34…


 警察学校を卒業した後、私は長野の市街地から遥か南である新野というところに配属になった。希望では一応、恐れ知らずにも高明くんのいる県警本部を由衣とともに志願したのだが、学科の成績だけならまだしも体力的な面から考慮して外されてしまったのだと思う。それは仕方のないことだけれど、親友の由衣だけは無事に県警本部に所属となり、大和さんや高明くんと一緒に働くことになったということが本音を言うと少しだけ羨ましかった。

 けれど、由衣の不幸はもしかするとそこから始まったのかもしれない。彼女が警察官を目指すきっかけとなった甲斐巡査がなんと流鏑馬の練習中に崖から落ちて亡くなり、さらにその事件の被疑者(後に無関係だったと判明する)を追っていた大和さんが行方不明となったのだった。私は新野から何度も車を飛ばして、当時かなり憔悴していた由衣にできるだけ寄り添っていたが、とうとう彼女は大和さんの代わりに甲斐さんの事件を追うと決めて刑事を辞め、手がかりを掴むために流鏑馬を含む祭りの関係者の男性と結婚までしてしまった。後に心配になって彼女を訪ねてみれば今の生活に満足しているとは言うが、私は親友が「虎田」という姓になったことがいつまでも慣れなくて。電話帳の登録は未だ旧姓のままにしておいて、大和さんが無事に帰ってくることを人知れず待ち続けていた。

 一方、そんな出来事があったところで、私と高明くんは相変わらず一度も顔を見合わせることすらなかった。大和さんか景光が伝えてくれているとは思うから、私が刑事になっているということはさすがに知っているはずだけれど。会いに来ないことを考えると忠告を聞かなかったことに呆れて物も言えず、顔も見たくないのかもしれないと思う。ただ、何か大きな事件があったときなどは長野の南の果てであるここまで彼の名が轟くものだから、その名を聞く度に、私は古傷が痛むような気持ちになって心がざわざわと波立ってしまう。長野のコウメイ。そう言われて知らない刑事は、長野にひとりもいないだろう。

 その長野のコウメイが、本部から移動するのではと騒ぎになったのは今月に入ってからのことだった。なんと彼は本部の命令を無視して他県に入り、かなり強引な捜査をして大和さんが追っていた被疑者を逮捕。あんなに腐れ縁だと称していた彼の安否をその犯人から聞き出して、見事にその入院先まで発見したのだった。それは人間的に賞賛を浴びる行動ではあるが、組織的には容易に許されるものではない。さすがに人命が関わっていたことなので、そこまでするかなと私的には懐疑的だったが、署内では一躍「うちにコウメイが来るかも」と面白おかしく噂されていて嫌な気持ちになった。一度は本部に志願したくせに、こうなったらもう会いたいか会いたくないか私にもよくわからない。

 ひとまず大和さんのお見舞いに行こうと思い立ち、私は新野署の署長の元へと向かった。大和さんは私にとって刑事になる前からの大切な恩人なのだ、と若干大袈裟に話を盛って言えば、入院先の情報は簡単にゲットできた。刑事を離れている由衣はきっとこの吉報を知らないはずだから、早く彼の怪我の具合を報告してあげなくちゃ。そう思い、はやる気持ちを抑えて一路、病院がある北へと向かう。

 鬱陶しい、雨が降り始めていた。




Phase.34 懐かしさは甘い林檎の匂い



 仕事を終えてから愛車を飛ばして向かったのは、県の北部にある大きな総合病院だった。教えてもらった面会時間ギリギリだなと思いながら、雨の中、パンプスでダッシュして院内に入る。せめてお見舞いの品である林檎が濡れないようにと懸命に死守したため、鏡付きのエレベーターで見た自分の髪は想像より雨粒でキラキラと光っていた。私はそれを、犬みたいに乱暴に振り払う。

 教えてもらった病室はひとり部屋だった。雪山で雪崩に巻き込まれたと聞いていたため、一時は重篤な状態だったのだろう。その証拠に、職場である県警に連絡を入れることもできなかったのだろうしと考え、ドアノブを握る手が一瞬、止まってしまう。もし刑事が続けられないくらいの負傷だったら。そんな縁起でもないことが頭をよぎったが、刑事を辞めた由衣に事実を伝えるためにも、代わりに私が会わなければならない。そう奮い立たせてドアを開けた。


「おう、妹じゃねえか。久しぶりだな」
「大和さん、その目……!」
「足もご覧の通りだ。でも、安心しろ。俺はまだ刑事辞めねぇよ」


 そう言って、吊られた足を軽く上げて笑ってみせる。痛々しい姿には変わりない。けれど、思ったよりも元気そうにしている彼に心の底から安堵して、私は林檎を机の上に置き、ベッド脇に置かれていた椅子に浅く腰掛けた。

 私は大和さんのことを由衣に伝える使命があるのと同時に、彼に由衣のことを正しく伝える使命もあった。傍目から見ていて完全に両思いだった彼らの関係性は、大和さんの生死がわからなくなったことで大きく狂ってしまったと思う。私は苦虫を噛み潰すように複雑な顔をしながら、まずは彼に由衣の結婚について伝えなければならないと重い口を開いた。


「あの、大和さん。実は由衣が……」
「ああ、上原か。あいつ、刑事辞めて、結婚したんだってな」
「……知ってたんですね」
「コーメイがいろいろ教えてくれたよ。あいつも俺なんかのせいで移動になっちまって」


 面白くなさそうに彼がそう言うので、私は驚いてとっさに前のめりになった。


「高明くん、やっぱり移動になったんですか」
「そうみたいだな。どこになるかはまだ聞いちゃいねぇが」


 そして、深いため息。不器用で口下手な彼なりに、どうやらかなりの罪悪感を抱いているらしい。私は彼をなんとか元気付けるために、持参してきた名産の新野高原の林檎を取り出して「食べますよね、すぐ剥きます!」とまるで舎弟のように言い、それはそれは丁寧に剥いてあげた。途中、怖いもの見たさでうさぎさん林檎にしてあげようかとふと思ったが、真顔で怒られそうなので今日はやめておく。同じく持参していた爪楊枝に刺してあげると、割に喜ぶ姿が子どもっぽくて可愛らしかった。


「そういえば、お前、配属はどこだった?」
「私ですか? 新野ですけど」
「は? 遠ッ! クソ田舎じゃねぇか。よくここまで来たな」
「わあ、失礼なの変わってなくて安心しました」


 私は露骨な作り笑顔で笑いながら、さも感心しているように手を叩いた。やっぱりお世辞抜きで安心するな、このやりとり。


「さすがにコーメイの移動先が新野ってことはねぇな」
「ですよね」
「そうか、だが新野ってことは。小橋が亡くなった、あの希望の館があるところか」
「……」


 あの件もいたたまれねぇよな、と寂しそうに言う大和さんに私は言葉が出なくなった。小橋葵さん。いや、それは旧姓で、確か明石葵さんになったんだっけ。歳の離れた友達のようでもあり、お姉さんのようでもあった彼女は、実は三年前、持病の心臓発作で亡くなっていた。希望の館と呼ばれる場所で。

 生前の彼女はしっかりと夢を叶え、言葉通りに目指していた小説家になったのだった。特に私が好きなのはなんと言っても『二年A組の孔明君!』という児童書で。彼女の宣言通り、高明くんをモチーフとした少年を主人公として活躍させるという夢まで叶えてしまったのだから本当にすごいと思う。今でも宛名に私の名前が入ったサイン本は宝物として大切に保存しており、たまに読み返しては、私の知らない高明くんの小学生時代を想像する貴重なツールにもなっている。

 しんみりとしてしまった病室内の空気を壊すように、大和さんがふたつ目の林檎に手を伸ばした。私は皿に乗ったそれを差し出しながら、面会者としてとにかく彼を元気付けるために明るく振る舞う。


「早く元気になってくださいよ、大和さん。大和さんの刑事姿、また見たいです」
「任せとけ。俺はタダじゃ死なねぇよ」
「ふふ。それ聞いて安心しました。……あ、やば。もう面会時間終わっちゃう。じゃあ、また来ますね! 残りの林檎、ここに置いときますから」
「クソ田舎なんだからもう来なくていいぞ」
「田舎者扱いしないでください!」


 ゲラゲラと最後は気安く笑い合い、私は席を立って病室を後にした。今日はもう遅い。既婚者である由衣の都合もあるだろうし、とりあえず報告のメールだけ入れておいて、また後日、時間を見て電話を入れようと思う。ここから家までかなりかかるし、雨も降ってるから帰り道は気をつけないと。

 確か長雨になるんだっけ、と。そう思い、エレベーターホールの脇にある窓からすっかり暗くなった外を見つめた。そのとき、藍色のスーツ姿の彼が降りてきてすれ違ったことには、お互い気付かないままで。 





 面会時間をちょうど過ぎた頃、高明は特に遠慮することもなく堂々と大和の病室の扉を開けた。途端、甘い香りが鼻腔をくすぐり何だろうかと疑問に思う。視界に入ってきたのは面倒臭そうな幼馴染の表情と、机に置かれていた皿の上の林檎だった。


「おう、コーメイ。もう面会終わりじゃねぇのか?」
「ええ。君が追っていた被疑者の件で話があったので特別に許可をもらいました。それより、誰か来ていたのですか?」
「まあな」


 やけにニヤッとした笑みだったので、高明は思わず眉根を寄せる。しかし、大体の予想はついていた。わざわざ果物を持参し、皮を薄く丁寧に剥いて、爪楊枝まで持参する。そんな甲斐甲斐しい行動、女性以外に考えられない。そこから自ずと弾き出されるのは、県警から去った彼の幼馴染のことだった。


「虎田由衣さんはもう部外者ですよ。まさか捜査情報を漏らしたりは」
「馬鹿言うなよ。あいつじゃなくて、お前の妹だ」
「え?」
「みょうじなまえ。あいつは立派な刑事だろ」


 それに、何も事件のことは話してねぇよと面倒臭そうに大和が言う。ただ林檎を食べさせてもらっただけだ、とその表情は煽りを含んで少し自慢げな顔だった。

 一方、突然出てきた懐かしい名前に思わず言葉が詰まり、珍しく高明は何も言えなくなってしまった。さっきまで、なまえがここに。彼女に会う可能性もあったのかと思うと、悔しいと思えばいいのか、それともよかったと思えばいいのかよくわからなくなる。

 いや、違う。本当は。


「そういや、お前。どこに移動になったんだ?」


 大和が能天気に尋ねてくるので、一気にノスタルジックな想いからは引き戻された。高明は、ああ、と生返事をしながら先日辞令が出たばかりの移動先を彼に伝える。


「どうやら南信、新野になりそうです」
「あ? 新野!?」
「ええ。それが何か?」
「いや……、まあ、そういうこともあるよな」
「?」


 歯切れの悪い大和を置いて、とりあえず今日の目的である事件についての話を始める。そう思うのに、なまえが置いて行った林檎の香りがあまりにも甘いから。高明は気になって集中できずに、また持病のように何度も胸の辺りが疼くのだった。

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