18…



Phase.18 だから嫌いになれない


 光陰矢の如しと昔の人は上手に言ったもので、そうした平穏な日々はあっという間に過ぎていった。高明くんとの勉強会も、景光との文通や電話でのやりとりも、私の予知夢体質も。何も変わらず同じように継続して、季節は冬。誰かが言う通りよく食べるおかげでここ数年で一気に背が伸びた私は、とうとう最終学年である小学校六年生になっていた。

 今日に限ってマフラーを忘れた私は駅員さんからもらった男物のパスケースをコートのポケットにしまうと、肩をすくめながら白い息を吐いてゆっくりと図書館に向かって歩き出した。小学校一年生のときに始まった勉強会ももう六年目。なんとか継続はしているものの、近頃はもはや彼が初めに提案したように高明くんの受験勉強の息抜き時間に一役買うようになっているらしい。隣で静かに自習をして、思い出したようにたまに私に質問されるのが心地いいのだとか。勉強の息抜きが勉強とは。やっぱり、天才の考えることはちょっとよくわからない。

 一方の私は高明くんのことが相変わらずずっと好きでふとした瞬間にもドキドキしているというのに、それが一向に報われないでも同じ気持ちで六年間共に過ごしているのだから、我ながら誇らしくなる。小学一年生から水をやり続けていた芽が立派な大樹にまで育ったような、例えるならそんな気持ちだ。きっと高明くんは私の気持ちなんて考えもしていないだろうけれど、もうそれでいい。

 今日の夢は、珍しく高明くんがパスケースを落としたという夢だった。夢の中では無事に解決していたし、些細な夢だったから無視してもよかったのだけれど、私は気になって、彼の知り合いだとお願いして拾い主である最寄駅の駅員さんから無事に受け取っておいた。受け取りながら言うのもなんだが、予知夢だとバレずにどうやって渡すのが自然なのかを考えるのが一番難しい。やっぱり無視した方がよかったかもしれないが、自習中、ずっと受験生をそわそわさせるのも可哀想だし……。そんなことを悶々と歩きながら考えていると、背中をトントン叩かれて顔を覗かれた。この数年ですっかり大人になった、高明くんだった。


「なまえ。すまない、実は」
「た、高明くん。もしかしてパスケース落とした?」
「ああ……そうですが、なぜそれを」
「じゃーん。私が持ってるから」


 私はポケットからそれを取り出し、彼の手にポイと乗せた。そして、出会うのが早すぎてまだ思いついていない言い訳を必死で探しながら、できるだけまだ理由を話題にしないように取ってつけた鼻歌混じりで今日の宿題の内容をつらつらと彼に暗唱しながら図書館に向いて歩いてみせる。高明くんは中身が何もなくなっていないことを確認してから、私に肩を並べて歩き出した。


「待ってください。これを、どこで」
「駅だよ。駅員さんが拾ってくれたみたい。見覚えあったから聞いたらあってた」
「そうですか……。ありがとうございます、助かりました」


 ほっと胸を撫で下ろす彼を見て、私は気まずくちょっと微笑む。高明くんが焦っていた理由を私は夢で見て知っていた。パスケースの中に、今週末に控えた東都大学の受験票が入っているからだ。


「そんな大事なもの落とすなんて、ちょっと気が抜けてるんじゃないかね。諸伏高明くん」
「本当にそうですよね。ただ、受験を心配しているわけではないのですが」
「おっ、さすがA判定。余裕だね」
「落ちるところを受けても仕方がないので」


 わー、そんなこと言ってみたい。からかいながら笑ってそう言うと、寒さで白い息がもわもわとたくさん出た。私ももうすぐ中学生だが、進学先は高明くんの母校でもある至って普通の公立中学校なので受験の心配はない。高校は今の成績なら同じく高明くんの母校へ行けるだろうけれど、そこから先のことは警察官になること以外はまだ未定だ。

 にしても、高明くんの先ほどの言葉が私にはちょっと引っかかった。受験を気にしているわけではない、ということは、裏を返せば受験以外の何かを気にしているということになる。私はそれが何なのか彼に尋ねようとした瞬間、もふもふとした柔らかいもので視界が一瞬いっぱいになった。それが彼の藍色のマフラーだということに気付くまで、少し時間がかかった。


「今日はマフラーを忘れたんですか。図書館に行くなら膝掛け代わりにもなるのに」
「いいよ、高明くん! 今、一番、高明くんが風邪引いちゃいけない時期なんだから」
「君が風邪を引いて週末に寝込まれる方が気になって試験に支障が出ます」
「引かないよ! ほら、何とかは風邪引かないって」
「君は馬鹿じゃない。ずっと通知表もオール優なのを知っています」
「私なんて、高明くんに比べたら……」
「人と比べなくていいですから、まずは自分を大切にしなさい」


 そう言われると、もう引けなくて。私は高明くんの匂いのするマフラーに顔を埋めて小さく呟く。そういうことするからいつまで経っても好きなのをやめられないんだよ馬鹿、と。

 小学校六年生とは思っていたよりも多感な時期だった。早熟ながら一年生で初恋をしてしまった私はいまだに当時から好きな人の話なんて恥ずかしくて葵さん以外にはできなかったが、最近では周りでそういう話題が多く上がり、中には小学生同士で両思いになって付き合っている子もいるらしい。かくいう私も、男子にたまに告白されるようになったりした。頭がいいことが憧れだそうだ。そのことを高明くんに言うと「は?」と返されて終わったんだけど、景光に言わせればそれは重度のシスコンが発動しているらしい。重度のシスコンってなんだ。

 確かに妹で十分だとは思うけれど、何だかなあ。そんな気分でマフラーの暖かさにぼんやりとしていれば、急に大事なことを思い出した。私は、ガサガサと反対のポケットをあさって、小さな白い紙袋を取り出す。


「そうそう。あと、これ。パスケースに入れようかなって一瞬だけ思ったんだけど」
「これは?」
「合格のお守り。こんなのなくても受験は落ちないのかもしれないけど、私だと思って試験会場に持って行って」


 それはいつの日からかずっと高明くんの受験のために買おうと思っていた、五角形のお守りだった。

 あの日、ご褒美と称して食べ歩きをした日にすれ違いざまに見掛けてから、自分が高明くんに渡す場面を想像しては頭からそのお守りが離れてくれなかった。本当はもうちょっとロマンチックに渡してあげたかったけれど、私は生憎、恋人じゃなくて妹だから。だから、こんな可愛くも何ともない渡し方がちょうどいいのかもしれない。そう自分で納得すると、なぜか心のどこかがチクリと痛む。


「受かったらお祝いしようね。また食べ歩きとかがいいかな。でもお祝いだからケーキでもいいし、高明くんはあんまり食べないかもだけどファーストフードとかでもいいよ。お小遣い、ちょっと貯めてあるし高明くんの好きなもの何でも……」
「なまえ」
「ん?」
「無事に入学できたら、一度東京に来てくれませんか」


 それは願ってもいない誘いで、私は息が止まる。


「ずっと考えていたんです。友人に先立たれ、景光とは離別し、僕まで君の傍を離れたら……君はまたひとりぼっちになってしまうだろうと」
「……」
「それが心配で考え事をしていたら、らしくもなく落とし物をしてしまいました」


 そう言って力なく笑う彼の表情が、次第に水の中に滲んでいく。雨が降ってきたわけじゃない。私が泣きそうになっているんだ。

 だから、もう、何よ。これだから、私は高明くんのこと嫌いになれないんだってば。

 私は彼の肩を軽くパンチして、コートのゴワゴワした袖で涙を拭った。不細工になるから極力泣き顔は見られたくない。好きな人の前ならなおさらだ。


「人がせっかく泣かないようにしてたのに」
「すみません」
「もういいよ。東京行くまで、このマフラー、人質にするから」


 それだけ言って、私は彼の手を引いて図書館を再び目指し始める。泣いていた雨はすぐに止み、得意のからかいを含んだ顔をして晴れて笑ってやった。


「その代わり、本当に受かってよね」
「当然です」


 高明くんの元に合格通知が来たのはその数週間後。しかも、首席で代表挨拶を願う通知書まで入っていたのだから、私は度肝を抜かすことになるのはまた別の話にしておこう。

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