19…
中学生になったばかりの身の上で、まさかたったひとりで新幹線に乗ることになるとはまったくもって思ってもいなかった。東京に来てと言われて容易く承諾したはいいものの、さすがに市内にバスでひとりお守りを買い行くのとは訳が違う。家族の猛反対にあうことは必須だろうと思い、じゃあどうやって説得しようかと考えあぐねていれば、お母さんは私が話すより先にあっけらかんと「で。いつ行くの、東京?」と尋ねてきて息が止まりそうになるほどびっくりした。私は目を点にさせたまま、しばらく疑問で頭がいっぱいになっていたが、今考えればお母さんがそう言うのも当たり前だったのだろう。実は裏で高明くんが既に私の親と連絡を取り合い、交通手段や送迎、都内での観光先に至るまで、一見するとやり過ぎなくらいすべての計画を報告・連絡・相談して家族の心配をクリアにしていたのだから。
というか、私の成績がものすごく伸びたからと言って、うちの母は高明くんを信頼しすぎなのではとちょっと不安になる。しかし、どう考えてもあの堅物真面目お兄さんが私に手を出す想像ができないので、それも当然なのかもしれない。悲しいけど。重度のシスコンと景光に称された通り、私のことを完璧に守り切ろうとする姿はもはや恋人などには程遠い皇族SPのようだ。……悲しいけど。
ともあれ、無事にひとりで新幹線に乗り込んだ私は季節外れのマフラーの入った袋を膝の上に置いて窓の外を眺めた。クリーニングに出して早数ヶ月。藍色のウールのマフラーは、主人の元に帰るのを今か今かと待ち侘びているように思える。
……いや、それは私も同じか。窓に反射して映る私の顔はまるで飼い主の元に帰る犬のようにウキウキして、無駄に頬を二回ほど叩いて表情を元に戻した。
東京駅のホームで待つ大学生の高明くん。どうか、神様。格好良すぎて卒倒しませんように。
Phase.19 東京小旅行
一方の高明は到着予定の新幹線ホームでコーヒーを飲みながら読みかけの小説に目を通していた。彼女が小学一年生の頃から六年間、ほとんど週に一度は顔を見合わせていた特別な女の子。東京に来てたった数ヶ月とはいえこんなにも顔を見合わせずにいたのは初めてで、柄にもなく、今から会うのがとても楽しみな気持ちになってしまう。元気にしているか、変わりはないか、いろいろ話したいことが多くて何から話そうかと考えていたとき、本の内容がまったく頭に入っていないと気が付いて静かに鞄の中にしまった。
まず気になるのは、成績の件だろう。彼女の師として長年勉強を教えてきたが、自分がいなくなった途端、勉強の習慣が疎かになることは十分ありうる。まあ長野を離れる際、口酸っぱく何度も勉学についての心得を話したのでとりあえずまだ大丈夫だとは思うが、場合によっては今日も成績については励ました方がいいのかもしれない。
次に気になるのは友人のことだ。彼女は特にあの事件以来、友人を作ることにあえて抵抗を抱いているように思える。その証拠に、景光とは電話や文通でやりとりをしているとはよく聞くが、他に友達がいるという話は聞いたことがない。中学生になり、少しでも気の合う子と友達になることができれば、残してきた身として少しは肩の荷も降りるだろう。そんなことを思う。
そして最後に気になること。それは何と言っても、中学生に上がって不埒な男に言い寄られたりしていないか、ということだった。彼女が小学一年生のときから知っているだけにもはや実の妹のような存在になりつつあり、その身の安全がやはり一番心配になってしまう。ああ見えてたまにどこか抜けているし、隙も多い。最近では同級生から告白のようなものを受けたとも聞いて、どこの誰だと嫌悪感すら湧いた。それは彼女に対して自分が恋をしているとかそういうことではなく、身内としてやはり交際する人間は自分が認めた人間でないと許せないという気持ちからである。もちろん景光も同じ気持ちであろうと電話をかけた際に賛同を求めれば、弟は唖然としながら「これは重症だ……」と頭を抱えていた。それから「なまえちゃん、ご愁傷様……」とも言っていたが、同意を得られなかった高明はそれどころではなく、結局、弟の言葉は耳に入らずじまいである。
以前、無粋なことを聞いてしまい、好きな人は一生教えないと言われてしまった手前、そういう人物がちゃんと現れたとしても聞くことは難しいかもしれない。だが、近くで守れない分、自分が東京にいる間はせめてなまえ自身で気をしっかりと引き締めてもらいたい。そういう意味を込めて、顔を見合わせたらお節介ながら一度注意喚起をするつもりでいた。まるで兄を飛び越えて父である。
腕時計に目をやると、そろそろ定刻だった。ホームにアナウンスが流れ、高明はベンチから立ち上がる。そして軽快に滑り込んできた新幹線の降車口から東京の地に踏み出した彼女を見つけ、少し息を飲んだ。
「あ、高明くんっ!」
その朗らかな表情が、あまりに眩しかったからだ。
「久しぶり、元気だった?」
私が歯列を見せた笑顔でそう尋ねると、高明くんは一瞬言葉に詰まってから返事をしてくれた。さては勉強であんまり寝てないな? と察した私は、照れ隠しで軽く髪を手直ししながら「疲れてるならどこかで先にお茶してもいいよ」と一応気を使って彼に言う。そしてあたりをキョロキョロとして、長野では感じない独特な都会の空気感ににやけが止まらず早くも酔ってしまいそうになった。人も多いし、熱気も高い。知らないおばさんとぶつかりそうになって思わず半歩後ろへ移動しようとすれば、すぐに別の誰かにぶつかった。おのぼりさんの私はすぐに謝罪を口にしたけれど、その言葉が相手に届くことはない。
なぜなら、高明くんが私の手首を捕まえて自分の方に引き寄せたからだ。
「人が捌けるまで少しここで待ちましょう」
「そ、そうだね……」
「それにしても、ひとりでよく来られましたね」
「当たり前でしょ。人質返さなきゃだし」
「ああ、マフラー。確かにそうでしたね」
いや、どうでもいいんかい。呆れつつ手を繋がれたまま私が見上げると、高明くんは少し首を傾げながら私を見下げて優しいお日様みたいに微笑んでいる。高校生までは圧倒的に制服で見かけることが多かったが、おしゃれなジャケットに黒いシャツ。一気に垢抜けて、大人っぽい雰囲気にくらくらした。やっぱり私はものすごく高明くんのことが好きみたいで、それが何だかすっごく悔しい。
きっと彼のことなので、繋いだこの手も特に他意はないのだ。私はそう自分に言い聞かせ、見つからないように下唇を噛み締める。そして、徐々に落ち着いてきたホームでようやく彼の手を離れ、流れるように出口へと指差した。
「何番出口がいいのかな。あっちでいい?」
「ええ。まずはタワーの方に行ってみますか」
「うわ、行きたい」
「では行きましょう」
そう言うと、彼はなぜか自分のジャケットの肘を私に指差す。そのハンドサインをポカンと眺めていると、高明くんはさも当然のようにこんなことを言ってのけた。
「人が多いので僕のここを掴んでおいてください。はぐれたら、君のお母さんに申し訳が立たないので」
「は、はあ。じゃあ、遠慮なく……」
「いい子ですね」
しまった、本当に卒倒するかも。私は再び神様に祈りを捧げながら、彼の肘を指先で少しだけ摘んで東京の地を歩き出した。