は私がじっと見ていることに気付いたようでその視線を追い払うように咳払いをした。
「……でしょう」
「え?」
「これだけ懐いてくれるんですから、君のことを可愛いと思わないはずがないでしょう。……と、言いました」
すると、ほんのりと頬を赤らめた彼の、瞳が一瞬だけ拗ねたようにこちらを向く。そういえば、以前も初めて例のキャンディをもらったとき、彼はそのときも咳払いをしていたっけ。
つまりこれは、彼なりにものすごく照れているという証拠なんだ。私はそれに気が付くと、さっき冗談めかして言っただけの「私って可愛い」的な発言がまさか彼の本心であることを知って、ボッと火がついたように顔が赤くなってしまう。とっさに顔を上げて忙しくノートを広げ始めるが、もう遅い。私は高明くんの復讐心に、意図せず悪戯な火をつけてしまったのだ。
「そういえば。今度、駅前のカフェで軽食込みのスイーツ食べ放題があるそうですが」
「えっ、行くっ」
「おや? そういえば景光から聞きましたが、僕の前では今後は食事を控えめにするんですってね。残念です」
「あーっ! えーっ、そんなあ……!」
「学期末の通知表、オール優で検討します」
「すぱるたすぎる……」
「何か?」
「いや、何も」
しょぼくれている私を横目に、高明くんが優しい目で笑っていたことを私はきっと永遠に知らない。