21…

 長野に帰宅した私に電話をかけてくれたのは、景光ではなく高明くんの方が先だった。特に用事はないらしいのだが、景光同様、今後はたまにこうしてお互いの近況を話し合うために電話をかけてきてくれるらしい。思う存分にやけていても相手に顔が見えないので、改めて電話とはいい道具だなと私は思う。だって、きっとものすごくだらしない顔をしてしまっているだろうから。高明くんの声を聞いているだけで幸せだなんて、自覚はあったけれど私は結構重症みたいだった。


「高校は高明くんと同じ学校目指してるんだ。だから勉強も頑張ってるよ」
「早くから目標を立てるのは、いい心掛けですね。わからないところがあればメールを送ってください。授業の合間に返信するので」
「ありがとう! 遠慮なく送るね」
「ええ」


 私は高明くんから聞き取ったメールアドレスを近くにあった正方形の付箋に書き写し、それを一枚引きちぎる。まじまじと見つめる英数字の羅列に、またひとつ、彼を知った気持ちになれた。

 満足状態で付箋を握りしめたまましばらくそうしていると、テレビのニュースが最近この近辺であった強盗致傷事件を報じていて一瞬ドキリとした。一日に数回は報じられているはずだけれど、未だに犯人は逃走中で何の手がかりもなし。繰り返し流れる防犯カメラの映像はとても不鮮明で、顔は見えずに黒いフードを被っている姿がよりいっそう不気味に感じさせる。

 ちょうど同じニュースを見ていたらしい高明くんが、しばらくして口を開く。


「長野の強盗事件。くれぐれも気をつけてくださいね」
「う、うん……」
「何度も言いますが常に警戒心を持つように。君に友好的な人間ばかりではないのですから」
「わかってる、気をつけるね」
「……」
「……じゃ、じゃあ。ちょっとこれから本屋さんに行くから今日はもう切るね、またね」
「ええ。また」


 これ以上その事件の話題を話したくなくて私は慌てて受話器を置いて、ひとまず安堵のため息をつく。時刻は夕方の四時を少し過ぎたところで、やばいと急いで制服を脱いで動きやすい服装に着替えを始めた。そして、東京での相棒になったスニーカーを玄関で履けば、とりあえずの準備はオーケー。いざ気合いを入れて勢いよく玄関の扉を開ける。学校から帰るときは降っていなかったのに、外はいつの間にか小雨が降り始めていた。

 高明くんには絶対に言えないけれど、実は今日、夢に見たのだ。彼や葵さんとの思い出のある本屋が、例の強盗に入られるという夢。今まで一度も事件を未然に防ぐことができなかった私は、今日初めて、自らの手が届きそうな未来を変えようとしている。

 私がこの事件を解決してみせる。そういう意気込みを持って、小雨の中、忘れた傘を取りにも帰らずに小走りで駆け出したのだ。




Phase.21 実験的な行動



 夢で見たのは次のような内容だった。事件は夕方、五時過ぎ。来店したひとりの客によって、書店のレジにいた従業員が静かに恐喝されるところから始まる。目的はもちろん、お金。他の客には気付かせないほどナチュラルに、黒いフードを被った男は店員だけに見えるように刃物をちらつかせて「金を出せ」と脅したのだった。

 しかし、一日に何度も報じられるあのニュースを見て知っている店員は、あの事件の犯人が来たと驚いて腰を抜かし、傍に置いてあった在庫の本の山を崩してかなり大きな音を立ててしまう。そのせいで注目を浴びてしまった犯人はやむを得ず、近くにいた小学校低学年の女の子を人質に金を要求し、まんまとレジの有り金をすべて持って逃げていく、というものだ。

 店員、客、人質ともに誰も怪我人はいなかった。私はたまたま好きな作家の新刊を見に来ていただけで事件に気が付くことすら遅れたが、一瞬でも人質の女の子に恐怖心を植え付けてしまうようなことは避けたかったし、その後、解放された際にその子が腰を抜かして倒れてしまうのも可哀想でできれば避けてやりたいことだった。そしてもし叶うことなら犯人を颯爽と捕まえて、逮捕に協力したい。警察官を夢見る者としては、そんな欲も、正直少しある。

 本屋はいつも通り静かで、ジャズ風のバックミュージックがささやかに聞こえる程度だった。入店した私はまずレジの店員を見つめ、その脇に在庫の本が山積みになっていることを確認する。おそらくあれが派手に落ちて音を立ててしまうのだろう。そう察する。

 そしてレジ前の女児向け漫画雑誌コーナーにいた小学生の女の子を見て、密かに「この子だ!」と私は心の中で大きな声をあげた。もう一度時計を見やり、事件まであと十数分あることを確認する。予知能力で変更する点はレジ奥の在庫の本ではなく、この女の子の方。計画通りに事が運ぶかはわからないけれど、とりあえず、やれるだけやってみよう。

 今まで予知夢を見ることはあっても、大幅に現実を変えた実績は一度もなかった。そもそも変える必要もないくらい些細なことを夢に見ることが多いし、大きな事件は結局何も変えられないままだとわかっていたから。あの日以来、夢を見たところで自分には何もできないと諦めていたという側面もある。

 だから、これが私にとって初めて意図的に現実を変えてみようと思い立ったことだった。事件に巻き込まれてしまう女の子や店員には悪いが、これはある種の実験も兼ね備えている。私の手によって未来が本当に変えられるのかどうかを、この期に確かめてみたかったのだ。


「あのー……ちょっといいかな」


 突然見知らぬ女に話しかけられたことによって、女の子の表情は一気に困惑が混ざっていた。私は恥ずかしさと申し訳なさに必死に抵抗しながら、たまたまここに居合わせただけで巻き込まれることになった不運な女の子にしゃがんで目線を合わせる。葵さんが昔、初めて会ったとき、私にそうしてくれたように。


「ごめんね、突然。怪しい者とかじゃないんだけど……!」
「は、はい……」
「いや、怪しい者じゃないとか言う方が怪しいよね。ごめんね」
「はあ……?」
「じゃなくて、ええと……。そこのファーストフード店で使えるジュースの引換券が当たったんだけど、私、使わないから。よかったら使ってもらえないかなと思って。期限が今日の五時までらしいから早めに、というか、今すぐに」


 そう言って、私は彼女の小さな手に引換券を無理やり握らせた。もちろんこの引換券は自ら急いで入手した単なるクーポン券だし、期限が今日の五時という中途半端な時間なわけもない。それでも、一刻も早くこの子を本屋の外から出さなくてはならなくて、理由は何でもいいからとにかく焦っていたのだった。

 彼女は疑いの眼差しを持って私をしばらく見つめていたが、引換券を目にすると小さく「ありがとう」と呟いてくれた。そして、くるりと踵を返し、店を後にする。引換券を楽しみにしてと言うよりは、一刻も早くおかしな女から離れたいという思いが正直なところだろう。でも、それでよかった。

 あの女の子がレジ前にいないということ。それは、私が予知夢で見た出来事の中で初めての大きく変更できた事例だと言ってもいいだろう。でも、万が一あの子がひょんなことからここへ戻ってくることがないようにキラキラ眩しい雑誌コーナーの前に恥ずかしげもなく陣取って店の入口を眺めていると、ほんの数分後には見覚えのあるひとりの黒い服の男が堂々とした立ち振る舞いで入店してきた。喧騒に混じってしまえば、意識していないと絶対にわからない。先ほど高明くんとの電話中に見たニュースの、犯人に間違いなかった。

 私は恐怖で少し、身のすくむ思いがした。でも、きっと大丈夫。あの子の代わりにもし自分が人質になった場合に備えて、急遽購入した催涙スプレーをそっと鞄に忍ばせておいたのだ。

 男は一瞬も本を見ることはなく、一目散にレジへと向かった。そしてボソボソとレジで会話を始めた後、すぐに店員が驚いて本の山を崩してしまう。大きな音で注目を浴びてしまった犯人は焦ったように周辺を見渡した。

 そこまでは注意深く観察できていたはずだったのに、気付けば私はその男に腕を取られて羽交締めにされ、身動きが取れなくなってしまっていた。私が夢で見たよりも素早い動きで、何の躊躇もなく犯人は私を人質に選んだのだ。そして、顔にナイフを突きつけ、レジにいた店員にもう一度、今度は店中に響き渡るようなドスの効いた声で金を出せと恫喝する。その隙に私は催涙スプレーに手を伸ばそうとして……それを見事に落としてしまった。

 カラカラと、缶が転がる空虚な音が、混乱する店内に響き渡る。しまった。そう思ったときにはもう遅い。


「なんだ、お前。なんでこんなものを……」
「うっ!」


 首に回っていた腕に力を加えられ、一瞬、息ができなくなる。バタバタと力一杯もがいて逃れようとするも、自分の力でだけはびくともしない。やばい。どうしよう。そう思った瞬間のことだった。

 ひとりの男性が私のいる方めがけて猛スピードで突っ込んできたかと思うと、犯人の男に華麗なるラリアットを決めて一瞬で沈黙させてしまったのだ。

 男の手から落ちた刃物はくるくると店の床を転がって、私と同じ歳くらいの女の子が機敏な動きで回収してみせた。そして、ラリアットを決めた男性は犯人に絞め技をかけて早くも馬乗りになっている。あれ、これどこかで見たような。そう思いながら、締められていた喉から一気に入り込んできた空気にむせて咳をしていれば、刃物を回収した女の子が私に近づいて優しく背中をさすってくれた。


「大丈夫? すぐに救急車呼んでもらうから」
「ありがとう……」
「おい、お前!」


 私は一瞬、馬乗りになっている男性が犯人にそう呼びかけているのだと思った。しかし、必死で取り押さえているはずの男性は犯人よりも数倍恐ろしい声とともにこちらを睨み、なぜか私のことを「お前」と呼んできたのである。私は意味がわからず、困惑状態で視線をそちらに向けた。


「お前だろ。コーメイの妹」
「え? い、妹じゃないですっ……! っていうか、なんで高明くんのこと……?」
「どっちでも構いやしねぇが、精々あいつに感謝するんだな」
「?」
「私たち、彼からあなたのことが心配だって電話で連絡を受けてこの本屋に来たの。たまたま近くにいたから」
「そうだ。たまたま近くにいたから、だが。ったく、いなかったら今頃どうなってたことか」


 にしても、あいつの勘、鋭過ぎねえか? と、面白くなさそうに言う荒々しい口調で、私はふと思い出した。数年前、まだ景光が傍にいた頃。高明くんと一緒にひったくりを取り押さえていた強面の同級生の人。そのときの彼が、今、目の前にいる人物に違いなかった。

 というか。夕方に電話した私の言動ひとつで心配してすぐに応援を頼んで見張りをさせていたという高明くんの方が、私は若干、恐ろしくなる。確かに本屋に行くことは伝えたが、そんなに挙動不審だったっけ。悟られないようにしたんだけどな。

 その後、すぐに警察と救急車が来て、危害を加えられた私は一度病院で詳しい検査を受けることになった。救急車の中で落ち着いて理解したことは、ひとまず、予知夢は変えようと思えば変えられるらしいということ。それから、高明くんにはあまり隠し事が出来なさそうだということ。

 病院から家に帰ってすぐ、心配で電話をかけてきた彼からたっぷり説教を受けるのは言うまでもない。

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